コシロと一斉入居
筆者が仕事を通して遭遇した、あるいは見聞きしたエピソードを、コシロという軽い性格のドライバーを主人公に、軽い形にしてお伝えします。
団地、特に公営団地の階段は構造が面白いですね。
事故車の洗車はつらい作業です。電車や車で亡くなる方が減りますように。
顧客への荷渡しを終えたコシロは、団地の最上階の廊下の隅で、眼下に広がる景色を眺めながらしばしタバコを吸っていた。まだ夕方の四時とはいえ、早くも夕闇が迫っている。師走の寒風が凍てつくように寒かったが、この高台からの眺めが気に入っている彼女には、あまり苦にならなかった。
もう少しサボるつもりでいたものの、階下でドンドンと扉を叩く音が聞こえて、コシロはぎくっとしてあわてて携帯灰皿でタバコを揉み消した。続いて女の人の話し声がした。野次馬精神に駆られて近づいてみると、声は階段下すぐの一〇階から聞こえていた。
「タカハシさん!すみません、タカハシさん!」
女性は黒いスーツを着て、まっすぐな姿勢で階下の扉を繰り返し叩いている。階段上のコシロからは後ろ姿しか見えないが、茶色がかったボブの今どきな髪型からして、まだコシロと同じ二〇代かそこらだろう。その姿はこのオンボロ団地に似つかわしくなかったが、それ以上にその周囲の様子には目を見張るものがあった。
扉の前は、廊下を覆い尽くすほどのガラクタで埋め尽くされていた。古い雑誌や傘、テレビ、植木鉢など種類は多岐にわたり、そのどれもがくすんだ色でホコリを被っていた。ひどいのはゴミだけでなく、周囲の壁や床、扉などには、何だかわからないが茶色い飛沫がこびりついていた。この扉を素手でノックするには、よほどの胆力が必要だろう。床の茶色い斑点は何かの糞かもしれない。生き物のような生ゴミのようなひどい臭いがコシロの所まで立ち込めてくる。そんな足の踏み場もない空間で無理やり仁王立ちをし、スーツの女性はまた大きな声を張り上げた。
「いるのはわかってますよ!もう説明会も、新しい部屋の抽選会も、終わっちゃいましたよ。タカハシさん来ないから、こちらでもう部屋も決めましたからね!私がこないだ入れた案内、郵便受けに入ったまんまですけど、読んでくれてないんですね。もうどうなっても知りませんからね!お願いしますよ!」
そこまで呼び掛けると、女性は扉を離れて降りる階段の方に歩いていった。コシロも鼻を覆った手を離して立ち上がった。
(たいへんな仕事もあるものだなあ)
おそらく、この市営のオンボロ団地に取り壊しの話が出ているのだろう。彼女は市か何かの職員で、住人の退居を促しに来ているらしい。
(やっぱり、不動産の管理会社と役所の職員だけは、ごめんだな)
とはいえ、もうけ話の匂いもした。
(新しい部屋の抽選会、ということは、退居は一斉になるな。この棟だけで一フロア六部屋の一一階建だから六六室。半分は空室としても、ふむふむ・・・)
コシロは臭くて通りたくない先ほどの階段とは別の中央の階段で、一〇階に降りながら考えた。この団地のエレベーターは三階に一階しか止まらず、一〇階まで行かねば乗れないのだ。
(軽く聞き込みと、ポスティングをしていった方がいいかな。みすみす逃そうものなら、店長に絞られそうだ)
コシロはエレベーターで一階まで降りると、今いる八棟を離れ、そこらに住人がいないか見渡してみた。案の定、寒く薄暗い夕方にもかかわらず、坂を少し下った生垣に座っておばちゃん達が話をしている。良くも悪くも、先ほどの職員らしき女性も会話に混ざっていた。コシロは会社支給のジャンパーの襟を心持ち立てて肩をすくめ、ゆっくりと近づいた。おばちゃん達のがなり声が聞こえてきた。
「あたしらだって、好き好んで引っ越すんじゃないんだ。あんたらが勝手に建て替えだの何だの言い出したくせに難しい手続きは全部自分でやれなんて。これだからお役所は嫌いなんだよ!」
「そうそう。日程やら何から何までそっちで決めてさ。こっちにだって予定があんのに、ビンボー人と思って馬鹿にしてさ。役所って何でこうも偉そうなのかね。ほんのちょっと金だけ出して得意んなって。元々はあたしらが払った税金でしょうが」
