【34】ポンザレと汚泥の沼、新たなる〔魔器〕
その日、ポンザレは、ぬかるんだ地面に足を取られないように、
慎重に足場を選びながら、目の前に広がる光景を
鼻の周りにしわを寄せながら、眺めていた。
「ここが、汚泥の沼なんですね…」
見渡す限り一面の沼だった。
といっても、植物が生い茂るような緑豊かな土地ではなく、
所々に老いた灌木が生えている以外、生命を感じさせるものはなかった。
一度足を踏み入れたら、そのまま飲み込まれていきそうな、
深さの見当もつかない泥たまりがあちこちにあり、
時々ゴボンと底から湧き上がってくる泡の弾ける音が聞こえた。
その音とともに、腐敗が進んだ生ごみのような悪臭がもわっと漂い、
生ぬるい湿った風に乗って運ばれていく。
晴れて抜けるような青い空と、地平線まで続く茶色い沼。
ポンザレはその光景に圧倒されながら、思わずつぶやいた。
「ここは…なんだか臭いですー…。」
「あぁ…相変わらず、ひでぇな。今日のところは宿に戻るか。
動くのは明日からだ。」
ザーグが同じように景色を見ながら返した。
◇
ザーグ達の住む街ゲトブリバの街には、
北東から南西にむけて街道が通っている。
ザーグ達は、その街道を南西に四日進み、そこで分岐した
今はほとんど使われていない古い廃街道を西に折れて、
さらに一日ほど進んだ村にいた。
村は巨大な泥の沼のほとりにあった。
汚泥の沼と呼ばれるこの沼地は、
百二十年前に唐突に出現したと言われている。
沼の中央には、その当時この地域を治めていた国の王都があったが、
王族も住民も建物も全て、汚泥が飲み込んでしまったため、
なぜそんなことが突然起きたのか、誰にもわかっていなかった。
当時の王国は、王都を中心に円環状に街道が通り、
その街道沿いに地方領主の治める幾つもの街があった。
王都が汚泥の沼と化してからも、円状の街道は残り、
地方領主は王亡き後も、街とその周辺を治め続けている。
ポンザレ達の街、ゲトブリバもその一つである。
そんな説明をポンザレは、道中の竜車の中で聞いていた。
◇
沼のほとりの村は、定期的に来る冒険者の落とす金と、
周囲のわずかな痩せた畑で、かろうじて食いつないでおり、
沼の影響もあってか、全体的に陰鬱な雰囲気が漂っていた。
二十人ほどいる村人の顔は、どれも暗く生気がない。
汚泥の沼の奥深くには、百二十年前の王国の人々が、
今も沈んでいると言われる。そのため幽霊の目撃が絶えず、
また魚やトカゲのような魔物が時折湧くこともあって、
沼は監視と定期的な調査がされている。
調査の拠点となる村は、広大な沼の外縁部に沿って幾つか点在し、
街道沿いの各街は、協力して冒険者を派遣していた。
この汚泥の沼の調査依頼は、出現する魔物も弱く、
本来であればザーグのような高位の実力者が受ける類のものではない。
だが、最近見たことのない魔物がうろついているという報告が上がり、
早めに危険性を調べておきたいと領主から指名依頼が入った。
「ポンザレにも、あの、何とも言えねえ沼を見せてやるのもいいだろう。」
そう言って、ザーグは今回の依頼を受けたのだった。
◇
沼の調査は、徒歩では汚泥に足を取られ、船も漕ぐこともできないため、
周囲を歩き、何か異常がないかを調べるだけだった。
昼と夜の二回に分けて調査を行い、出現するモンスターや地形、
その他、目についたことなどを調べていく。
昼は、手のひらほどの魚に脚を四本つけただけのような、
子どもの落書きみたいな魔物が襲ってきた。
細かい歯をカチカチと鳴らしながら、パタパタと軽やかに泥の上を走り、
そのまま胸のあたりまでジャンプして噛みつこうとする。
汚れた泥にまみれた口で噛みつかれると、致命傷にはならないが、
その傷がもとで大事にもなりかねない。
ポンザレはあまりの魔物の気持ち悪さに、
かすみ槍で片っ端から突いては放り投げる…を繰り返した。
魔物が跳ねるたびに泥が飛び散るため、ポンザレはすぐに泥まみれになって、
気付いたときには、もう全身から悪臭が漂っていた。
