Episode.1:人ならざる人型
…………にぃ…………ついよ……けて…………
健人の脳内に幼い子供の声が響く。目の前には、皮膚という皮膚が焼け爛れ、目から血を流した小さな人間のようなものが動いていた。健人は、足が震えているような感覚に襲われた。
その”人間”は健人に向かって、弱々しく拳を伸ばした。
────触るな! やめろ!! 俺には助けられない!!!
口をパクパクさせながらその”人間”はどんどん拳を突き出す。
健人は恐怖心に駆られて後ずさり始めた。
そして、そのおぞましい拳が徐々に開かれる。健人は、声にならない叫び声を上げて────
「────あああああああああっ!!!!」
否、健人の叫び声はきちんと声になっていた。
「んんっ、なんだよ。ここは、どこだ?」
健人は、眼鏡をかけ直して、辺りを見回した。どうやら彼は、さっきまでいたはずの天文台ではなく、石造りの部屋の中央に寝かされていたようだ。健人はゆっくりと起き上がり、歩き始めた。
「一体、ここはどこなんだ…………まさか、捕まったのか……?」
自分の姿が映るほど磨かれた大理石の上を歩き、辺りを探索し始めた。この建物には錆びた鉄のような匂いが充満していた。
「匂い的には工場か刑務所かもしれないな。でも、そしたら大理石でなんて作らな────」
突然、健人の耳をつんざくような轟音が響いた。健人はすかさず、しゃがみこんで隠れる姿勢をとった。
「なっ、なんだ!! 」
生命の危険を感じた健人は、バネ仕掛けのように部屋から飛び出した。木製の扉はその見てくれと違って、すぐに開いた。しかし、部屋の下に足を踏み入れた瞬間、視界は反転していた。
「ぐっ…………ううっ…………」
足を滑らせて、背中から床に叩きつけられてしまった。床には大量の液体で濡れていた。彼はその液体に触れた手のひらを恐る恐る見た。
「赤い……赤だ……これは……血……?」
健人の表情がみるみるうちに、真っ青になった。床にはおびただしい量の血が流れている。そして廊下中には大量の死体が転がっていた。
「ああああああああああああああああ!!!」
健人はがむしゃらに走り出していた。視界に入る物は全て異質なものだ。青い服、白い壁、そして赤い床。健人はただただ走り続けた。
しばらくして、廊下に終わりが見えてきた。重そうな木の扉が目の前に現れたのだ。健人はその扉へと一目散に走っていく。
「早く逃げなきゃ、俺は死ぬ────」
重い扉を力ずくで開け、健人は中に入った。
「だ、誰だ! 命が惜しければ今すぐ出て行け!」
細い銃身のライフル、マスケット銃だろうか。銃剣のつけられたそれが殺意とともに向けられる。ペールグリーンの袖無し軍服を着た男二人は、尻尾をピンと立てて威嚇していた。
「えっ? 尻尾?」
「時間稼ぎをするな! とっとと出て行け!」
あまりの恐怖に、健人が立ち去ろうとしたその時、少女のすすり泣く声が健人の耳に入った。
「助けてにゃあ…………スズはまだ死にたくないですにゃ……」
少女のか弱い声。健人はそれで足が止まった。
────タスケテ、タスケテ、タスケテ…………
さっき見ていた悪夢が鮮明に蘇る。目の前の状況は、自分ではどうにもできないような絶望に包まれている。
────健人、どんなに臆病でも、弱者を見捨てることはするんじゃない。逃げずに、前を向いて一つ一つやるんだ。
ふと脳裏を走ったのは、父親の口から耳にタコができるほど聞いてきた言葉だった。その瞬間、健人の身体の中でカチリ、と音がしたような気がした。
ふっと、一息ついて、健人は半身に構えた。その目つきは、先程までの臆病者の目とは違っていた。右腕を前に出し、左は丹田の前で拳を握っている。