「だいたいあたしらなんか今引っ越したって、あと一年も生きてるかどうかアヤシイもんだ。耐震だか何だか知らないけど、どうせもう死ぬんだから、ほっといてくれってんだ」
なかなかに炎上している。だが先程のお姉さんも負けておらず、メガネを光らせ利発そうな早口でまくし立てている。
「そんなに仰るなら、これを期によそのアパートに移って頂いても構いませんよ。引越代が市から出るのですから、どこへでも行けますよ。あなた方のような単身なら、県外に引っ越せるくらいの金額は十分補助しています。あと、それでも今回の引越代の予算に掛かっている税金は、市民のみなさんお一人当たり二円程度です。もっとも、あなた方が老朽化した建物で亡くなってでも、二円を惜しまれるというなら、話は別ですが」
気の強そうな物言いにコシロは閉口したが、仕事なので仕方なく近づいて話しかけた。
「あのー、すいません。ちょっとよろしいですか?」
四人の女性達が不機嫌そうな顔で一斉にこちらを振り向いた。コシロはヘラヘラと笑いながらジャンパーのポケットから名刺入れを取り出した。
「私、ハヤブサ引越社のドライバーのコシロと申します。みなさん引っ越されるご様子だったので、何かのお役に立てないかなあと思って、お声掛けさせて頂きました」
コシロが腰を低くして四人に名刺を配ると、おばちゃんの一人が名刺を珍しそうに眺めながら口を開いた。
「小代朱音さんっておっしゃるの。女性のドライバーって珍しいわね。たいへんなんじゃない?」
「へへ、ありがとうございます。よく言われますけど、それほどですよ」
「ハヤブサって、あの緑色のトリのマークの?」
「それ、それです!ご存知なんですか?ありがとうございます」
「うちの近所もよく走ってるの見るわ。こないだなんか狭い道にこーんな大きなトラックが停まってて、すっごく邪魔だった。人の迷惑も考えて欲しいものねえ」
「ほんとですかあ?申し訳ありません。今度またそういうことがあったら、近くに必ずドライバーがいるんで、言ってやってください。すぐ移動させますよ」
「この団地中が引っ越すことになるけど、おたくってそんなに一度に引越できるの?」
「普段の数では足りなさそうですけど、周りの支社からも呼べば充分できますよ。逆にまとまってる分早く終わるので、安く上げられますね。今回は市からいくらか補助が出るようですが、おいくらぐらいか伺ってもよろしいですか?」
コシロはジャンパーのポケットからメモ帳を、袖の二の腕の部分のポケットからボールペンを取り出しながら、隣に立っている職員のお姉さんの方を覗き見た。お姉さんは気の強そうな笑顔で教えてくれた。
「世帯の人数にもよりますが、最大一二万円まで出ます。生活保護を受けてらっしゃる方には全額支給しますが、その場合は必ず三社の相見積もりを取って頂いています」
「ありがとうございます。相ミツでも勉強しますよー。時期はいつです?」
「来年の二月下旬に二回の行程に分けて一斉に移動します。三週目に八から一〇棟、四週目に一一から一三棟です」
二月下旬ならそれほど忙しい時期でもない。上手く取り込めばちょっとした特需になるだろう。こういう情報は住人から得ても不確かなことが多いので、まとめ役側がこうもペラペラと喋ってくれるのは助かった。彼女は自分が知っていることを話せることに夢中で、公開すべき情報か否かの駆け引きは苦手なようだ。更には説明に正確を期するあまり、言い方に住人への配慮が足りないようにも感じた。案の定、おばちゃんの一人が不平を漏らした。
「それそれ。向かいの奥さんは病気で生保受けてて、こないだその、相見積もり?だっけ?したらしいけど、役所からはエアコンの付け替えは費用に含まないだの、家具の処分は別で役所に依頼しろだの、結局ほとんど何も払われんかったって言ってたわ。病気してるのにさあ、エアコン付け替えるな!なんて、暑くて死んじゃったらどう責任取るのさ、ねえ?」
お姉さんがすかさず顔をしかめ、ピシャリと言い放った。
「自治体にもよりますが、うちではエアコンの移設などの付帯工事は、引越とは別の費用として申告して頂いてるんです。それは悪質な業者による不正な工事や追加の支払いからみなさんを守るためです」
