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Episode.40:久遠の苦悶、魂裂きて


「つまり、スズ達は何もしなくていいのにゃ?」

「いや、そういう事ではない。だが、まだ待っていれば大丈夫だ」


 夜が明けて、散歩帰りのスズと瞑想帰りのアスカが歩いている。石畳は月明かりに照らされ、仄白ほのじろく光っていた。


「でも、そろそろこの戦いも終わってしまうのにゃ?」

「ああ、そうだろうな」

「そうしたら、これからどうなるのか分からないにゃ〜」


 スズは少し寂しげに、腕を組みながら歩いていた。彼女がポツリとつぶやいたその言葉は、アスカの心でやけに響いた。静かだった湖面に一つの石が投げ入れられたかのように。


「姫様、元気にしてるといいにゃ〜」

「……そういえば、わらわはその話を詳しく聞いておらぬ。どういう話になっているのだ?」


 アスカの問いに、スズは少し面食らったような顔をしながらも、ゆっくりと答え始めた。


「ティアーヌ姫はクルシケ島の大神殿に監禁されてるのにゃ。だから、反乱軍も一緒に倒さなきゃいけないのにゃ」

「そうか、今はそのティアーヌ姫は生きているのだな?」


 アスカの気の抜けた問いに、空気は凍りついた。彼女が何の気なしに振り返ると、スズはプルプルしながら涙をこらえていた。


「す、すまない。何か気に障る事を言ってしまったのか?」

「ひ、姫様は生きてるのにゃあああ!!」


 突然スズは泣き叫びながら、走って行ってしまった。アスカは追おうと足を踏み出した。しかし、背中に走る冷たい感触にその脚を踏み留めた。


「誰だ」


 凛とした調子を崩さず、アスカはスッと振り返った。

 見返り際に走る一閃を造作もなく払い、ゆっくりと下段に構える。その目の先には袖の無い黒の小袖に黒袴を履いた女が立っていた。剥き身長尺の得物をゆらりと構え、不敵に笑っている。その顔は、見知っているどころか──