ふと見ると、ザーグ達は少し離れた所に避難しており、
魚退治を全てポンザレにやらせていた。
「ザーグさん、おいらにばっかりやらせてひどいですー。」
「わりぃ、わりぃ、それ泥が服に付くと臭くて、中々落ちなくてな。
まぁ、訓練の一環だ。」
「そうだよ、ポンザレ、がんばんな!あたしらが、応援してるよっ!」
「…がんばって、ポンザレ。」
ポンザレは汗と泥でぐちゃぐちゃな自分に半泣きになりながら、
槍を振るい続けた。
◇
夜の調査は、気分が沈み込んでいくものだった。
主に出てくるのは魔物ではなく、百年以上前に亡くなった人の幽霊で、
半透明のうすい霧の塊のようなものに人の顔が浮かんでいる。
老若男女、誰もが苦しんだ顔をしていた。
強い心残りがあったり、自分の死を受け入れられない人間は、
幽霊になることが多いとビリームが説明してくれた。
ポンザレは、二ヵ月ほど前に見た、ある冒険者の遺体を思い出しながら、
ビリームに訊ねる。
「あの、砦で亡くなっていた冒険者のパシャラさんも、
幽霊になったりするのでしょうかー?」
「何とも言えませんが、たぶんならないでしょう。
冒険者は死と隣り合わせの職業ですし、パシャラさんだったら、
最期の時も自分の状況を受け入れていたと思います。」
「それなら、よくはないけど…よかったですー。」と、
ポンザレはホッと息をついて、口をもぐもぐさせた。
そのポンザレの心からほっとした様子を見て、ザーグ達は頬を緩める。
冒険者という、厳しく、そして寂しい仕事の中で、素直で温かい感情を、
当たり前のように出すポンザレは、暗闇に灯る松明のようにも思えた。
幽霊が、人の口から吐き出される息に生命を感じ、
また人の顔にまとわりつくのは、その生気が欲しいからだと、言われている。
夜の闇の中から、ふっと浮かび上がるように現れては、
まとわりついてくる幽霊を、ポンザレ達は、松明をあてて追い払う。
松明をあてられた幽霊は、弱々しい淡い紫の粒子になって散っていく。
だが、消滅する訳ではなく、数日もするとまた復活する。
ポンザレはいたたまれない気持ちで、「どうか死んでいることに
気がついてくださいー」と呟きながら、松明の火を幽霊にあてていった。
◇
昼夜の調査が始まって三日目の夕方。
沼のほとりで、ポンザレはボーっと突っ立っていた。
多くの幽霊がでるこの地は本当に好きになれなかった。
あと二日、ここで調査をすれば、ゲトブリバの街に帰れる。
活気に満ちた、あの騒がしい街の通りが懐かしかった。
街に戻ったら何を食べようか…と、ぽよんとしたお腹をさするポンザレ。
すると、ポンザレの立っている場所から少し離れたところに、
小さな幽霊が現れた。
その幽霊は、悲しみの表情を浮かべた幼い女の子のようで、
ポンザレの顔にまとわりつくでもなく、ふわりとこちらに寄って来ては、
スーッと沼の奥のほうに進み、立ち止まっては振り返って、
ポンザレをじっと見つめたりと、まるで誘っているかのような動きを
繰り返していた。
その動きを見ているうちに、ポンザレは、
その後をついて行かなければいけない気持ちが猛烈に高まってきた。
何かはわからないが、自分に必要なものが、
幽霊の行く先にある…そんな気がしてくる。
「ちょっと、ザーグさん達に聞いてくるので、そこで待っててください―。」
ポンザレは幽霊に声をかけると、ザーグ達を呼びに行った。
◇
「どう思う?マルトー。」
「う~ん、魔物や獣ならまだしも、あたしも幽霊は詳しくないからねぇ。
少なくとも今までに、幽霊が悪意を持って、生きている人間を貶める…
なんて話は聞いたことはないね。」
「ポンザレ。もう一度聞くが、お前は、あの幽霊に
ついていきたいと思うんだな?」
「なんか、行かなきゃいけない気がするんですー。」
「魔力持ちは風を呼ぶ…か。ふむ。」
冒険者の間では、魔力を持つ人間は、不思議な巡り合わせをもたらすと
言われている。ポンザレがパーティに入ってから、その言葉が
