【59】ポンザレと赤い化け物
それが来たのは、太陽もまだ見えない早朝だった。
ピュイッ!
横になっていたミラは、毛皮のマントを跳ねのけて起き上がると、
鋭く口笛を吹いた。その音に、見張りに立っていたビリームと、
跳ね起きたザーグ達が、ミラのもとに集まる。
「どうした、ミラ?」
「…何か、おかしい。生き物の気配がなくなってる。
…嫌な予感がする。だけど…眼帯には何も見えない。」
「ポンザレ、寝ているやつを起こせ。
ビリーム、マルトー、武器を持て。少し距離をとって警戒だ。」
以前は、野営中に熟睡していたポンザレだが、
今では何かあってもすぐ起きて動けるようになっている。
ポンザレは慌てながら、皆を起こすと、
かすみ槍を持って、周囲の警戒にあたった。
もやのかかった、夜明け前の薄明りの中、
遠くからザバァ、ザバァと波のような音が、響いてきた。
その音に合わせるかのように、ポンザレの腰ベルトにつけられた
小鳥の鈴が、ピーヨ!!ピーヨ!!と強く鳴き始める。
その激しい鳴き方に、ポンザレはゴクリとつばを飲み込むと
かすみ槍を握りなおした。
「上ッ!」
ミラの声に、皆が頭を上げた瞬間、
黒く巨大なものが轟音と共に、目の前に落ちてきた。
激しく揺れる地面に、ザーグ達は手をついて転ばないように耐える。
巻きあがる土煙と埃がおさまり、そこに現れたのは
誰も見たことのない、巨大な赤い生き物だった。
左右に広がった大きな翼。
ごつごつとした、大人が一抱えして余るほどの太さの、
筋肉質の四本脚と、地面を深くえぐる大きな黒い爪。
翼の向こう側に見える太い綱のような尻尾には、
棘状の突起が並んでおり、その先端は鋭く尖っている。
無数のこぶの盛り上がった胴体は、
大きく硬そうな鱗に覆われ、所々にぬめりとした光沢が走る。
黒く小さく丸い目、その目の上から斜め前に突き出した数本の角、
真横に開いた、牙のびっしり生えた口。
そして、何よりも特徴的だったのは
その恐ろしげな頭部と、胴体をつなぐ、異様に長い首だった。
◇
ゴロロロ…
遠くで鳴る雷のような音を、その喉から響かせながら、
その生き物は、ゆっくりと不規則なリズムで首を揺らしている。
誰も動けなかった。
生き物の体からは、その巨体のさらに何十倍もの生命力を、
凝縮して詰め込んで無理やり形におさめたような、
そんな圧力が滲み出ていた。
自然界において、生命の圧力の高い生き物は、単純に強い。
自らを含め、生き物の生死に関わることの多い冒険者だからこそ、
ザーグ達は、その異様な圧を感じ、そして自然界の掟を理解した。
弱い側の自分達の命は、目の前の化け物次第だと。
「ば、ばばばばば、化け物ッ…!」
叫び声を上げて、圧力に耐え切れなくなった
『霧の弓』のメンバーの男が、背を向けて走り出す。
だが、走り出した男の足は地面を踏めなかった。
音もなく、素早く首を伸ばした化け物は、男を咥えると
頭を高く上げ、そのまま口を閉じた。
バグン、ドヂャリ。
化け物の口があわさる音と、
男の下半身が地面に落ちた音で、
『赤神の斧』『霧の弓』の冒険者達は、
我にかえると共に腹をたてた。
仲間がやられたことに対してではなく、
目の前の存在の理不尽なことに、怒りがわいた。
どれだけ強い存在だろうが、何もせずにやられていいはずがない。
ただ喰われて終わるなんて、許せるか。
俺達だって生き延びてきたんだ。…せめて、それを思い知らせてやる。
社会の底辺層から冒険者になり、幾つもの生死を越えてきた
熟練の戦士達は、その気概を奮い起こした。
目に異様な光を込めて、皆が武器を構えなおす。
その空気は、じわりと広がり、場に満ちていこうとしていた。
それをどう捉えたのか、
化け物はゴロゴロと喉を鳴らし続けていた。
◇
皆と同じように怒りを感じながらも、
ザーグの頭の一部は冷えていた。
その冷めた視点は、常に状況を整理し、
作戦を組立て、自分を、仲間を生かしてきた。
そして、その仲間は、『霧の弓』『赤神の斧』の即席の
メンバーも加えて、自分の指示を待っている。
ザーグは高速で思考する。
(この空気はまずい。向かって言っても、喰われて終わるだけだ。)
(腹は立つが…死ぬのはダメだ。命は惜しい。)
(考えろ、このくそでかい得体の知れない化け物相手に
死なずに済む方法を…)
(考えろ、どうすればいい。逃げられるか?逃げてくれるか?倒せるか?)
