さりげなく癒して【2】
さりげなく癒して
【2】
祐貴は1Kのコーポに帰り着くと、スウェットの上下に着替え、こたつテーブルにコンビニの弁当を広げた。
缶ビールのプルトップを引き、ごくごくと喉に流し込む。
「ぷは~~~っ。うまいっ」
声に出しておいて、ああオヤジ臭ぇ……と苦笑いする。
一息つくと、意識せず、思考はさっき別れた瞳子の元へと向かってしまう。
瞳子の自宅は、祐貴のコーポとは目と鼻の先であった。
この弁当を買った、しょっちゅう利用するコンビニの目の前にあるマンションが、彼女の住まいだったのである。
徒歩で五分とかからない。超がつく、ご近所さんだったわけだ。
あんな美人が近所に住んでいながら何年も気付かないなんて、俺の恋愛モードもロングバケーションすぎだよな、ホント……。
思うところがあり、恋愛に関して自分から無理に進める事をしなくなって、もう何年もたつ。
昔の自分なら、速攻チェックが入っていただろうと思うと、苦笑してしまう。
しかもあのマンションって、賃貸なんかじゃないだろうな~。
大手の主任って、そんなに稼ぐもんなのか?
それに引き換え、俺のこの城は……
祐貴は部屋を見回して、とほほと首を振った。
瞳子の自宅は、この辺りでは一・二を争う高級マンションだ。
瀟洒な造りの八階建てで、駐車場からは外車が出入りしているのも見かける。
一方の祐貴のコーポは、築三年と、新しいのだけが取り得の1Kだ。
本来、まめに自炊している祐貴は、広くて使いやすいキッチンのある部屋に憧れているのだが、そういう所は家賃も高い。毎日の布団の上げ下げが億劫で、ベッドを置くのも夢だった。
もう少し稼ぐようになったら、おいおい引っ越し先を探そう……
何度もそう思うのだが、ここのように静かな住宅街で、通勤にも便利で――というと、なかなかいい物件はないものだ。
ま、いっか……
ここに住んでたおかげで、今日は可愛いとーこさんを一杯見られたし。
結局そこへ行き着いて、祐貴は割り箸を取ると、きちんと手を合わせた。
「いたーだきーます」
お行儀はいい男であった。
瞳子はリビングのソファにクッションを抱えて座っていた。
間接照明だけのほの明るい部屋の中、考え込んでいるのは祐貴の事だった。
あの人といると、なぜだか調子が狂ってしまう。
隙を見せてはだめ。
だめなのに……
瞳子はサイドテーブルの写真立てに視線を向けた。
ひとつは瞳子に良く似た女性の写真。もうひとつはやさしく微笑む老人の写真だった。
お母さん。おじいさま……。
今日、不思議な男に会ったのよ。
いつもの仮面が、うまく被れないの。
あの人も同じ? それとも……
わからない。
わからないから……
隙を見せてはだめよ。
瞳子は視線を戻し、クッションに顔を埋めた。
仕事が本格始動し、打ち合わせ等で祐貴は度々瞳子の職場に顔を出すようになった。
あの日、不本意ながら無防備な姿を見られてしまった瞳子は、職場で祐貴に会う事に不安を感じていたのだが、祐貴は、あの時の事を仄めかしたり、意味ありげな視線を寄越す事を決してしなかった。
馴れ馴れしい態度など微塵も見せず、あっけない程ビジネスライクに接する祐貴に、瞳子は安堵の吐息をついた。
祐貴が顔を出す日は、女子社員たちが色めき立つ。
整った顔立ちに、穏やかでソフトな雰囲気を纏わせて祐貴が現れる時間が近付くと、女子トイレや更衣室は、化粧直しに訪れる女子社員で満室になるのだ。
「早瀬さんって、営業の吾妻さんと学生時代からの友人なんですって~」
「素敵よね~。癒し系のオトコマエ……」
「そうそう……ねぇ~っ」
女子トイレの前を歩いていた瞳子の耳に、そんな会話が聞こえて来た事もあった。
女子社員だけでなく、この企画に関わる、瞳子の上司や同僚にも受けはよかった。
風貌に正比例した祐貴の仕事振りは、ビジネスライクでありながら冷たさはなく、あくまで穏やかでスマートであった。