「そんなこと言ったって、給湯器の付け外しなんかは引っ越すとき絶対やんなきゃいけないのに、わざわざ別々に見積取るなんて」
「今回の移動ではみなさんの旧式の給湯器はそのまま置いて行って頂きます」
「じゃあどうやって向こうで」
「新しい棟では新式の給湯器が既に設置済みです。このことは何度も申し上げましたし、説明会の資料にも記載があります」
だんだん不穏な空気になってきたので、コシロは一層相好を崩して少し声を張り上げた。
「そうなんですねえ!いや、私は知らなかったので、お伺いできてよかったです。こういう費用の規定って自治体や、ともすると担当者によって変わりますし、みなさんも、お忙しい中資料の細かい部分までお読みになるのは、なかなか大変ですもんねえ」
「そうなのよ!今見せてあげたいけど、ほんとに字がちっちゃくって。年寄りのこと何も考えてないのよ」
お姉さんがまた口を開きかけたが、コシロがなんとか先手を取った。
「わ、わかりますわかります。もしウチにお見積お呼び頂いたときに、その書類も一緒に見せて頂けましたら、規定の範囲内でどういったお手伝いができるか、ご相談させて頂きますよ。みなさん、もう引越会社はお決まりですか?」
おばちゃん達が「まだだねえ」と顔を見合わせた。コシロは彼女たちがまだ片手につまんだままの自分の名刺を覗き込みながら、電話番号のところを指差した。
「もしお見積をお取りになるときが決まったら、ここの電話番号にご連絡ください。ここの団地の方だと仰って頂ければ、わかるようにしておきますよ。緑のトリのマークの、ハヤブサ引越ですよ。ぜひとも今覚えてくださいね。ほら、ポケットにしまって、お部屋に戻られたら冷蔵庫にでも貼って頂いたら、忘れませんよ。みなさん、長々とすみません。お寒くありませんか?大丈夫です?」
おばちゃん達が名刺をポケットにしまいながら、また顔を見合わせ始めた。
「確かにちょっと冷えてきたかも」
「陽が落ちるの早くなったわねえ」
「私そろそろ帰ろうかしら」
「そうねえ風邪ひいたら嫌だわ」
バラバラと立ち上がり始めた一同を見て、コシロも屈めていた姿勢をやめて一歩後ずさった。
「みなさんお時間頂いてありがとうございます。ぜひお電話お待ちしてますよ」
おばちゃん達はニコニコ笑ったり手を振ったりしながら、自分たちの部屋に戻っていった。
(ふーっ、やれやれ)
コシロはボールペンでメモ帳をグリグリ弄びながら、隣のお姉さんに話し掛けた。
「すみません、お話中に、割り込んじゃって。建て替えがあるっぽかったんで、情報集めておかないと、会社で怒られちゃうもんでして」
お姉さんは思いのほか柔和な表情でコシロに微笑み返した。
「いえ、こちらこそ助かりましたよ。ああいう方には下手すると小一時間ほど捕まることもありますから。失敬、遅くなりましたが」
彼女はスーツのポケットから名刺入れを取り出し、コシロに差し出した。
「テシマと申します。今回のこの団地の建替を担当しています」
「へえ、お若いのにすごいですね。しっかりされてるわけだ。ここの団地は広大だし大変でしょう。私も何度か来てるんですが、丘の斜面に建物がポツポツあって、未だに全貌がよくわからないんですよね。こんな団地がいくつもあるんだから、すごいですよねえ」
テシマと名乗ったお姉さんは、そこでちょっと忌々しそうに口角を曲げた。
「いくつもありすぎるんですよ。昔はニュータウンでそこそこ栄えましたけど、その当時でも常に空室がある状態でした。構想した当時の職員の計画性のなさと間取りのミスマッチですよ。一斉に高齢化して人口が減った今じゃあこのざま。同じような所得の、同じような世代が固まって暮らすなんて、ロクなことになりませんね。ゴーストタウン同然じゃないですか」
そう言って、テシマさんは辺りを見渡した。風が吹き荒ぶばかりで先ほどから人の通る気配が全くない。変色した植え込みや掲示板の破れたチラシが風で暴れている。微かに饐えた臭いが鼻に付くのは、おそらく階段の陰のゴミ山からだろう。冬の暗さと暗さがまた廃れ具合を助長していた。
「・・・なるほど。今回移動するのは、さっき教えて頂いた六棟だけですか?」
