Episode.16:先見の明
「うわああああっ!! な、なんだ…………」
アスカは汗だくになりながら飛び起きた。窓の外を見ると、ようやく太陽が昇り始めた頃だった。夢の内容を思い出せないが、何が悪い夢だったことには間違いないようだ。汗を拭いながらアスカは、ふと隣の二人を見た。
「あぇぇぇぇえええ、けんとがひとりでサーモンたべてるにゃあ…………ひとりでサーモンはずるいにゃ…………スズもたべっ、だ〜め〜な〜の〜にゃ〜?」
スズは健人の体にしがみつき、ひたすら寝言を喋っていた。
アスカは静かにベッドから出ると、そっとホテルを出て近くの川に向かった。
彼女はまず川の水を手ですくい、顔を洗って口をすすぎ、喉を潤した。ハイメルンの外れにある川の水は、まだ陽が昇っていないからか、心地よいくらいに冷たかった。
二、三度顔を洗い、意識をハッキリさせた所で、アスカは尻尾をくねらせて、河原で瞑想に耽り始めた。
────アスカの”眼”は他の魔眼の保持者と一線を画したものである。
その魔眼の名は『未来可視』。文字通り未来を見ることが出来る物だ。ただ、『未来予知』と違うのは、一日後、一週間後、さらには一ヶ月後の未来を見るのではなく、0.5秒後の未来を見る事が出来るのだ。
そして、何が一線を画しているのかというと、他の保持者は自らの意思で”眼”を発動する事ができるが、彼女はそれができないのだ。だから彼女の瞳には、常に0.5秒先の未来が映っている。
この眼がどれだけ強いのか、詳しく説明するとこうなる。
彼女と敵対する人間が、目の前でアスカに向かって拳銃を構えているとする。そして、その人間は引き金を引く。しかし、その人間が引き金を引く0.5秒前に、アスカは”目の前の人間が自分に向かって銃を撃っている”光景を見ている。だから、アスカは「自分が見てから、本当に引き金が引かれるまでの0.5秒間で敵を始末」すれば、相手に一切、攻撃の余地を与えずに勝つ事が出来るのだ。
だから、アスカは対人戦闘において、傷を負ったのはただの一度だけだった。それは彼女の戦い方もあるのだろう。
鞘から抜きつつ、相手との間合いを一息で詰め、一太刀で斬り伏せる。刀筋はまさしく居合のそれである。故に、“幻想剣士”と呼ばれて来たのだ。
ふぅ、と一つ息を吐いて、アスカは雑念を一つ一つ消し去っていく。囚われている父の事も、共に旅している二人の事も、さらには刀の事すらも頭から消し去っていく。
彼女の思考が全て無になった時、彼女の眼はゆっくりと開いた。しかし、その瞳の色は黒くなっていた。
川のせせらぎや、小鳥のさえずり、木々のざわめきすら、彼女の耳に入っていない。
河原を駆ける子供の化け猫や、川の流れに抗う魚、風にたなびく野草が、ありのままの姿で彼女の瞳に映っていた。
だが、彼女は何も思っていない。ただ、彼女の瞳は光を吸い込み、虚像を生成するだけだった。
目を開けたままの瞑想、普通の感覚なら雑念だらけで意味が無いと思われる事である。しかし、彼女にとってはその工程が非常に重要なのだ。
彼女の魔眼は常時発動している。だが、未来を”視る”事はどんな生物にとっても、等しく精神に多大な負担がかかってしまう。常人の精神状態なら三日で発狂し、五日ももたないであろう。そこで、アスカは普段から、最初に心に雑念や邪念を無くした状態にし、目を開いて今あるモノを見る。そんな特別な時間を朝の日課としているのだ。
ゆっくりとアスカの目蓋が閉じられる。それからしばらくして、彼女の目蓋が開かれた時、瞳の色はまた緋色に戻っていた。
時刻は九時過ぎ、そろそろ戻らないと二人が探しに出てしまうだろう。彼女はそう考えて、ホテルへと駆けて行った。
「アスカさんは遅すぎにゃあ。遅いから朝ごはん食べ終わっちゃったにゃ。何をしてたのにゃ?」
「すまない、わらわの支度は済んでいる。もう出るのか?」
「早く出るにゃ!!」
スズはアスカを引っ張って、部屋を出て行ってしまった。
「アスカは朝飯食べてないのに…………」
朝食を食べていないアスカを、気にかけながら健人も出ていった。
