Episode.29:紅の夢は何処へ
健人が目を覚ますと、身体がもさっとした藁に包まれていた。シャツの中まで入ってくるチクチクした感触がかなり気持ち悪い。彼は、逃れようと手を上げた。
頑丈そうな手錠がかけられている事に気づき、健人はため息をついた。足にも枷が付いており、身体の自由は一切効かなかった。
「抵抗しなければ、我らは何もしませぬ。なので、落ち着いてくだされ」
口元を隠した黒装束の男が、静かに座っていた。すぐにでも立ち上がれるような姿勢を取りつつ、健人をじっと見据えて警戒していた。
「あ、貴方達は────」
突然、健人の視界は暗くなった。目の前には表情の見えない忍が、ただ口を塞いでいた。だが、人間の感情すらも見えない男に、健人は余計に恐怖を感じた。
「次に騒げば首を摘み取る。心に留めておけ」
健人の身体は震えが止まらなくなり、自然と涙が溢れ始めた。幌馬車の揺れが、男を現実から逃れさせない。
男は元の姿勢に戻り、また微塵も動かなくなった。
「貴方は一体誰なんですか……」
「“山”に着いたら話をしまする、それまではどうかお眠りください」
全く表情を変えずに、男は冷淡な口調で返した。健人は怯えて隅に逃げようとしたが、一本のクナイが腕に刺さり、動きを止められた。だがその痛みは感じず、彼の意識はゆっくりと沈んでいった。
***
健人が目を開けると、そこは建物の屋上だった。だが、ここがどこかは全く見覚えがない。
「ねぇ、もしも今いる世界と別の世界に行けたら、健人は何がしたい?」
後ろからの声に驚き、ゆっくりと彼は振り向いた。そこには白いケープを羽織った女性が立っていた。フードを深く被り、表情は一切見えず、胸元には見覚えのある鉱石が提げられている。
「な、何の質問をしているんですか?」
「そんなことはどうでもいいの、質問に答えてちょうだい?」
女は少しずつ健人に近づき始めた。
熱い吐息、妖しげな唇、艶かしい腰つき、ケープの上からでも分かる美しい身体、女のその姿に健人は目を奪われてしまった。
────目が離せない。
見覚えがあるはずなのに、話したことがあるはずなのに、関わりがあるはずなのに、何故か彼は一切思い出せなかった。
そもそも、何故この女と関わりがあると思ったのか。その根拠すらない。だが、健人の脳はその女の事で一杯だった。
この女に目を奪われた。ならば、次は心を奪われ、体を奪われるのだろう。
「あ、ああ、そんな、ものは、ない」
残った理性の欠片だけで、健人は言葉を絞り出した。だが、その理性はますます女に奪われていく。
いつのまにか、女は健人に抱きつき、ねっとりと絡みついていた。
腕には柔らかい感触が、首筋には蕩けさせるような吐息が、耳には熱く甘い声が、全て健人の心に伝わり、理性を蒸発させていく。
「嘘はついちゃダメ……全部知ってるんだから……」
首筋に走る、冷たくも熱い、矛盾した感触。健人の本能と理性を繋ぎとめているのは、一本の切れそうな糸だけだった。
「貴方には、欲しいものが沢山ある。でも、それを一つにまとめるとしたら…………愛、ね」
背筋に冷たい感触が走る。だが、健人にはそれが心地よく思えた。
「だって、貴方は、あそこで全てを失った筈なんだから」
彼女が何を言っているのか、彼には全く理解ができなかった。
自分が失ったモノ、家族だろうか。否、それはない。父も母も元気に暮らしてるじゃないか。それに、妹だって…………
────妹、って誰だ?
