Episode.19:血戦という名の物語
「父上?」
信じられない光景がアスカの眼前に広がっていた。
先程まで、優しく自分の娘を抱きしめていた老人。そんな彼が、倒れていた。その腹は何かによって穿たれている。
「父上…………父上っ!!!」
「すまないな、一突きでお前を殺すつもりだったのだが、ズレてしまった。この所業、やはり親の愛とは素晴らしいものだ」
槍を立てて、漆黒の槍兵はアスカの幸せを踏みにじるように、あっさりと言い放った。彼女の目の前には既に虫の息となっている父がいる。
「許さぬ…………絶対に許さぬ!!!」
抜刀一閃、夜の闇に、金属の当たる音と火花が散った。アスカは既に抜刀している。だが、槍兵の身体には傷がついていない。
「やはり、貴様が”猫神の魔眼”を持つ化け猫か。一人でも殺しておけば我が王の望みが成就する。お前にはここで死んでもらうぞ」
「────わらわの父をこのようにした罪、地獄の底で後悔させてやる…………!!」
大上段の構えから間合いを詰めにかかる。だが槍の利点は、柄の長さである。リーチの長さを有効に使い、間合いを保つ。アスカは間合いに入る事すらできなかった。
「剣の心得は少しあるようだな。だが、俺の首を落とす程精巧なものでは無いようだな」
「何をっ、槍兵の一人や二人、首を刎ねる事など造作もないわ!」
アスカの言葉を、漆黒の槍兵はふんっ、と鼻で笑い飛ばして槍を下段に構えた。
「無知とは必ず死を呼ぶ。俺の顔を知らないで挑むとは、無謀としか言えんな?」
「わらわにとって敵は敵だ。名前など関係ない」
「ほう、では俺がランベルト=メルクリウスと聞いても何も恐れないのか」
「ランベルト、ランベルト…………ほう、名前だけはわらわでも知ってるぞ。近衛騎士団、一番隊隊長だったな?」
自らの名が知れ渡っていた事に満足したのか、ランベルトは口角を緩ませた。
「ならば話が早い。俺の武勲のうちの一つになってもらおうか」
「たわけ、わらわの刀の餌食になるのは貴様だ」
燃え盛る牢獄の前、漆黒の槍兵と真紅の剣士が相対した。アスカは下段に構え、ランベルトも隙を見せぬ構えをとっている。
雲が流れ、月を覆う。一時、辺りは闇に包まれた。
────来るっ!
今まで、剣士として磨いてきた直感だけで、彼女の身体は動いていた。月がまた現れた時、ランベルトの刺突が際限なく繰り出されていた。戻りの隙が一切なく繰り出される、死の刺突。アスカは”眼”を駆使して、”死の点”を見切り捌いていく。数多の刺突を躱されたランベルトは、後ろに下がり態勢を仕切り直した。
いざっ、と一息入れて、今度は薙ぎ払うような斬撃を繰り出してきた。ありとあらゆる方向から現れる薙ぎ払いはアスカを翻弄するに十分だった。
打ち合う事、三十合。状況は一切変わらなかった。否、アスカがランベルトに傷一つ付けられていないと言った方が正しかった。
「わらわの眼が通らぬ、何故だ…………」
「おまえの眼の事なぞ、俺には関係無い。俺は、お前を貫く事しか考えていない…………」
ランベルトは、漆黒の柄を握り直し、何かを呟き始めた。すると、紅に輝く十字の刃がくっきりと光り始めた。彼の殺気が増したのではなく、槍自体が殺気を帯びているようにアスカは感じた。
「我が死槍、”モルスラミーナ”に貫かれる事を光栄に思うがいい」
槍が纏っている殺気は、もはや闇の中でもハッキリ見えるくらいに禍々しいものとなっていた。アスカの第六感が告げていた。
────逃げろ、逃げろ!!
