Episode.50:血戦に幕引きを
先ほどまで、命のやり取りが行われていたこの平野は、一瞬にして凪いでいた。
「終の戦場はここに決めたか、緋色の剣士よ」
落ち着き払った声が荒野に響く。両軍は二人を取り囲むように立っている。だが、凄まじい殺気の混じり合いの前には、息を呑んで立っていることしかできなかった。
「わらわを殺せる、そう思っているのか。面白き考えだな」
「そうか、俺は事実を述べたまでだ、許せ」
ランベルトは穂先を天に向け、冷静にアスカを見据えていた。
今まで、騎士団の一番槍として武功を上げてきた彼。叛逆に堕ちようと、その槍は鈍らなかった。
掲げられた十字の穂先は、さながら磔刑に使われる十字架に見える。それほど禍々しいモノを纏っていた。
「わらわはお前を斬る。それだけだ」
「憎しみからか、それとも正義感からか? どの道、お前達に救いはない」
「いや、お前は少しわらわへの考えも間違えている」
緋色の眼が彼の目をじっと見据えている。眼を活性化させている為、今見えているのは、三秒後の世界だ。
「お前を斬る、それだけだ」
「やはり、相手にとって不足は無し、か」
両者に微塵も動き無し、殺気すらもないその平野。
「────いざ、尋常に、」
「────勝負!」
抜き打ち、槍兵を袈裟に斬りつける。鉄の打ち合う激しい音が、遠く一マイル先にまで聞こえる。
決して間合いに入れぬ疾風の如き槍捌き、それを破らんとする迅雷の如き刀捌き。両者の打ち合いは二十合まで至った。
だが、まだ足りない。至高の槍技をもってしても貫き得ぬ相手。この胸をも焦がす激情、ランベルトはここまでの僥倖を感じた事はなかった。
剣線というのは生ぬるい。“剣層”が美しく重ねられていく。その一枚一枚に無駄はなく、剣層の花弁が、死合に華を添えていく。
息の音すら聞こえぬ張り詰めた空気、互いの得物が打ち合う音だけがそこに在った。恨み妬み嫉み憎しみ、そんな負の感情は一切ない。
────斬るか貫くか。
至極単純な決闘が繰り広げられている。
アスカは鞘を投げ捨てたかと思えば、挑発するように口角をあげる。その妖艶さは彼女を化け猫たらしめる美しさがあった。
“死を纏う槍”。ランベルトが持つ、禍々しい魔力を帯びた槍だ。傷をつけられれば、余程の事でない限り傷は癒えない。
アスカとて、初めての立会いにてつけられた脇腹の傷は完治していない。“始祖の化猫”の元々の対魔力が功を奏してここまで治っている。
だが、再び傷つけられれば助からない。二度はないのだ。
今度の一手は“払い”だった。それをひょいと飛んで、そのまま正面から外れる。払った隙に袈裟で斬りつけにかかるが、柄で刀を止められる。
だが、一瞬息を吸った。その呼吸が、アスカにとって悪手だった。
脇腹を掠める呪詛の槍、小袖を裂くのみであったが、そろそろ、アスカの体力もつき始めていた。
彼女はじっと下段で構え、相手を見据える。彼は槍を“投げ”────
「グッ……ハァッ?!!」
鳩尾に叩き込まれた拳に、彼女は追いつかなかった。全く理解のできない境地に立った相手。もはや、奥の手を隠している暇はない。
「その技に尊敬を贈ろう。ただわらわには時間がない。ここで決めさせてもらう」
悪鬼よけの呪文を使った後、彼女は祈りの言葉を捧げる
一つ、今、我が身は窮地に立たされり。
二つ、之は悪を打ち倒す死合也。
三つ、之は自らの手を以て始めし死合也。
四つ、之は無垢なる生命を屠る死合に非ず。
五つ、之は我が命を賭した死合也。
六つ、我は義に立ち悪を弑す者也
七つ、我は只、信念を貫く者也。
アスカの詠唱と共に、彼女の目は“反転”した。漆黒の瞳に緋色の眼。彼女の佇まいは、息は一切乱れず、平静の境地に立っている。
「これで、最後だ」
アスカの凛とした声が、戦場に響く。開眼した彼女に隙はなかった。
瞬きする間に四合、一呼吸に十合打ち合われる。その『剣劇』に、両軍の兵士は手出しはおろか動くことすらできなかった。
突けば外され、払えば流され、動作終われば太刀筋が三条襲いかかる。槍兵はおろか、王国軍で一、二を争う実力の持ち主、ランベルトですら捌ききるのは至難の技だった。
もはや、彼は勘で戦っている。そうでもしなければ、一秒後には首が離れている確率の方が高い。
平野には、息遣いと鉄の打ち合う音、土を踏む音しか聞こえなかった。そこに砲声銃声はおろか、風の音すらも聞こえない。
数百合の打ち合いを経て、両者の間合いが一度離れる。
アスカの打刀は欠け一つも見えない。
ただ、そこに銀の刃があるのみ。一刀にて如何なる敵をも斬ってきた。それなのに、気風やら気概は、彼女の立ち姿から一切感じられなかった。
────ただ、剣の道を進む者。
ランベルトは柄を握る手に力を込めた。鞘を拾い、刀を収めた彼女。それが抜かれた時、勝負は決する。
鉄の走る音、その刹那に華が咲いた。ランベルトはその美しさに見とれてしまった。美しき七条の花弁は、彼の前で咲き誇り、刹那に散っていく。
その銀の花が散った所に、紅の華が咲き誇る。
ランベルトに後悔はなかった。ただ、己では決してたどり着き得ぬ境地を、垣間見ることができた。それだけで、彼は十二分に幸福を感じていた。
***
「終わりましたね、アスカさん」
