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グッドラック  作者: 水野
5/9

その5

 新幹線の改札から現れた果歩は相変わらずだった。

 ちょっとした気晴らしだよ、と笑っていた。気晴らしで来るには遠い距離だ。その癖に、ドライブであちこち回っているときの果歩は、いつも通りを装いながらも、どこか落ち着かない様子を見せていた。

 付き合い始めてそれなりに長いのだ。だから、いつもと違うところがあればすぐに気が付く。幹人はほとんど毎週、下道で果歩の住む町までを往復していた。遠距離恋愛には困難がつきものだけれど、乗り越えた時に得られるものだってそれなりに大きい、とそう思う。

 日曜日の午後八時三十分。駅のそばに予約を取ったお店は、週末の最後の最後を悔いなく使い切ろうという気概と、明日に向けた憂鬱な空気が拮抗して、妙な熱気を帯びている。

「九時十分の電車に乗らないと、明日の仕事に間に合わない」

 果歩は焦っているようなことを言うくせに、全然帰りたいそぶりを見せなかった。

「もし、明日会社がなければ、気にせずにいつまでも喋っていられるんだけどな」

 幹人は、こういう架空の話をするような人ではなかった。だから、果歩が怪訝な表情をするのも当然のことだった。

「私の同期にさ、会社辞めちゃった子がいるんだ」

 幹人は理由を尋ねた。

「自由に行きたいんだってさ。ワーホリ行くんだって」

「それで、その後はどうするつもりって言ってたんだ。その子は」

「何も考えてないんじゃないかなあ」

 かなあ……と果歩はあくびをした。

「きっと会社を辞めても生きていける当てがあるんだよ。親とか」

 果歩は学生時代の学費や生活費で苦労していた。だから、一秒でも早く就職して、自分でお金を稼ぐことができるようになりたいといつも言っていた。幹人にもそれを求めていた。

「絶対にお金に困らせたりしない」

 果歩は、学生時代の自分みたいな人を作りたくないのだ。

 数学も物理も苦手なくせに、一番手に職をつけやすいからと言って機械工学科に入学してきたらしい。男だらけの環境は彼女にとってもあまり嬉しいものではなかっただろう。

 見た目も悪くない、と幹人は思う。けれど派手に着飾るようなことはしなかった。もし、彼女が自分の魅力とか労力を、学問と別の方向に向けていたら、きっと幹人と果歩が二人向かいあって食事を取るなんてことはなかっただろう。

 俳優やアイドルのオーディション番組がテレビに映ると、果歩はすぐにチャンネルを変えた。テレビを消した。その直後はいつも不機嫌になった。

 果歩の目には、今、この瞬間からの地続きとして未来が見えている。奇跡なんて起こらない。ひとつひとつ積み上げた努力の先に、ほんの少しだけ手に入る何か。真面目と言ったら果歩は怒るだろう。

 彼女は自分の信念で自分の道を選んで、そして幹人を選ぼうとしている。

「幹人はそういうことを考える人じゃないよね?」

 二つの瞳が、幹人のそれをじっと覗き込む。

「俺が辞めるのは定年退職やリストラだよ」

「リストラも辞めて」

 果歩の頬がちょっとだけ緩む。幹人はほっとした。

「転勤することになりそう」

 短く告げられた言葉は、それが今日、果歩が一番伝えたいことなんだろうとすぐに気が付いた。お互いの考えていることは、手に取るとまではいかなくても、よくわかる。

「どこに?」

「これから決まる。私の希望は通ると思う」

「優秀な社員の言うことなら、ってことか」

「私のとこも、結構いい会社なんだけど。社員のライフプランに合わせて働く環境も変えてくれることもあってそれに、女性活躍が一応は叫ばれてる時代だから。使えるものは使うよ。だから、幹人と同じところに住めるように希望を出そうと思う」

 彼女は一息吸った。

「駅に近くて安い物件のあたりはつけてた」

 彼女はもう一度大きく息を吸った。緊張がほどける。今度は大きく息を吐いて、へろへろになってテーブルにうつ伏せになってしまいそうだった。

「力抜けたよ」

 いつ決まるのか尋ねると、配属の決定は今年中だという。引っ越しは年明け一カ月のうちだろう、とのことだった。

「確約じゃないけど。確率はかなり高いね」

 来年の初めに引っ越しすることになる。ほんの三か月だ。それなりの準備はしておかないといけない。

「もし俺がワーホリ行きたいとか言ったらどうする」

「ぶん殴るよ」

「果歩の芸能界進出なら、俺は応援してやれるけど」

 ほんの軽口のつもりだったけれど、幹人はすぐに自分が間違ったことを悟った。

 果歩は絶句していた。穏やかな空気が急に冷たく、緊張を帯びる。。

「教えて?」

 低く響くような声。それが果歩のものだと気づくまで、ほんの少し時間が必要だった。

「え?」

「もう一度言おうか? 教えて? どうして今、その話を、私にしようと思ったのか」

 果歩の双眸は、まるで二つの銃口のように幹人に向けられていた。

「だって、気にしてただろ。オーディションとか大会とか。それに知ってたんだ。果歩が、鞄の中に演劇のメソッド本持ち歩いてたことも。工学部生が持ってるような本じゃないだろ」