刀を中段に構えつつ後ずさりする。そんな自分が悔しくてしょうがなかった。
────こんな奴に、父親を殺された挙句、自分も殺されるなんて
敵に思念を悟られる事ほど、死合いで致命的な事は無い。だが、そんな定石ですらいとも簡単に壊してしまう程の何かが、その槍には込められていた。
「"Domine mi hastam accincti flammis mortis"」
ランベルトの詠唱が終わると、十字の刃が禍々しい紫炎を纏っていた。比喩表現ではなく、物理的に纏っているのだ。アスカは恐れる気持ちを隠そうとするが、全身が震えてしまってはそれも意味の無いことだった。
「覚悟はできたか? 背中の傷は戦士の傷だ。前から貫いてやろう」
一息で貫かれる。その恐怖は常人には耐え難いものだった。アスカは眼を瞑ろうとした。しかし、その一瞬、倒れている父の姿が眼に入った。その父は目を開けていた。我が娘の勇姿を逃さぬように、しっかりと両の眼を開いていた。
「わらわはここで死ぬ気は無い…………」
下段に構え、息を整える。
────間合いは四間、すぐに詰められる。
「ほう、ここまで来て闘気を上げるとは大したものだ。いいだろう、俺はお前を全身全霊をかけて殺す」
互いの矜持や鋭い眼光が激しく混じり合う。アスカは八双に構え、ランベルトの一挙手一投足を見逃さんと目を見開いた。その間合いは九歩程、しかし、その間には深い幽谷が横たわっている様だった。
***
剣士と槍兵が睨み合っている中、牢獄から離れる一台の馬車があった。馬車にはボロボロのメイド服を着た化け猫と、黒いフード付きのローブを羽織った女性が乗っていた。その後ろの荷台には包帯でグルグル巻きにされた人間がいた。
「貴女は、スズというのね?」
「そうですにゃ、助けてくれてありがとうですにゃ」
自他ともに認める普段の明るさは、今のスズには一切無かった。
目の前で起こった惨劇。目の前で反乱軍は命を蹂躙していった。命乞いをする化け猫を容赦なく射殺、断頭する化け猫達。種族は同じはずなのに、争っている。普段から王城で暮らし、自ら出かけることのなかったスズにとって、悪夢のようだった。否、今まで見ていた生活が夢で、それから醒めてしまったのかも知れない。どちらとも言える程の惨劇だった。そして、一番スズの心を抉った出来事があった。
「け、健人は、あのまま、ですかにゃ?」
スズが自分の事を非力だと思っていようが、彼女の事を邪険にしない。それどころか自分の事はお構い無しに、正しいと思った道へ進んでいく。そんな人間と出会ったのは、健人が初めてだった。大きな成功をした訳でもないのに可愛がってもらい、優しく撫でてくれていた。しかし、牢獄での”彼”は全く違った。
己が身につく傷など気にせず、ただただ狂戦士のように敵を斬り裂いていったあの姿。スズは恐怖でしかなかった。
「そうね、なんとか回復魔法が効くぐらいの傷だったから、傷自体は一週間あれば治るわ。ただ、血を失いすぎて意識的には相当な時間がいるわね…………」
「…………分かりましたにゃ。ありがとうございますに────
突然、闇の中から鋭い金属音が響いてきた。ただの戦いの音ではない。金属音と共に剣戟を交えている両者の殺気が、肌にひしひしと伝わってきた。
「…………何故こんな所で他人の魔力が? この国で”魔術師”として認められているのは私とカストラーノと、あともう一人。反乱軍の首魁たるカストラーノがここにいるはずがないから…………アイツか!」
女性は馬車の操縦士に耳打ちする。すると、操縦士は馬車の進む方角をがらりと変えた。
「どこに行くのにゃ?」
「魔術が人を殺める為に使われようとしている。それを止めに行くのよ」
「でも、早く逃げないと、け、健人が死んじゃうにゃ!」
「大丈夫よ、心配しないで」
と言って、女性は被っていたフードをとった。
現れたのは長い灰色の髪に猫耳のついた妖艶な女性だった。スズはあまりの驚きに口が開いたままになってしまった。
「うふふ、突然見覚えのある顔が出てきてびっくりしたのね? でも、そんな顔でもかわいいわね〜」
「スズがかわいいか、かわいくないかなんて今はどうでもいいのですにゃ! どうしてお医者さんがここにいますにゃ?!」
「当たり前じゃない、だって…………」
と言いながら、彼女はスズの頭を掴み目を合わせた。スズは、彼女の紫紺の瞳に吸い込まれるような錯覚に陥る。その瞳は明らかに普通の物ではなかった。