真実であることを、ザーグは肌で感じていた。自分の腰の黄金爆裂剣も、
その風で、もたらされたものだ。
無意識に剣の柄をなでながら、ザーグは、既にどうするか?ではなく、
どうやって進むかを考え、組み立てていた。
「よし、わかった。今晩の調査は、あの幽霊の後を追うことにする。」
ポンザレが嬉しそうに顔を上げる。
「喜ぶのは早い、ポンザレ。まず移動だが、“泥板”を使う。
だが“泥板”を着けていると、確かに沼の上は歩けるが、素早く動けなくなるし、
戦う時もかなりやりづらくなる。おまけに疲れやすくなる。調査自体は、
早めに切り上げるぞ。あまり奥に行くようなら、幽霊の後について行くのも
途中で止める。いいな?」
「はい!わかりましたー。」
“泥板”は、足の二倍程の大きさの縦長の板で、靴やブーツと紐で結んで、
足の底に着けて使用する履き物である。接地面積が増えて、
体重が分散されるため、泥に沈むことなく移動ができるようになる。
雪上で使うものは“かんじき”などとも呼ばれる。
全員が“泥板”を装着すると、沼の上に降り立った。
ぞぶ…と泥の感触はするが、“泥板”のおかげで沈まない。
「ポンザレ少年、“泥板”は普通に歩こうとすると、泥に足を取られて
体力を使います。すり足で、足を沼から離さないような歩き方で進みます。」
言われた通りに足を動かすと、確かに進みやすく、
体力の消費が抑えられることを実感する。
「ありがとうございますー。全然違いますー。」
「よし、準備はできたな。では行くぞ。先頭はミラだ。次が俺。
その次がポンザレ、マルトー、殿がビリームだ。
松明は、俺とポンザレとビリームが持つ。マルトーは弓をすぐ使えるように
しておいてくれ。」
「わかったよ。」
「…私はこれも使う。」
ミラが白い眼帯を左目につけながら、進み始めた。
◇
女の子の幽霊は、近づいては遠くに行き、また戻ってきて…を繰り返し、
ザーグ達を、ゆっくりと、そして確実に導いていく。
空を見ると、月もなく満天の星空だった。
もうこの星だけを見て歩いていきたい…ふぅとポンザレはため息をついた。
だが…ゴボンと泡のはじける音、立ち昇る悪臭、
どこからともなく響いてくる魔物や生き物の鳴き声が、
ポンザレの心を現実に戻す。
視線を、先を漂う幽霊に戻すと、ポンザレは気を引き締め直して、
再び“泥板”を前に進めた。
ザーグが短く口笛を吹き、一行は足を止める。
腰に手を当ててポンザレが水筒から水を飲んでいると、
ザーグが星を見上げていた。ポンザレはザーグも星を見て、
気持ちを切り替えているのだと思い、声をかけた。
「星、きれいですー。」
「ん?あ、あぁ。きれいだな。…だが星も回ったし、だいぶ時間が経ったな。
帰りもある。もう少し歩いたら引き揚げるぞ。」
夜空の星は東から西へと一定間隔で動く。
その星の動きを見て、ザーグは時間を計っていたのだった。
「それでいいな、ポンザレ?」
「はい、しょうがないですー。」
少し休んで再び歩き始めたザーグ達だったが、
幸いなことに、スゴスゴと引き返すことにはならずに済んだ。
幽霊の動きが、変わったのだ。
靄の中の幼い女の子の顔は、今にも泣きだしそうな顔をして、
泥沼の、ある一点に消えて、同じところから再び現れては消えていく。
まるで、ここを掘れとでも言っているようだった。
「お、おいらが行ってもいですかー?」
「ああ。」
ポンザレが念のためにザーグに確認し、了承を得る。
ポンザレは、幽霊の消えた場所の上に立つと、
腕をまくって手が汚れるのも構わず、泥に右手を突っ込んだ。
泥は生ぬるく、臭いと相まって、不快極まりない感触だった。
ずぶずぶと肘近くまで腕が入ったところで、
ポンザレの指の先に何かが当たる。
それを掴むとポンザレは一気に引き上げた。
右手の中にあったのは、泥の塊だった。
松明の灯りのもと、ポンザレは泥を落としていく。
鳥のような形をした何かが現れた。
松明の明かりを反射する、その何かからでる存在感は
まぎれもなく〔魔器〕だと確信できるものだった。