その3
「大垣くんは本当に優秀だし、熱心だ。きっと出世できる」
先輩の城ケ崎さんは幹人の仕事ぶりをいつも褒めてくれる。新人育成のマニュアルにそう書いてあるのか、本心で言っているのか、幹人には判断がつかない。
幹人の部署は社内でも忙しい部類に入る。違法残業はないし組合も機能してあるから残業時間に上限がかかっているものの、上限ぎりぎりやオーバーしてしまう人が多数だ。幹人は新人のころはなんとか定時で帰宅できていたものの、二年目となり仕事を任されるようになると一気に残業が増えた。
ずっと机に向かって仕事をし、会議に出席し、社内システムの入力なんかを黙々と行っていると、自分が歯車になったような気分になってくる。
巨大な組織の、ほんの一部を回すために自分の時間と労力をすべて捧げる。自己の学習と遊びのために一日の全部の時間を仕えていた学生時代が、いかに贅沢だったかが嫌というほどわかった。
夜遅くまで会社に残り、家に帰ると夕飯も食べずにそのままベッドに倒れこむ。果歩からの連絡に返信することさえままならない。土曜日には一日を眠って過ごして、自分のために使えるのはただ日曜日だけになった。
布団の中で横になりながら、見るともなしにスマートフォンを操作する。ふっと、いつだったか徹の言った言葉を思い出した。
「三分の二、奴隷」
と、対象が限られすぎるキーワードで検索すると、驚くほどたくさんの記事がヒットした。ニーチェの言葉らしい。ニーチェ。名前だけは聞いたことがあるけれど何をしたのかよくわからない哲学者。
「一日の三分の二以上の時間を自分のために持てない者は奴隷である」
ヒットしたのはブログで自立した生活を立てているらしいやせた男だった。。
自由にできる、会社に縛られない、やりたいことができる。インタビュー記事は、その人となりのすべてを表しているわけではない。目に見えない苦労や挫折が無視され、まとまりのある記事に利用できない情報は排斥されている。
もし、自分の人生をまとまりのある記事にしたらどうなるだろう。高校卒業、大学卒業、就職、婚約予定はないが恋人はあり、と、そんなところだろう。
一億の赤字を背負うなんて幹人には絶対できっこない。けれど、もし、そんな人生だったら、自分の人生はどれだけ面白かっただろう。
現実から乖離したインターネットの世界は虚像と自由で満ちていた。自分とはかかわりのない世界だとわかっていても、どうしても記事を追っていく自分を止められない。
『今の時代、会社に縛られないで生きていける能力を持った人なんていくらでもいます。彼の記事、僕は面白く読んでいますよ。今、二十三歳だって』
リンク先はブログサービスのサイトだった。リンクをクリックすると、歯車が二つ並んだイラストが大きく表示された。二つの歯車はうまくデフォルメされて、まるで空中に二つの目が浮かんでいるように見える。その目は、笑ったり泣いたり怒ったりできるようだ。どうやら、これがブログ運営者の自画像にあたるイラストらしい。
『歯車ブログ』
と、なんとも言い難いタイトルが表示されている。どうやら、会社員の著者が自らの会社員生活についてつづったブログらしい。
『社畜ブロガー 歯車について』
『歯車おすすめの十記事』
『ブログ始めるならここ』
リンクをクリックする。
『駄目会社員ブロガー、ウェブクリエイター。二十三歳。××県出身。好きな言葉は自由。嫌いな言葉は残業。社畜としての耐性を強化する日々。本ブログでは……』
幹人の一切年下となると、一年目の社員だろう。入社して半年も経たずして、ブロガー歯車は会社勤めに向かないことに気が付いてしまったらしい。
内容は歯車の日常をつづった日記のようなものだった。けれど、年齢や立場が近いからか、その言葉には妙に共感した。気が付いたときには夢中でリンク先をクリックしており、何気なく始めたネットサーフィンはすでに一時間を幹人から奪い取っていた。
『本当にこんな仕事をこれから何十年も続けていくのか、そんなときにいろいろなことに手を出して、そのうちのひとつがブログでした』
午前一時三十分。始業の時間まで、あと七時間と十五分しかない。ネット記事なんて読んでいる場合じゃない。それなのに、続きを読みたい気持ちが抑えられなかった。
夢中で続きを読んでいるうちに、幹人はある記事に目が留まった。
『今月の収益報告』
ブログ記事にはあちこちにリンクが張ってあり、関連商材の購入がブロガーの収益になるらしい。他にも、アクセス数に応じて収益が入るようだ。
幹人は、その収益報告を見て愕然とした。
『今月の収益は、先月から一万円上昇して。十五万円でした。ブログの読者も増えてきて、少しずつ収益につながっています。読者の皆様には、本ブログを通じて楽しんでもらうほか、会社に所属する以外で所得を得る方法も、積極的に公開していきたいと思っています』
ネット記事を読みつくした。頭の中がおぼつかない空想で満たされている感じだった。心地よい疲労が瞼を重くする。窓から外を見ると、空はうっすらと明るくなりかけていた。今から布団に潜り込んだら、勤怠記録に初めての遅刻が刻まれてしまうだろう。穏やかな城ケ崎さんの怒りのスイッチが入ることを想像すると、眠ることなんてできない。
これが、会社で働くということか、と幹人は絶望的な気持ちになった。
もし、ブログの記事を書いて毎月お金が入ってきたら。十五万円入ってきたら。それに、頑張ればさらに上に行けるかもしれないという。
悪い考えを植え付けられたという自覚はあった。けれど、会社に所属せずに収益を得られるなんていう空想みたいなことを、実現している人がいるという事実だけは動かしがたかった。
会社を辞めようなんて思わなかった。ただ自分も、ブログを始めてみようと思った。