そもそも、妹がいた記憶がない。いつ俺には妹がいたのだろうか。前の世界には心当たりがない────────
突然、喉が焼けるような感覚に襲われる。いや、喉だけじゃない。腕も目も口も鼻も髪も心臓も、全てが炎で焼かれるような感覚。健人は必死に叫んで、逃れようとした。
こんな所で死にたくない。どうして死ななければいけない。そもそもここは夢の中だったはずだ。
悶え苦しみながら、前に進む。左を見れば粉々の瓦礫だらけ、右を見ても瓦礫の山。空は赤く、地面も赤かった。
あまりの恐ろしさに、健人は急いで逃げ出した。だが突然、彼は足首を掴まれて簡単に転んでしまった。
焼けるような熱さの地面から、なんとか身を起こす。足首には血がべっとりとついていた。
「…………おにいちゃん、どうして助けてくれないの?」
後ろには女の子──だったのであろう人型が立っている。皮膚は爛れ、目は片方が潰れ、髪はボロボロになっている。肩は外れ、膝は骨が見えている。
「やめてくれ…………近づくな……」
「どうして…………おにいちゃん…………あついよ…………」
目の前の子供に怯えながら、必死に逃げようとする。だが、周りの炎がそれを許さない。
健人は死を覚悟した。だが、その覚悟はもろともに吹き飛んでしまう。
────ああ、ここは“あの時”だったのか。
家族みんなでショッピングモールに出かけた。あの時はとても幸せ──なはずだった。だが、それを壊したのは無情なる爆発だった。感情なき炎はコンクリートを、ガラスを、全てを破壊した。
気づけば、健人の上には母が覆いかぶさっていた。放たれる熱線や瓦礫から子供を守ろうとしたのだ。
健人は父と母の手を握り、逃げようとした。だが、その手は止まった。
脳裏には妹の姿がよぎる。自分が力が無いのは分かるが、彼は火の中へ走っていった。
「健人、戻って来なさい!!」
「健人、そっちに行ってはいけない!!」
そんな事は知っていたはずだ。自分はまだ十歳、こんなに燃え盛っている地獄から妹を救い出す事なんて、出来るはずがない。だが、健人は違った。
「うるさい、ボクは◾️◾️◾️を助けるんだ!」
健人は一心不乱に走っていく。何かに誘われるように、何かに呼ばれているかのように、地獄の中を走り抜ける。
────そうだ、彼女が◾️◾️◾️だ。こんなに変わり果てた姿になってしまったが、◾️◾️◾️である事には違いない。
「ごめん、今助けるよ」
十年経って、彼女をようやく助けることができた。健人は手を伸ばして彼女の身体に触れた。
だが、その体は朽ちた木のようにボロボロと崩れていく。彼は思わず手を止めてしまった。
「もういいよ、おにいちゃん……」
生気のない声。だが、健人は諦めたくなかった。逡巡しているうちに妹が手を伸ばした。
「これね、おにいちゃんにあげたかったの」
淡い青色のネックレスが妹の手にぶら下がっていた。彼はそのネックレスを受け取った。
「だいじに……して……ね……?」
そう残して、妹の体は灰となり地面に崩れ落ちた。蒼く揺らめく炎が、健人を現実から乖離させていた。
ネックレスを手に取り、ギュッと目をつぶる。頰を一筋の雫が流れたような気がした。
健人はゆっくりと、目を開けた。そこは既に山の中だった。
***
「お頭、例の“犬っころ”がこの山に入ったようですぜ?」
聳え立つ岩山のどこかにある岩窟、その奥に作り込まれた精巧なからくり屋敷の最深部に、二人の男女がいた。
「よくやった、アヤ。俺の膝に乗っていいぞ?」
「では、お言葉に甘えて」
忍び装束の女は椅子の上に座る男の膝に飛び乗った。男は、喉を鳴らしながら甘えてくる女化け猫をわしゃわしゃと撫でてやっていた。
「それにしても、王国の犬なんか連れて来てどうするつもりなんすか?」
あっけらかんとした口調で、アヤは男に問いを投げかけた。男はアヤをギュッと抱きしめる。
変な声を出しながら、にゅるりと腕から逃れたアヤを意に介さず、男は茶を飲み始めた。
「ちょっとな、そろそろかっこいいところを見せないと、俺のメンツがたたねぇしな」
「お頭は、あのセクハラ爺を素手で首の骨を折ったんだ。その時点でもうカッコいいよ〜」
アヤは床の上でクネクネしている。その姿を見ながら、男は愉快そうに笑っていた。
男の頭には猫耳がない、尻尾もない。決して忍術や妖術で隠しているわけでもない。
「まぁ、そろそろ体も馴染んで来た頃だし、いいところ見せたいんだよ」
「そうか、人間って不思議だなぁ」
アヤは男を、尻尾をゆらゆらさせながら見ていた。
「“健人”、よく来たな…………」
齢二十にも見たなさそうな青年がニヤリと笑って、また茶を飲んでいた。