「いえ、数ヶ月後にまた六棟移動します」
「そいつはまた壮大な計画ですねえ」
コシロがメモ帳にグリグリ書き込んでいるのを横目に、テシマさんが続けた。
「引越をどこに依頼するかは住人の自由ですが、どこから嗅ぎつけてくるのか近ごろ悪質な運搬業者や処分業者が出てきて、その被害が絶えません。先日も別の団地で、住人には無料で廃棄すると言って、家財をトラックの荷台に載せてから料金を請求するなんて被害が流行りました。ハヤブサさんみたいな名の知れた会社の方に失礼かもしれませんが、くれぐれもそういったことのないよう、よろしくお願いしますよ」
「うちの営業マンは明朗会計ですよ。ただまあ、どこも商売ですからね」
テシマさんは口の端だけを上げ、嫌悪と諦めと侮蔑の混ざったため息をついた。
「そのあたり、民間の方が稼がなければならないのはわかりますよ。ただ、こちらも何百人も移動するのに、その一人一人に一から十まで説明しなきゃならないし、説明してもまた何百回も来る問い合わせに対応しなければならなくて、それでなくても忙しいのですよ。中には移動を嫌ってこちらの指示に全く耳を貸さない住人や、部屋から出てこない住人もいます」
(ああ、さっきの・・・)
タカハシさんとかいうゴミ屋敷の人のことだ、と思ってコシロは口を挟んだ。
「それって、失礼ですけど実は中で亡くなってるとかはないんですか?そうでないとしても、重い病気で臥せってるとか」
テシマさんは抑制してはいるものの「こいつはおめでたい!」とでも言いたげに、鼻で笑うようにして首を振った。
「ありえませんよ!部屋から出かけている姿を付近の住人が見ているんです。嫌がらせですよ。こっちが役所だから何やっても許されると思ってるんです。公営団地ですしそういう方ばかりなのは仕方ないのかもしれませんが。駄々をこねる矛先が欲しいだけですよ」
「はあ、なるほどねえ」
若い彼女の物言いには、なみなみならぬバイアスが掛かっていた。そしてそれには引越会社のドライバーである目の前のコシロも含まれている。
(きっとこれまでに、色々と苦労が絶えなかったんだろうなあ)
引越会社に勤めていると、こうしたそこはかとない軽侮に晒されるのは毎度のことであった。そして軽侮されるコシロ側の立場には、実は一種の居心地の良さがあることも、コシロは知っていた。それは先ほどのおばちゃん達の、このテシマさんに文句を垂れることに、何の引け目も感じずに済む立場と同じものだ。役所に勤め、若くして活躍するこの優秀なお姉さんが、コシロやおばちゃん達よりも多くを持ち、高くに居ることは明白だった。コシロたちの持つそれは弱者のみが知る強みであり、人をうらめしがることが許される、ぬるま湯の居心地の良さだった。
テシマさんはチラッと腕時計を見ると、顔を上げて襟を正した。
「すみませんが、そろそろ失礼します。住人の方に営業を掛ける分には構いませんが、常識的な範囲でお願いしますよ。それでは」
テシマさんはいかにも真面目そうなお辞儀をすると、カツカツと早足でその場を去っていった。
(すごいなあ。デキる女のオーラがバンバン出てるよ)
ただ、あのオーラを出している限り、団地の住人と上手くやっていくのは到底無理だろう。上手くやっていく気もそもそもないのかもしれない。とはいえ、弱者の立場に居心地の良い強みがあるように、強者の立場には逃げ場のない弱みというものがある。
(あのお姉さん、あまり追い込まれなければいいけど)
明らかに住人側の立場に立てるコシロは、高みならぬ低みの見物を決め込める。彼女は八から一三棟のポストに自社のビラを投函すべく、建物の裏に停めた自分のトラックに戻っていった。
コシロが支店に戻り、店長に団地の建替の話をすると、案の定店長は乗り気になった。コシロの所属する支店の店長は、ドライバー上がりの多いハヤブサ引越の店長に珍しく営業上がりで、こういう特需を厄介がらずに積極的に取り込みに行くフシがある。本社に掛け合って、必要であれば他の支店から応援を呼ぶことにもなりそうだった。大きな祭りの予感にコシロも楽しみに思う気持ちがなくもなかったが、汚物まみれの扉を殴打して叫んでいたテシマさんの姿が、なんとなく脳裏に影を落としていた。