「お医者のお姉さんも特別な眼を持っているのですかにゃ?」
「そうよ、その話は後で沢山してあげるわ。とりあえず、今はこの状況を何とかしないとね?」
スズは覚悟を決めたのか、にゃっ、と鳴いて音のする方を翡翠の瞳で見据えた。
***
漆黒の槍兵と真紅の剣士、その打ち合いは五十合に及ぶ。間断なく繰り出される死の刺突。それを見切り、刀でいなして間合いを詰める。だがそこにランベルトの薙ぎ払いが繰り出され、また元の間合いに戻る。それを続けていた。
「さぁ、"Sanguinem crucis nova cupiunt, vel eius vis dimittere"‼︎」
詠唱と共に今までよりも疾い刺突が繰り出される。それはアスカの身体を貫く────には至らなかったが脇腹を掠めた。その瞬間、紫炎が脇腹を焼き、彼女を悶絶させた。
脇腹の傷は呪いの炎に包まれ、アスカの事はお構い無しにじわじわと焼いていた。
「トドメだ、潔く死ね!!」
致死の十字がアスカの心臓めがけて飛び込んでくる。それを躱す術はアスカには────
「唵阿爾怛摩利制曳莎訶!」
あったようだ。アスカは手指を不思議な形に組み合わせて呪文を唱えた。すると、彼女の姿がランベルトの視界から忽然と消えた。
「逃げてはいないのか。なかなか小癪な真似をするじゃないか。さぁ、どこから来る?」
「本来ならば悪鬼から身を隠す呪いだったが、本当に効くとは思わなかった。だが、見えないまま首を刎ねるなど無粋な真似はせぬ」
アスカが唱えたのは、古くより”東方”の地に伝わるという呪詛のうちの一つだ。だが、これは一時的に神仏の力を借りるゆえ、自らの魔眼はもとより視力も一時的に失われる。それでもアスカはこの手段をとった。逃げる為でも、卑怯な手を打つ為でもない。反撃の一手を打つ為だ。
「我らが主、バステトよ。わらわの眼に力を与えよ。その慈悲を持って悪鬼に裁きを」
アスカは刀を前に構えて、何かの呪文を詠唱し始めた。
一つ。今、我が身は窮地に立たされり。
二つ。之は悪を打ち倒す死合也。
三つ。之は自らの手を以て始めし死合也。
四つ。之は無垢なる生命を屠る死合に非ず。
五つ。之は我が命を賭した死合也。
「これにて、我が眼、聖戦に相応しき眼と示したり。我らが神よ、今こそ我が眼を活かし、わらわに勝利を与えたまえ…………!」
拘束解放、活性完了。アスカの”眼”は活性化状態に入った。そこでアスカの印の効果が切れる。
アスカの目は普段よりも赤くなっているように見えた。
「ここまで打ち合ったのはお前が初めてだ。ならば敬意を評して近衛騎士団改め、聖フランシス騎士団が一番槍、推して参る…………!!」
夜明けが近づき、闇も払われつつある時だった。二人の”戦士”は生死を賭けた戦い、まさに”死合”と言っても過言ではない死闘を繰り広げていた。
二人が初めて打ち合い始めてから七十合、互いに一歩も譲らぬ展開。アスカの”眼”は活性化している。故に〇.五秒先ではなく、三秒先の未来を見る事が出来ている。自分が今生きているこの時間から三秒後の世界を全て把握する。これは近接戦闘において、もはや無敵といえよう。
だが、それでもランベルトの槍術は、破れるものでは無かった。突き、薙ぎ払いの多彩な攻撃。そして、身のこなしの俊敏さは、化け猫随一であろう。
互いに互いの手を読み切り、守りきっていた。
突然アスカが後ろに飛び退き、下段で構えた。彼女には何かが見えたようだ。ランベルトは面食らったような顔をした。
「まさか、そこまで読まれているとは、俺が甘かった……か?!」
ランベルトの空を切り裂くような薙ぎ払い。だが、その薙ぎ払いはただのそれでは無かった。
アスカの身体が、槍の刃に当てられていないのに、後方に吹き飛んだ。ランベルトの死槍は風をまとっていた。
「俺は、”魔術”を扱うことを国から許可されている。魔術とはお前達一般人にとっては禁忌だが、俺達にとっては違う。俺達にとっては────
「天の威光を示すもの、よね?」
アスカの後ろから凛とした声が響く。アスカが思わず後ろを振り向くと、そこには見覚えのある化け猫が立っていた。
「この国での魔術の立ち位置は、天を顕し、地を護り、人を生かすモノ。その魔術を使い、天からの災い、地の呪いを断ち、人の世を繋ぎ続ける。それが私達”魔術師”の役割じゃなくて?」