(何に気をつければいい?首だ…尻尾もだな。動きが早い。
しかも、あれはどの方向にも動きそうだ。逃げるまでに…
何人か犠牲になるな。…逃げてくれるには…っち、どちらにしろ
手傷を負わせないとダメだろうな。)
(攻撃が効きそうなのは…俺かビリームか。あの硬そうな鱗じゃ
普通の武器は通らねえな。かすみ槍も、奥まで刃が届きそうにねえな。
弓も…無理そうだ。)
(サソリ針しかねえが…ポンザレにやらせる訳には、いかねえな。
くそっ、警戒態勢で俺達が離れたのは失敗だったな…皆が遠い。
戦いながら、サソリ針を受け取れるか?)
(とにかく俺達以外は森の中まで引かせる。
この、盛り上がった空気はまずい。)
(時間を作れるやつが欲しい…。…ミラか。いや、しかし…)
(…ミラに、やらせたくは…)
シャリンッ。
ザーグの思考を、金属音が遮った。
◇
腰の革袋から、金属製の細い腕輪を数本取り出したミラは、
それを腕にはめて一振りする。
シャリンッ。
眼帯を付けたミラは、その片目に怒りの色が浮かばせながら、
真っ直ぐにザーグを見る。目が合ったザーグは、
ミラの瞳に浮かんだ怒りの理由を察して、眉間にしわを寄せた。
「…指示して。」
シャンッ
シャリンッ
シャンッ
ミラが左右の腕を不規則に振り、腕輪を鳴らしながら
小刻みに足踏みを始める。
化け物の目は、初めに腕輪が鳴った時から、
ミラをじっと見つめている。
(そうだな…やるしかない、やってもらうしかないな…)
ザーグは、すぅと大きく息を吸うと、
大声で一気に指示を飛ばした。
「ミラが注意をひく!パスカルとボドゥル達は、ゆっくりと森まで下がれ!
下がったら、森から出るな!走るな!ゆっくりと下がれ!」
「ザーグ、俺もやるぞっ!」
「だめだ、下がれ!お前らの武器は効かねえ!」
ボドゥルの上げた声を、ザーグが突き返す。
「ポンザレは、そこで待て!マルトーにサソリ針を
渡したら、お前も森まで下がれ!」
「はいっ!」
「わかったよ!」
「ビリーム、俺と隙を見て仕掛ける!」
「はい、わかっています!」
「よし、動けっ!!」
◇
シャンッ
シャリン
ミラが不規則なステップを踏みながら、腕輪を鳴らす。
化け物は、頭を揺らしながら、その動きに釣られるように、
噛みつこうとしたり、尻尾で刺そうとする。
化け物の攻撃を、食べれそうで食べれない、
刺せそうで刺せないギリギリのタイミングで、
ミラは全て避けている。
シャンッ
シャリン
巨大な化け物をあやすように、
命がけでミラは踊り始めた。
◇
斥候であるミラは、先を進み、偵察を行い、
場合によって敵を排除することもあるが、
基本はパーティの安全を確保するのが役目で、
あまり戦闘に参加することはない。
だが、まれにミラも、相手の注意を引く囮役、
戦闘中に相手の集中力を乱す、かく乱役として
戦闘に参加することもあった。
腕輪を鳴らしながら、周囲を回って相手の集中力を乱し、
隙あらば攻撃も仕掛ける。そんなミラに気を取られると、
遠間からはマルトーの矢が、近間からザーグとビリームの
剣と棍棒が襲ってくる…といった具合で、
手練れの犯罪者や、強い魔物相手にもザーグ達は
この連携で勝利を収めてきた。
これはポンザレがパーティに加入する前の強敵との戦い方だ。
しかし、ここ最近でザーグ達が戦うのは、
単なる犯罪者や魔物ではなく、〔魔器〕を持つ相手や、
魔物にしても鉄腕猿のように、それまでに戦ったものより
遥かに強いものが多かった。
いつしかザーグは、恋人でもあるミラを、
必要以上に危険な目に会わせないようにしていた。
泥人形や、刺客の兄弟との戦いでも、近くにおかずに
報告・連絡要員として離れたところにいてもらった。
今回も、ザーグは、ミラを使う決断をすぐに出せなかった。
ただでさえ危険な目に合わせたくないという思いに加えて、