二月下旬、二週間続いた団地の一斉移動には、コシロもいつもの四トントラックで参戦した。最終日には、お役所からテシマさん以外にもたくさん人が来ているようで、敷地内の地域会館の中では、スーツ姿の中年の男女がうごめいていた。団地の各棟を囲うフェンス沿いには、彼らが乗って来たと思しき白いワゴン車がいくつも停められていた。陽が低く傾いてきた夕方、コシロは自分の担当の荷卸しを終えたので、別の作業の応援に向かうことにした。トラックや車がそこら中に停まっている中を歩いていると、二月の北風が吹き荒ぶ中、役所の人が数人タムロして立っていた。その中にはテシマさんもおり、住人が質問したり話しかけて来たりするのに対応していた。今日は他の人と同じく、スーツの上から市のマークのついたジャンパーを着ている。相変わらずまじめなピンとした立ち姿だが、その背中からはストレスからか疲労からか、負のオーラがありありと出ていた。コシロは作業が順調であることの報告も兼ねて、テシマさんに近づいていった。
「テシマさん、こんにちは。ハヤブサ運輸のコシロです。先日はどうも」
「ああ、こんにちは。どうです?仕事はたくさん取れましたか」
テシマさんは風でなびく髪を撫でつけながら、住人に対するよりは幾分柔和な表情でコシロに応対した。住人にはつけこむスキを与える訳にはいかないという逃げ場のない緊張感が、上司が居並ぶ手前、常にあったのだろう。その点、コシロが相手なら威厳を保つ必要はなく、多少の優位性を持つコネクションがそこにあることを、周囲の上司に匂わせられればそれでよかった。目元に深い疲労の色が窺えるテシマさんの微妙な笑顔からは、そんなちょっとした気の緩みが見られた。コシロはその方がいい、と思った。テシマさんは以前会ったときも緊迫感を漂わせてはいたが、今は更に追い込まれているように見えた。顔はやつれ、風で乱れた髪がそれに拍車を掛けていたが、姿勢だけはまだまっすぐ踏ん張っていた。すぐそばの上司達はコシロが重要な立場の人間ではないとわかったようで、挨拶を交わす意思がないことを示すべく、こちらを見ることもなく近くの作業を眺めたり、違いに談笑したりしている。テシマさんだけがコシロと向き合う形になった。二人の間を厳しい寒風が吹き過ぎるのを待って、コシロは口を開いた。
「大手さんにはかないませんが、うちとしてはそこそこ取れた方でしたね。また五月上旬にも後半組の移動があると伺ってるんで、その際もお邪魔すると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
「後半の移動の時期の情報も、もう仕入れてるんですね。油断ならないわ」
「こちとら必死ですからね。毎年五月は仕事が少ないんですよ。テシマさんも何か運ぶものがあれば仰ってください。いや、むしろ何か運ぶ予定を作ってほしいですね」
コシロが冗談半分で口を尖らせてそう言うと、テシマさんがクマのできた目をわずかに細めて笑った。コシロはちょっと安心した。
「あ、笑いましたね?本当ですよ。六月はもっと少ないんです」
「そうなんですね。やっぱり長期休暇の時期が忙しいんですか」
「よくご存知ですね。その通りですよ。なにせね」
そこまで喋ったとき、コシロは微笑していたテシマさんの目が異様なまでに見開かれ、顔が凍りつくのを見た。その表情のあまりの青白さに驚く間もなく、コシロは自分の背後で、バンッと物がぶつかる大きな音がするのが聞こえた。それは普段聞くことがないほど大きく衝撃的な音で、車に重い何かが衝突したかのような音だった。コシロは振り返った。周りの職員たちも振り返っていた。
音がしたのは、フェンスに沿って駐車してある、小さい白ワゴンの一つだとすぐにわかった。上部がへこんだワゴンは、血まみれになっていた。人の、裸足の足のようなものが見えた。あ、タカハシさんだ、と、コシロはとっさに思った。あの悪臭の酷いゴミ屋敷の、見たことはないがきっとタカハシさんだ。車のすぐ後ろにはタカハシさんの住む八棟があり、はるか上方にはあの汚物だらけの一〇階の廊下があった。それに、移動最終日の夕方に、この古い棟に残っている人など、他にだれがいるだろうか。