「貴様に何が分かる…………!!」
「ええ、分からないわ。“Bodenwand, gereinigt“」
紫髪の化け猫はアスカの目の前に立つと、その場で呪文を唱えた。すると突然、アスカの前に無機質な土の壁がそびえ立った。
「人の魔術師たるカストラーノ公爵や、天の魔術師たるメルクリウス卿が何故このような凶行に走ったのか分からないわ。でも、誰がなんと言おうとこの国での魔術の在り方は変わらない。だから、申し訳ないけど、私はこの地を護らせてもらうわ」
「魔術師の摂理なんて関係ない。俺は俺のやるべき事をするだけだ」
「勝手に言ってるといいわ。“Brennen und fallen”」
ユリの詠唱と同時に、土壁が炎を纏った。死の壁と化したそれはそのままランベルトの方へと倒れる。
「”Tantus Auster, defendat“」
その死の壁に、ランベルトも”魔術”をもって対抗する。だが、激しい打ち合いで疲弊しているランベルトと、魔力は充分の今やってきた化け猫。魔力の差は歴然たるものがあった。
「”Lux, potest eripere nos“」
「逃がすものですか!」
ランベルトの詠唱によって、突然辺りが眩い光に包まれた。
「そこの剣士、名をなんという」
「アスカ、アスカ=フェルゲンハウアーと申す」
「その名、覚えておこう」
それだけ残して、ランベルトは撤退した。紫紺の化け猫は悔しそうに唇を噛んでいた。
「私達は馬車で待っているわ。早く来なさいよ?」
紫紺の化け猫はアスカにそう言い残して立ち去った。
アスカは、刀の剣先を引きずりながらニコライの元に向かった。ニコライは身体を起こすこともままならない傷を覆っていた。
「父上……父上!!!」
「アスカ…………この戦いを文に起こしたかったが、それは冥土の世界へとお預けのようだな…………」
「そんなことありません! わらわは父上のお話がもっと読みたいです!!」
アスカは自らの父の身体を抱き寄せた。その身体は既に冷え始めていた。
彼女は、その身体を温めようと、きつく、きつく抱きしめた。父の弱々しい呼吸がアスカの耳に響いていた。
「そうか、それは嬉しいな…………そうだ、アスカ。一つ伝えたいことがある。この世の中で一番面白い物語はなんだと思う?」
「…………分かりませぬ」
アスカは戸惑ったようにニコライの顔を見つめていた。そんな娘を見て、父は彼女の頬に手を添えながらゆっくりと言葉を発した。
「世の中には面白い話が沢山ある。少年が死体探しの旅に出る物語や、復讐に生きる暗殺者の物語。まだま沢山あ…………」
「ダメッ、わらわが病院に連れて行くから! 大人しくしてて!」
アスカは抱きしめてニコライを静かにさせようとした。まだ生きていて欲しいからだ。だが父は、言葉を続けた。
「いいんだ、わしはもう長くない。だから、アスカ、一つだけ覚えていてほしい。わしが思うに一番面白い物語は、ファンタジーでもミステリーでもない。自分自身が生きてきた人生そのものだ」
「自分……の……?」
アスカは目に涙を浮かべながら聞き返した。ニコライは優しい微笑みを浮かべた。
「生きていて何も無かった人生なんてものは無い。一人一人の人生、一つ一つの物語には必ず山場があり、結末がある。だからわしは、今が面白くなくても、誰か一人でもその”物語”を覚えてもらえば良いと思っている」
「嫌だ! そんな事言わないでくれよ!」
娘の悲痛な叫びをも受け止めて、なお父親は一言語った。
「…………わしの“人生“は面白かったか? 我が娘よ」
アスカの叫びを受け止め、なお残したニコライの問い。それでアスカは全てを察した。
彼女はゆっくり、頷いた。その頬を大粒の涙が伝っていった。
ニコライはそれを見届けると、そっと目を閉じた。アスカはその体を抱きしめた。
「ありがとう…………父上…………」
人に感謝の念を伝えたのは何年ぶりだろうか。だが、それももう届かない
アスカは、近くのヤマツツジの木の下にニコライの体を置いて穴を掘り始めた。
穴を掘り終え、冷え始めてはいるが暖かさの残る体を抱える。
「わらわは…………もう恩讐の為に刀を振るいませぬ…………ただ、ただ、誰かの為に刀を振るい…………一生懸命に物語を紡ぎたいです…………」
そっと、体を穴に入れて、手で丁寧に土をかけていった。
ヤマツツジの木には夜明けの暖かい陽の光が射し始めていた。