「そういえば、アンテルワープは初めて行くにゃ〜」
「そうか、スズは王城にずっといたんだっけ?」
「そうにゃ、王様と姫様のお世話をしてたのにゃ!」
他愛もない話をしながら、半日馬を走らせる。色々な話をした。スズの好きな食べ物、主にサーモンについての話、”紅のツバメ”の首魁、イスカリオス卿の話。そして、一番健人が印象に残ったのは、アスカの魔眼についての話だった。
「0.5秒先の未来が見えるんですか……? もう、流石に何が何だか分からないです…………」
「すごいにゃ!! スズにはできないにゃ!!」
「そ、そんなに凄いことではないと思うが…………」
「ダメにゃ! そんなに凄いのに謙遜しちゃダメなのにゃ!」
スズは尻尾をブンブン振りながらアスカを睨んでいる。確かにアスカの眼は、健人にとっては驚愕するしかないような代物だった。だが、スズも持っているはずだから、スズからしたらそんなに凄いのだろうか、と健人は思った。
「でも、スズも何か出来るんじゃないのか?」
「そ、それが、スズの”眼”は何が出来るのか分からないのにゃ…………使い方も普通に見るしかできないにゃ。だからスズは悲しいにゃ〜」
「そうか、でも、スズは凄く役に立ってるぞ?」
「ホントなのにゃ?! それは嬉しいにゃ。でも、どこで役に立ててるのにゃ?」
健人は少し考えて、ニコリと笑って口を開いた。
「かわいい事ばかりする所かな?」
「にゃにゃ?! そ、そ、そんなの全然役に立ってないにゃああああ!!」
スズは馬上で泣き始めてしまった。だが、馬を正確に操っているあたり、スズの運動神経か、リリキャット人の乗馬スキルの高さが分かる気がした。
「冗談だよ、スズは弓が上手いだろ? この間も助けてくれたし、スズは強いと思うぞ?」
「にひひ、それは嬉しいにゃ! でも、撫でてもらってないにゃ!」
「いつも撫でてるだろう?」
「それじゃあ足りないのにゃ! もっと撫でて欲しいのにゃあ!!」
スズはケロッと立ち直ったかと思えばまたすぐに頬をふくらませている。
そんな二人を後ろから見ていたアスカは、何故か心がざわざわする感覚に襲われていた。
「アンテルワープが見えて…………燃えてるにゃ!!」
目の前に現れた街は、ところどころ火の手が上がっているのが、城壁の外からも見て取れた。
「まだわらわが隠れていた時は反乱軍に抵抗していたのに…………」
「とにかく退きましょう、このままでは巻き込まれてしまいます!」
「でも、このままじゃ、街のみんなが死んじゃうにゃ!」
本来、アンテルワープでは態勢を整えて、ルクサーヌベルク牢獄攻略に向けて作戦を立てる拠点にするつもりだった。だが、それだけである。
どこか、他の街に向かえばよかった。
はずだった。
「こうもなると後にも引けぬ。わらわの顔はもはやゲルジニア地方じゃお尋ね者だ。唯一、第四憲兵の息がかかってないアンテルワープなら何とかなると思ったんだが…………」
「仕方が無いさ、近くの街で考えよう。スズ、この辺りにいい所はあるかい?」
「な、あの、うにゃ、その、にゃう…………」
「よし、わらわは決めたぞ。このままルクサーヌベルクに向かう。敵は、わらわが何とかする」
アスカが口に出したのは、健人の想像の斜め四十五度を行く物だった。
「じ、冗談ですよね?! 昨日、あの牢獄は難攻不落だからって作戦を立てようとしたんだよね?! それなのにどうしてですか?!」
「ダメだにゃ!! そんな事したら死んじゃうにゃ!! スズは姫様より先に死んじゃ行けないのにゃ!!!」
二人は狂わんばかりの声で抗議した。だが、アスカはすっと振り返り、不敵な笑みを見せた。
「お主らはわらわの眼がどのようなものか忘れたのか? ならば、わらわの後ろに付いてくるがよい。お主らには決して傷はつけさせぬよ…………」
アスカはそう言い捨てて馬のスピードを早めた。説明するに言葉は足りないだろう。しかし、その背中は凛々しく、その進む道筋は、信じて歩むにふさわしいような気を二人に感じさせた。
一行の後ろでは、絶え間なく砲声が鳴り響いていた。