(ああ、あっちだったか・・・)
追い込まれ、綻んだのはテシマさんではなく、団地だった。この何百戸という貧しい老若男女の大移動において、それはだれだとしてもおかしくはなかった。強者にも弱みはあるが、弱者はやはり、確実に弱者であった。
落ちてきたタカハシさんはどうやらただ車の上に落ちただけでなく、落ちどころも車とフェンスの間という絶妙な位置だったらしい。遠目にも色んな部位が車体にこびりついているのがわかった。残りは車とフェンスの間か、それともフェンスの向こう側か、どこかしらに落ちているのだろう。警察を呼べばある程度は死体を除去してくれるだろうが、所々は残るだろう。
周りの職員たちが騒ぎ始め、男性の一人がテシマさんに一一〇番するように指示を出した。テシマさんは言われた通り警察にテキパキと状況を伝えていたが、その目は飛び出さんばかりに見開かれたまま硬直しており、現場の方を決して見ようとはしていなかった。当然であろう。テシマさんはおそらく、タカハシさんがベランダを乗り越え、落下するまでの一部始終を見てしまったのだ。彼女の脳内では今、その光景が繰り返し繰り返し再生されていることだろう。落ちた後の状態を遠目で見ただけのコシロですら、しばらく赤身が食べたくなくなる気分だった。コシロは、自分の支社の同僚たちがあの光景を見ずに済むよう、近づかないよう伝えに行かねばならないと思った。だが、動揺しているテシマさんを置いて無言で立ち去るのは気が引けた。コシロはテシマさんが一一〇番を終えるのを待ち、慎重に声を掛けた。テシマさんは電話を終えるとうなだれ、目をきつく閉じていた。
「大丈夫ですか。あとは警察に任せましょう。よければ、洗車もくまなくやってくれるような整備会社を紹介しましょうか」
厳しい風がうつむく彼女のボブカットの髪を乱していて、聞こえているのかどうか定かではなかった。だがしばらくすると、彼女は苦渋の表情のままうっすらと目を開いた。その目はコシロではなく地面を、それも地中の更に深く遠いところを見ているかのようだった。
「洗車・・・そうか、そうですね。ただ、うちの職員は、自分の持ち車の洗車は自分ですることになっています。そして、あれは、私の持ち車です」
また鋭い風が吹いて、テシマさんの髪を暴れさせた。だが、彼女はもうそれを直そうともしなかった。ビュウビュウとうるさい寒風が吹いている間、テシマさんはまた目を閉じ、眉間にシワを寄せて待っていた。風がおさまると、彼女はまたうっすらと目を開けた。
「ただ、あの状態の車で、街中を走って市役所まで戻るのは、ごめんです。住人の方も、あんなものがずっとあっては、騒ぎが収まらないでしょう。コシロさん、すみませんが、洗車できるような、バケツやホースをお持ちですか」
「トラックに積んでありますが・・・本気ですか?しばらく何も食えなくなりますよ」
事ここに至って、持ち車を洗車する義務にそこまで固執する必要があるのかどうか。テシマさんは眉間の皺を更に寄せて目を細め、唇を噛んだ。タカハシさんを追い込むことになった自分を責めているのかもしれないし、新たに職内で苦戦しなければならないこれからの重圧に苦しんでいるのかもしれず、それはテシマさんにしかわからないことだった。もう声を出すことにも大きな苦痛を伴うようだったので、コシロの方から続けた。
「わかりました。今から取って来ますよ」
コシロはジャンパーのポケットに手を突っ込むと、言葉の出てこないテシマさんに、年末に渡したのと同じ名刺を、もう一度手渡した。テシマさんは相変わらず無言でうなだれたままだったが、わずかに手を持ち上げると、風で飛ばないようにそれを指でつまんで受け取った。
「あなたが、あれにならないでくださいね。引っ越すときは電話してくれれば、安くしますよ。では、失礼します」
コシロは足早にその場から立ち去った。同僚たちのところへ急ぎながらも、背中から突き刺す真冬の風に、ときおり身をすくませた。どこまで行っても、彼女の声にならないうめき声と、かすかな血の匂いが、北風に乗って追いかけてくるような気がした。