 今なら、どんな打ち解けた話もできると思ったのは勘違いだった。幹人はいつも、奇を抜いた後に余計な事ばかり言っている。

「今さらそんなことを本気で思ってるの。私たちもう二十四歳だよ? 十四歳じゃないんだよ?」

「わかってるさ、でも、何かを始めるにはいつだって、っていうだろ」

 本気でそう思っていたわけではない。幹人はこの期に及んでも、冗談らしい言葉でなんとか場を収めようなんてことを考えていた。

「遅すぎるよ」

 果歩の声は震えている。怒っているようにも涙を答えているようにも見えた。目の縁が少しだけ赤くなっている。

「十四歳なら、十八歳なら、もしかしたら万が一っていうことはあったかもしれない。だけど、もうゼロだよ。それだけはわかってる。そうでしょう」

 幹人はどう答えていいのかわからなかった。頭ではわかっていた。奇跡とか、ドラマみたいな予想が付かないような出来事は、人生の中でもう起こらない。

「極限を取った後のゼロだ」

「……同じでしょう」

「違うけど」

 果歩は立ち上がった。椅子が後ろの壁に当たって音を立てる。隣の席の客が驚いてこちらを振り向いた。果歩はテーブルにお札を叩きつけて店を出た。

 店員さんに断わって後を追いかける。

「悪かった」

「急がないと間に合わないんだって」

 酔いの回った人たちの間を縫うようにして走る。駅舎に入り、果歩は先に準備してあった特急券を通して改札を抜けた。

 特急券を買っている暇はなかった。幹人は駅員窓口の前を全力で駆け抜けた。幹人を止めかねた駅員さんが後方で声を張り上げてい。忘れ物です! と、下手すぎると自分でも思う言い訳を叫ぶ。

 こんな勝手が許されるのは十代の少年少女だけだ幹人は思っていた。思い切り感情の高ぶった瞬間さえ、どこか冷静な自分をどうしても頭の片隅から振り払うことができない。

 この奇行さえ、一種の誠実さの表れとして解釈してもらえるんじゃないか.そんな利己的な考えをどうしても捨てることができないのは、純粋さをとっくの昔に失った明らかな証拠だった。

 ホームへの階段を駆け上がる。発車のベルが耳に痛いくらいに響く。果歩は駆け込むのと同時に、新幹線のドアが閉まった。

 窓ガラスの向こうで果歩が振り返る。美しい別れなんかではない。果歩はただ困惑していた。見開いた目で幹人を捉え、そして、幹人の後方に視線を逸らした。

 電車が動き出した。

「お客さん、何やってるんですか。いい大人でしょう。切符もなしに改札通っちゃ駄目なんだよ、ねえ」

 ガタイのいい駅員さんに肩を掴まれた。何を言われてもされても、どんな賠償を請求されても、幹人は受け入れる覚悟を固めていた。

 事務室で事情を話すと、駅員さんよりずいぶん年上の行った相手が出てきた。駅長さんらしい。彼は、苦い笑みを浮かべながら幹人を許してくれたしてくれた。

「無賃乗車は罪だが、他人の人生の一幕を眺めるのには安いくらいだ」

 駅長は定年を間近に控えたベテランといった風情だった。幹人を捉えた駅員さんは憤懣やるかたないという表情だったけれど、駅長さんはまるで面白い劇を見て満足したような様子だった。

 自宅に戻ったら午前零時を超えていた。幹人は崩れ落ちるようにベッドに倒れこんだ。

『一日一記事、必ず書くように』

 幹人は枕から顔を話した。歯車ブログの記事の一節が、繰り返し頭に浮かんでくる。まるで呪文の様だ。

 操り人形みたいな力ない動きでベッドから起き上がって机に座り、ノートパソコンを起動した。

 お気に入りから自分のブログを呼び出す。もし、今日の果歩とのやりとりをそのまま記事として取り上げたら、この弱小ブログに興味を持ってくれる人が一人でも増えるだろう

か?

 キーボードに手を置いた。今日、遠くからやってきた彼女が――駄目だった。書きたくないことが一文字目から伝わってくるようなひどい書き出しだった。

 ネットで莫大な収益をあげるブロガーたちは皆、自分の人生を売り物にして怖くないんだろうか。同僚への不満、会社と上司への不満、真面目に働く人への軽蔑と憐れみ。

 全部を振り捨てて売り物にする気概が自分にはない。幹人は書きかけの記事を消してアクセス解析のページを開いた。

 ブログには集客状況をモニターする機能をつけている。毎日、何人がページを訪れ、何人が他の記事に興味を持ち、何人が商品リンクを踏み、何人が買ってくれたか。どういうキーワードで検索してきたか。そういった情報をもとに、記事を分析して読者の傾向を掴む。

 幹人のブログには一日に数人、多くてもせいぜい十数人程しか集まらない。人気ブログと比較すれば、存在していないのとほとんど変わらないような小さなブログだ。アクセス数の棒グラフを見る度に、自分がこの世界でいかにちっぽけかを見せつけられているような気分になる。

 今日は五人、その次の日は二人、その次は十人、やった! と思った次の日はゼロ人。アクセス解析の結果は、ずっと同じ高さを低空飛行し続けていた。

 今日もきっとそうだ。惰性と眠気で頭がうまく働かないままにリンクをクリックする。

 画面に表示された結果を見て、幹人はパソコンが壊れたのだと思った。

 本日付けのアクセス数が二千件を超えていた。


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