「お、おい、テメェ、死にたいのか?」
兵士がマスケットの引き金に指をかける。
健人の脚が地面を強く踏み込んだのも同時だった。そのまま間合いを一瞬のうちに詰める。
兵士が引き金を引くよりも早く、健人の拳は兵士のみぞおちにめり込んでいた。その兵士は壁に叩きつけられそのまま崩れ落ちて行った。
「な、お前、俺達の同志でもないし、正規軍でもねぇ。一体何者なんだ?」
「お、俺はただの大学生だと思ってました…………」
健人も自分に起こった変化を捉えきれずに、おどおどしていた。だが、健人の身体は、昂っていた。目の前にある状況、泣きじゃくっている少女を助ける事が、第一義と言わんばかりに、五感全てが研ぎ澄まされていた。
「だけど、何故かはわからない。分からないけど、やらなきゃいけない事があるって、俺の心が叫んでるんです!」
「お、おお、そうか」
「だから、俺は、怖い! だけど、戦います!」
突然別人のようになった目の前の青年に、兵士は文字通り困惑していた。
その兵士に容赦なく健人の拳が襲いかかる。兵士はほぼ反射的に銃剣を突き出した。バヨネットの刃が健人の脇腹を掠める。一瞬遅れて、痛覚が全身に伝わった。だが、高ぶる心はその痛覚すらも凌駕した。
斜めに構えて距離を詰める。ライフルの銃口を外に向けさせながら、体重を載せるように倒す。兵士はその場に倒れ、頭を強打して動かなくなった。
兵士が気絶したのを確認した健人は、隅で女の子座りになって泣きじゃくっている猫娘に近づいた。
「こ、来ないでにゃあ! どうせまたスズにいじわるするのにゃ! 近づかないでにゃあ!」
猫娘は目の前の脅威に対し、牙を向いて威嚇していた。尻尾は太くなり、耳はピンと立っている。健人は、たじろいでしまい、その場で腰が抜けてしまった。
「にゃっ、ううっ、早く逃げないと…………」
彼女は近くに落ちていた木の長弓を手に取って、立ち上がろうとしていた。しかし、太ももからは血が流れ、服はビリビリに破れて、あらわになった肩にはアザが出来ていた。
「む、無理しない方が────いっつ!」
「無理なんかしてないにゃ、姫様を助けるまでは死んじゃいけないのですにゃ……」
「でもボロボロじゃないか……」
だが、猫娘は健人の言う事を聞かずに、立ち上がって逃げようとしていた。思わず健人は自分が傷を負っているのを気にしないで、その猫娘を組み伏せた。
「ふにゃっ?! な、何するにゃ! 離せにゃ!」
「離すもんか、女の子が無理をしちゃいけないだ────」
突如、健人の全身から力が抜けた。下にいた猫娘の上に倒れ込んで、そのまま気絶してしまった。
「にゃっ?! 起きてにゃあ、重いのにゃ〜! 誰か助けてにゃあ…………」
猫娘の悲痛な鳴き声が部屋の中で木霊し続けていた。
***
大理石の騎士像や金の燭台、精巧に作られたワイングラス。どれも一級品ばかりだった。その部屋を一言で表すのならば、豪華絢爛が一番似合う言葉だろう。その部屋の一番上座、金細工で縁取られた椅子に男は座っていた。
「気に入らん。”彼方より出でる戦士”は、今年来るのではないか?」
「お待ちください、何時の月に何処に現れるか、それは預言書を解読している途中ですので……」
「たわけ! 先に”あの者”に取られたらどうするのだ!」
その男は、青いローブを羽織った老獪な男を怒鳴りつけていた。老獪な男は萎縮していた。
「とにかく、俺の計画の邪魔をするな。”戦士”を引き込む事を第一義としろ」
はっ、と二つ返事で老獪な男は立ち去った。出ていってもなお、上座に座る男は燭台の炎を睨んでいた。
「気に入らぬ…………この国はまことに気に入らぬ…………」
男はそのまま、どこかの部屋へと向かっていった。