優しく肩を抱かれ、アスカはようやく我に帰った。目の前には宿敵だったはずの男の亡骸が転がっている。
なのに、一切実感がない。何も彼女の中には残っていなかった。
「わらわは、何のために……」
健人は何も言えなかった。自分では、彼女の虚無を満たす事ができない気がした。
そっと、朱鷺色の小袖の背中を優しく撫でる。
だが、健人の意識が飛ぶ事はなかった。佇まいからは考えられない華奢な背中が、ふるふると震えている。健人は彼女の顔を直視しなかった。
────そっと、彼女を胸に抱き寄せた。
少しばかり背の低い彼女は、決して目をあげようとしない。
声を殺して、涙を流し続けている。健人の胸がじんわりと濡れ始めた。それを抑えるように、彼はぎゅうとその身体を抱きしめた。
幾ばくかして、胸元で小さな鳴き声が聞こえ始めた。嗚咽にも近いその声は、悲しく響いていた。
彼女は復讐に生きてきた。その復讐が果たされた今、この先の事は何も考えられなくなってしまったのだろう。
彼女が進んできた道はどれだけ血にまみれているのだろう。
彼女のしてきた事は必要悪だったはずだ。だがそれでも『悪』なのだ。
優しく背中を撫で、ただただ抱きしめる。それだけでいいのかもしれない。健人は声をかけることもなくそうし続けた。
「わらわは、無が怖かったのかも知れぬ……」
健人の腕の中で、そっとアスカは声を絞り出した。
「兄上がいなくなり、お上を恨んだ。義父を虐められて、憲兵を恨んだ。メルクリウスを恨んだ。では……」
しゃくりあげ、彼女はゆっくりと見上げた。その顔は、あの時目の前で死んだ妹そっくりだ。
「今となってわらわは、誰を恨めば良いのだ……?」
健人の心に深く突き刺さる問いかけ。
この身体と、このアスカは一切関係ない。だが魂とアスカは、家族であり、心を許せる相手なのだ。
その心の内に残る闇、健人は力強く抱きしめた。
「恨むな、苦しいなら俺を頼ってくれ。だって俺は────」
言葉が詰まる。この身体に、魂が残る事を許されないこの身体の想いを、健人は確かに伝えたかった。
なのに、一切声が出なくて────
『コイツは、お前の事が好きなんだとよ』
「──っ⁈ だ、誰だ!」
『アスカ、久しぶりだな』
身体がまた“魂”に奪われている。なのに、健人は何故か安心していた。
「あに……うえ……?」
『ああ、そうだ。この身体の代わりに思ってることを言いたくてな』
「本当に……兄上なのか……?」
『ああ、尻尾の付け根のホクロは無くなったか?』
ゆっくりとアスカの頭を撫でながら、ケントは微笑んでいた。
「な、あ、兄上、それは秘密にして欲しいと──」
『まぁ、いい。アスカ、今この身体に何が起きてて、何が起こるか分かるか?』
真面目な口調に、アスカは静かにケントの顔を見ていた。
「分からぬ」
『そうか、じゃあ、よく聞いとけよ?』
ケントはアスカを座らせ、自分も隣に座った。太陽が落ち、星々が見え始めている。
『この身体は、別の世界の加賀谷健人、という男のものだ。だが、魂はこの世界のカガヤケントだ。元々はそうなるはずだった。だが、コイツは生きる事に執着しすぎた』
「どういう事だ……?」
『コイツは、臆病者だった。だから、“絶対に死にたくない”って思って引き寄せられたんだ。それで、魂も半分くらいついてきてしまった』
健人はしみじみと、堕ちゆく陽を見つめていた。
『コイツの臆病な根っこはどうしようもできねえ、だが“この世界にいるのはお前の兄貴、カガヤ・ケント”だ。決してコイツじゃねぇ』
「そんな、酷いことを言わなくても……」
『いいんだよ。結局俺は、コイツの魂と一度統合されて、新たな“加賀谷健人”を作り出された。だから、ここまで戦い抜けたんだよ』
「兄上と……健人が……」
アスカはゆっくりと、顔をあげる。そこには確かに故郷にいた“兄”の姿があった。
『もう時間だ。この儀式に失敗した以上、俺はこのままこの身体に呑まれる』
「…………兄上は、いなくなるのですか?」
喉から彼女の嗚咽のような声が聞こえる。アスカは、何もできない自分が悔しかった。
『ああ、そうだ』
昔みたいに呆気なく、サッパリとした返事が返ってくる。
「…………ぃ…………るぃ…………ずるいずるいずるいずるい!!! わらわは兄上を探してたのに!!! わらわは兄上の為に戦ってきたのに!!! どうして、どうして勝手にいなくなるんだ!!!!」
感情が爆発した。こみ上げる物を抑えきれぬは剣士の恥。そう心に刻んできたはずだった。だけどこんな酷い話、どうして堪えられるのだろうか。
────でも、そうか。
アスカはようやく、自分の存在意義に気がつけた。
自分は、兄の為に剣を振るい続けてきたのだった。
『ごめんな』
そっと、そっとアスカの頭に手を乗せる。彼女の剣呑とした性格、その奥底では誰よりも相手の事を思う性格。それを知っているのはケントだけだ。
『大きくなったな、アスカ』
ケントは、戦場跡の草原に寝転んで月を見上げる。その頰に、雫が照らされていた。
「────ありがとう」
アスカは隣にゆっくりと添い寝した。自分が作った血の匂い、土の匂いが漂う。
哀愁漂う風の音に、耳を澄ませる。
「────────月が、綺麗だな、健人」
ゆっくりと、滲む満月を瞳に焼き付けながら、彼女は意識を手放した。