「芸術的才能がもう少し平凡だったら、うちの営業に引き抜きたいくらいだ」
販売促進部長がそう漏らしたという話は、瞬く間に広まり、結果、男性社員までが、噂の主に興味を持つようになってしまった。
隙を見せてはだめ……。
瞳子は改めて仮面を被り直す。
自分の警戒心が、祐貴に対してのみ僅かに緩んでしまう事を、瞳子は自覚していた。
誰もが注目する祐貴と接している時に、もしも仮面が剥がれたら……。
心の隙を、誰に見咎められるか知れない。
土足で踏み込まれるのはごめんだった。
祐貴は気になっていた。
瞳子は最初にこの場所で会った時と変わらず、無表情に淡々と仕事を進めている。
それはいいのだ。
祐貴とて、仕事の席で馴れ馴れしい態度をとるつもりなどない。妙な噂でも立てば、せっかくの仕事がやり難くなるばかりか、瞳子にも迷惑だろう。
祐貴が気にしているのは、瞳子の体調の事だった。
超絶に美しい上っ面に惑わされて見落としそうになるところだが、祐貴は、その皮一枚下の疲労の色に気付いていた。
それに気付いてから三度目に会ったとき、祐貴はとうとう切り出した。
「緑川さん……ちょっとよろしいですか?」
打ち合わせを終え、資料などを片付けた瞳子が最後に会議室を出ると、そこに祐貴が立っていた。
自分を待っていた事で、瞳に戸惑いの色を浮かべた瞳子だったが、誰にも気付かれない程一瞬で、それを引っ込めた。
「ええ……何か?」
淡々と言って、エレベーターの方へ祐貴を促す。歩きながら話そうという訳だ。
ひとつの場所に立ち止まっていると、嫌でも視線が集まって来る。祐貴が何を言い出そうとしているのかは知らないが、立ち聞きされるのは避けたかった。
「お休み、とっていらっしゃいます?」
予想もしなかった第一声に、瞳子は反応出来ず、問うように祐貴を見上げた。
「お疲れなんじゃないかと思いまして……」
そう言う表情は、まるで仕事の話をしているかのような当り障りのない微笑みだったが、語尾に、気遣ってくれているとわかるような色が僅かに混ざる。
他の男がやるような、下心があからさまに匂うような態度ではない。
大げさに心配したような顔もしない。
周りを極端に警戒している瞳子に気付いていて、ビジネスライクな表情の下に、それを包み隠して言ってくれるのは、この男の優しさか。
心の片隅でそう感じながら、祐貴の質問を思い返し、瞳子は少し考えるような仕草の後、そういえば……と言った。
「私の友人がこちらの営業部にいるんですが、彼から聞いています。緑川さんが、私の作品を押して下さったって」
打ち合わせの確認でもしているような顔で、祐貴が言う。
「私はこちらのような大きな仕事は初めてですから……頼りにしているんですよ、緑川さんの事……」
また――
瞳子は思った。
この人はまた、女の私に、頼りにしているなんて、平気で言う。
いつでも優位に立ちたがる。
女を力でねじ伏せて、上から見下ろしたくてうずうずしている。
男とはそういう生き物のはずだ。
なのに――
「だから、元気でいて頂かなくては困ります。身体、ちゃんと休めて下さいね」
労わりの言葉。
隙間などないはずなのに、暖かい何かが内へと滑り込んで来る。
瞳子の心を占める大きな氷の塊が、僅かな滴りを生み始めていた。
「そうですね……。どうもありがとう……」
すらっと、言葉が出た。
二人はエレベーターホールの手前まで来ると、互いに深々とお辞儀をした。
祐貴はそのままエレベーターの方へ、瞳子は踵を返して企画室の方へと別れた。
美しいツーショットに、皆が仕事の手を止めて見惚れていたが、瞳子にはどうでもいい事であった。
仮面を被ってさえいれば、遠巻きに見られるくらい構わない。
瞳子に付き合って、祐貴も一緒に仮面を被ってくれたのだ。
どこにも、隙はなかったのだから――
つづく