ザーグが刺客に襲われて以降、ミラは常に眼帯をしている。
〔魔器〕の眼帯の視覚に慣れてしまっている今のミラに、
得体の知れない、そして恐ろしく強い化け物相手の囮、
かく乱役など、危険すぎた。
◇
一方で、ミラは怒っていた。
化け物の理不尽な強さにではない。
戦いの場において、使うべきところで、自分に指示を出すことを
ためらうザーグに対してだ。
ミラは、皆が戦っている時に、一人だけ遠くに置かれることが
悔しくてならなかった。パーティでの役割と、戦闘力を考えれば、
しょうがないことも理解していたが、命をかけた戦いを、
皆と、何より恋人であるザーグと共に分かち合うことを、
強く望んでいた。
ミラは、ようやくその機会を得ることができたのだった。
その口元には、わずかに笑みさえ浮かんでいた。
シャリンッ。
シャンッ。
だが、化け物との舞踏が始まると
ザーグへの怒りも、望みが叶った喜びも、
響く金属の音にのって、ミラの心からは流れでて
消えていった。
ミラは、風のない水面のように、ただ心を澄ます。
右の目、左の目、鼻、耳、肌で感じる空気の流れ、
あらゆる器官から入ってくる情報を、水面に映し、
自然と湧き上がってくる次の動作を、そのまま体に移していく。
シャリンッ。
シャンッ。
どんな人間であっても、
限界寸前の早さと緊張感の中で、動き続けることはできない。
ミラの動きは、徐々に鈍くなり始めていた。
◇
「ポンザレ!サソリ針!」
「はい、お願いします!」
ポンザレは、マルトーにサソリ針を手渡す。
その時に、腰の小鳥の鈴が、ピーピョ!と鋭く鳴くが、
その意味するところはわからなかった。
サソリ針を構えたマルトーが、腰を落として化けものに
向かい始めたその時、森の中から『霧の弓』の誰かの放った矢が、
化け物の頭めがけて飛んだ。
「っバカ野郎!」
矢は化け物の頭に当たって弾かれたが、
その一瞬、化け物自身も意識していなかったように、
その尻尾の先がくるりと動いた。
「…ぐっ!」
ちょうど尻尾の先を避け終えたばかりのミラが、
突然の動きに対応できず、跳ね飛ばされて、森の木に激突する。
「ミラッ!」
マルトーが走りはじめ、一拍遅れてザーグとビリーム、
そしてポンザレもそれぞれ化け物へと走る。
◇
「せやぁぁっ!」
化け物に最初に着いたマルトーは、
走り込んだ勢いのまま、体当たりをするように
サソリ針を化け物の脇腹へと突き刺した。
〔魔器〕のサソリ針は、刺した相手を麻痺させ、
動きを止めることができる。
ザーグ達が、今まで強敵を倒せてきたのは、
このサソリ針のおかげで、まさしく戦いの切り札だった。
グゴロッ!
サソリ針を刺された化け物は、動きを止めた。
ゴロロロロッ…ッ!!
だが、全身に絡まる見えない綱を引きちぎろうとするかのように、
ガギガギと身体を震わせながら、化け物は唸り声を上げる。
「サ…サソリ針がきかないのかいっ!」
グルルルゥォッッ・・・・!
わずか数舜で、首と尻尾の奇妙な揺れ方は治まりつつあり、
化け物は、体の自由を取り戻しつつあった。化け物の頭が、
カクカク震えながらマルトーの方を向く。
細かい牙の生えた口を開け、麻痺が解けた瞬間に
齧りにくる体勢になっている。
サソリ針を抜いて、体勢を整えなおそうと
マルトーが全身に力を込めた動作に移ろうとした瞬間、
ポンザレの声が響いた。
「マルトーさん!そのまま!抜かないでくださいーっ!!」
どんっと、ぶつかるように転げ込んできたポンザレが、
雄叫びを上げながら、マルトーの手ごとサソリ針を握り込む。
「うぉおおおーーーっ!」
いつか見た時のような、
淡い緑色の光が、ポンザレの全身を包んでいた。
その光は、ポンザレの手に収束すると、
マルトーの手を通り抜け、サソリ針へと入っていった。
光が収まった時、化け物はその動きを完全に止めていた。