「な、わらわ……の偽物か?」

「何言ってるんだい、アタシはアタシ。それ以上でもそれ以下でもないよ」


 月下に麗人二人が並び合う。だが、黒き女剣士の瞳は、その顔に珍しく黒々としていた。


「野太刀を手にわらわに向かうその意気、見せてもらおう」


 息すら聞こえぬ街の辻、二人の視線が混じり合う。


 刹那に響く鉄の音、熾烈な鍔迫り合いが繰り広げられる。

 勝敗つかぬまま、九歩の間合いに離れる。


「お主のそれは、およそ三尺五分はあるか。よく扱いきれるものだ」

「アタシも頑張った方でしょ、死んだ()()の為に鍛錬したんだ」


 少し物憂げな顔で、彼女は野太刀を地面に垂らした。


「兄さんは、とても強かった。村では剣聖と言われて、兄さんはそんなの気にせずに敵を倒してた。アタシはそんな兄さんが大好きでね、必死に追いつこうとしたわけさ」


 彼女の声が、頭に痛い程響く。だが、アスカは耳を塞ぐことができなかった。


「でもね、あの日で私の人生は変わった。アタシは今でも覚えてる。あの血の臭いを、焼ける喉の痛みを、屍しか残らなかったあの村の光景を、今でも覚えてる」


 わらわだって覚えている。そう反論したかった。だが、喉が焼かれたように声が出ない。


「だけど、アタシは運悪く生き残っちまった。しかも、在ろう事かアタシの村を滅ぼそうとした国の住民になったんだ。その時は首切って死のうと思ったね」


 彼女は苦しそうな声で、でも引きつった笑顔を見せながら独白し続けた。


「ただ、兄さんからもらった刀で死ぬのは嫌だった。その代わり、兄さんの仇を討つ為に戦い続ける。そう思ってたんだ」


 その時の彼女の決意はどれだけ痛い物だったのだろうか、誰にも想像がつかないだろう。


「気づいたら、アタシの後ろには屍が山になっていた。でもそれはしょうがないって思ってたんだわ。だって、この国は元々腐ってるし」


 アスカはじっと彼女を見据えている。自らの進んできた道を否定されぬように。

 彼女もじっとアスカを見据えている。自らの進んできた道を否定するために。


「して何故、今更わらわの前に立ちはだかる。お主の好きに生きれば良いだろうに」

「──それはな、アタシが元々”アスカ“だったからだ」


 突飛な発言に、アスカは目を丸くしじっと構えた。この酔狂な女に使う時間はない、と言わんばかりに尻尾をパッタンパッタン振っている。相当イライラしているようだ。


「お前さんは、元々あの村、あの山、ちょうど摩利支天様まりしてんさまの祠でお前さんは殺された。うんにゃ、ちょっと違うな。お前さんじゃなくて──」

「黙れ」


 また火花が散った。片方は静かに、片方は優雅に刀を振るっている。

 軋む音が聞こえたかと思えば、鍔迫つばぜり合いは終わり、激しい打ち合いになる。


「そんなに聞きたくないなら、アタシの事を斬ってみな」


 ゆらりと立ち、“アスカ”は挑発するように尻尾をゆらりと振った。

 アスカは、挑発に乗る気は無かった。そっと刀を鞘にしまう。


「それは、始まりの準備ってところか?」


 目の前にいる“自分”は、立ち合いに心踊らさせているように見えた。


「抜け、そんでアタシを斬れ。斬れないんなら、アタシがお前さんを斬る」


 ゆらりと輝く三尺半ばの刃、その威風に似つかわしくない神速で刃が振るわれる。遠間で構えるその姿は、さながら”剣華けんか“だった。

 “黒き剣華”と“紅き剣鬼”。月下に相見える二人の、凍てつく視線が混じり合う。


「────いざ、尋常に」

「────勝負っ!」


 刃交わるまで、そこは無音であった。

 剣閃ひらめき、熾烈に打ち合う。ただ一刀を以って相手を斬り伏せる。

 そこに憎しみ、悲しみ、辛さ、痛さ。醜悪な感情は一切なかった。

 打ち合いは苛烈になり、剣劇が繰り広げられていた。十合、二十合、三十合。幾重にも渡る打ち合いは両者ともに譲らない。

 凄絶な打ち合いは引き分けて、また剣気が混じり合う。


 もはや何合打ち合ったかわからない。ただひたすらに剣を振るい続けた。

 

 光は一瞬の事だった。先を照らす光がただ刹那的に光る。それを掴んだのは────アスカだった。



 ────勝負あり。

 “アスカ”はゆっくりと崩れ落ちた。野太刀が石畳に転がる。


「あーあ、アタシの身体を返してもらう最後のチャンスだったんだけどなぁ」


 彼女は、いつでも不敵に笑っていた。その姿を見て、アスカはどこか胸が責められていた。

 自ら、になるはずのものだった”自分“が目の前にいる。それは、事実だった。斬った感触も夢幻ゆめまぼろしの類ではなかった。


「う、薄気味悪い事を言うな、わらわの身体はわらわの物だ」

「別に、アタシは兄さんと一緒にいられたら良かっただけだし?」


 斬られても全く動じない“自分”に、アスカは恐れを抱き始めていた。

 自分はこうなったのかもしれない。その得体の知れない恐ろしさが心にもたげていた。


「アタシはあの時死ぬはずだった。いや、死んでおけば良かった。だけど、アタシは死ねなかった。兄さんの元に帰りたかったし、まだまだ一緒に色んな事をしたかった。その念がかみさんに伝わっちまったんだ」

「何を言っているのか……分からないぞ……」

「まぁ、ただの亡霊の戯言だと思って聞いてくれ。目の前に神さんが現れた。そいつはな、アタシを見て、大鳴きし始めたんだ。正直アタシも意味分かんなかった。だけど、突然普通に言われたんだ。『汝、現世に未練は在るのか』ってね」


 “アスカ”はふと、目をあげた。その顔に不敵な笑みは残っていなかった。


「アタシはね、その時そいつに心をやっちまったんだ。それが最後だった。突然気持ち悪くなったかと思えばちょいと先の未来が見えてる。気づいたら、父親代わりのいいおっさんの為に憲兵を殺してんだ、この手で。そんな事、本当はしたくなかった。だけど、アタシは何もできなかった。お前さんが持つ“眼”が、アタシと言う人格を一切出さないようにしたんだ!」

「わ、わらわに言われても……」

「アタシは兄さんと幸せに生きたかった。目の前に兄さんがいるのに、お前さんはいつも他人みたいにして、兄さんが壊れかけても助けようとしなかった。アタシは……アタシは……」


 声がつまり、雫が石畳にいくつも落ちる。その背中は震えていた。


「すまない、わらわにはどうしようもない事だったんだ」

「別にいいさね、お前さんも必死に生きてたんだから。だからこそ頼みがある」

「アタシを思い出してくれなくていい、だから……」


 ────お前さんが兄さんを、カガヤケントを守り続けてくれよ


 ポツリと言葉を残して、“アスカ”の身体は消えていった。

 残されたアスカの手には、輝きを失った“ソウルディーラー”が握られていた。


「そんな……そんな、バカな……ハハ、疲れているのだろう」


 アスカは自分が地面に倒れ伏せるのを感じながら、“兄”の事をずっと考えていた。

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