その1
自分は自分で、他人は他人だという切り分けができるほど、自分は聖人にはなれないと大垣幹人は自覚していた。
誰かより足が速かったり、誰かより勉強ができたり、誰かより女の子から人気がある、みたいな、子どもっぽいと思われるような価値観を、大人になっても捨てきれている人はどれだけいるだろう。誰かよりも優れていると思えるような何かが、結局はその人の支えになるのだ。
社会人になると、どうだろう。会社の知名度、給与、肩書、同僚や先輩、仕事。誰かと比べたくなる要素が増えるだけで、根本の部分は何も変わらない。「やりがい」や「生きがい」といったものだけで自分を支えていくためには、二十台はまだ若すぎる。
ただ、優越感のレースの先頭を走るには、世界はあまりにも広い。自分より五十メートル走の速い同級生なんて何人もいたし、どう頑張ってもこいつからレビュラーの座を奪い取ることはできないと思う相手もいたし、自分には手の届かない異性だっていたし、自分では到底採用されないような会社に早々に内定を決めた人だっていた。悔しかったし、追い付こうともした。それでも駄目だった。
人はそうして現実と折り合いをつけていく、やっと就職活動の内定をもらったのは、自分が特別じゃないという事実を、なんとか飲み込めるようになってすぐ後だった。
「おめでとう、私もすごく嬉しい」
大学時代から付き合い始めた犬山果歩は、幹人の就職を、まるで自分のことのように喜んでくれた。普段性交渉に積極的でないのに、その日だけは違ったくらいだ。
熱い情動に身を任せ、頭の中がしびれるような快楽で満たされていても、幹人はどこか冷静だった。
幹人はほっとしていた。就活の結果を以て、交際が破棄される事例を先輩や同期からいくつも聞いていたからだ。
恋は落ちるものであり、自己実現の手段であり、憧れであり、ステータスであり、見栄を張る手段であり、性欲を満たすための口実であり、将来手に入れるである社会的信用を得るためのギャンブルでもある。
「この相手は、貴重な若さと大学時代をささげるに値するような、社会的信用や給与を十分に集めてくれるだろうか」
いまだに果歩がそばにいるということは、幹人は彼女の投資に対し十分なリターンを返す可能性があるということだ。少なくとも、そう判断されている。
年を重ねるにつれて、恋愛には、ありとあらゆる感情や、社会的な立場や、しがらみが付いて回るようになる。果歩との恋が、谷川俊太郎が歌う純粋な恋でなく、お互いの欲しいものと欲しくないものをすり合わせた結果としてあるものだということを幹人は理解していたし、果歩だってきっとそうだった。
きっと、と、果歩の考え方に確信を持てないところは、危ないところだと幹人は感じている。これから時間をかけて、きちんと話をしていかなければならないところだ。まだ時間はある。いや、残っているかに見える時間は確実に減り、なくなる。気を抜いてはいけない。
純粋な恋愛に最も近いと思える恋は、一度だけあった。けれどそれは失敗に終わった。それでも、交際相手がいるだけいい。果歩とは話だってあう、一緒に住んでいたことさえある。幹人の在学していた工学部では、そもそも交際相手のいない冴えない学生がほとんどだった。
その人のことしか考えられなくなるような盲目的な恋愛は、きっと自分を不幸にしたはずだ。まるで映画やドラマの中の登場人物と個人的な関わりを持とうとするような、無謀な試みだったのだ。相手は、斎藤真子、というありふれた名前だった。
もう何年も前のことだ。けれど、当時の強い感情の一部はまだ心のうちに残っていて、斎藤、という苗字と、真子、という名前は、今でも幹人にとって、最も目にしたくない文字列だった。目にしたり、耳にしたりするたびに、拍動が一拍飛んだみたいな衝動に襲われる。もし果歩とうまくいかなくても、こんな衝動を感じることはきっとないだろう。その思いを吐露してもいいか、幹人は真剣に悩んでいる。
仕事はそれなりになんとかなっている。ただ、自分が絶対になりたくないと思っていた会社員となり、同じく会社員の上司から指導を受けるのは、必要と理解していているし、我慢もできるけれど、愉快なことではない。上司や先輩もきっと自分と同じ思いで日々を過ごしてきたのだと思えばこそ、指導や指示に従おうと思えるのだ。
人は皆お互い様で、不満や鬱屈をうまく飼いならしながら、毎日をしのいでいく。おそらくこれが、自分という凡人にできる生き方の最善手だ。
それに幹人にはひとつ、心の支えにしているものがあった。