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さりげなく癒して【1】



さりげなく癒して


【1】




 大手化粧品メーカーのオフィスビル。

 そのロビーを歩いていた早瀬祐貴は、自分を呼ぶ声に立ち止まった。


「おーい! 早瀬~!」

 誰だかすぐにわかる。祐貴は苦笑した。


 吾妻め、デカイ声で呼びやがって……。


 振り返ると、エレベーターの方から、友人の吾妻晴彦が駆けて来るのが見えた。

 通りすがりの人にぶつかりそうになりながら、息せき切ってやってくる吾妻に、相変わらずな奴だ……と、祐貴は肩を竦めた。


「どうだった?」

 祐貴の側まで来ると吾妻は立ち止まって、いきなりそう訊いた。

「お前、息上がってるぞ」

 祐貴が笑って言うと、吾妻は、そんな話じゃないよ、と言った。


 もちろんわかっている。

 ただ、祐貴の事なのに、自分の事のように心配して息を切らしている吾妻の様子が、学生の頃から少しも変わっていないのが可笑しくて、嬉しかったのだ。


「正式に採用が決まったよ」

 言いながらも祐貴は喜びを隠し切れず、満面に笑みが広がる。

「やったな……!」

 吾妻はそう言って、祐貴の首にガシっと腕を回した。


「俺、これから外回りなんだ。コーヒーくらい、付き合う時間あるだろ?」

 吾妻は祐貴の返事を聞くこともせず、そのまま引き摺るようにしてビルを出たのだった。






「本当に決めちまったな~。凄いよお前」

 コーヒーのカップを持ち上げながら、吾妻が言った。


 吾妻は、先程二人が出て来た化粧品メーカーの営業マンだ。

 入社して二年半。スーツ姿も様になるようになった。


「うん……自分でも驚いてる」

 一方の祐貴は、デザイン事務所に勤める若手のデザイナーである。たまにしか着ないスーツが窮屈そうだ。


 吾妻の勤める大手化粧品メーカーでは今回初めて、来春の新作シリーズのパッケージデザインを外部から募集し、二千点を超える応募作品の中から、祐貴の作品が採用される事に決定したのであった。

 春の花々をモチーフに、可憐で暖かい雰囲気に仕上がった作品は、祐貴自身満足のいくもので、たとえ採用されなくても、これからの祐貴の仕事の方向を決める、大きな意味のある作品であった。


 それが認められたのである。

 祐貴はもちろんだが、学生時代の祐貴を知っている吾妻にとっても、この採用決定は大きな喜びであった。


「企画室の緑川主任が、お前の作品をイチオシしたって話だぜ」

 情報通の吾妻が、部外の噂話をする。


 緑川……?


 祐貴は記憶を辿る。


 通された会議室で、企画室の落合という室長の隣に座っていた女――

 ボルドーのスーツをかっちりと着こなし、デキル女という感じの隙のない美人だった。

 微笑のひとつも寄越さない、人形よりも無表情なその女は、祐貴より少し年上かという若さで主任という肩書きを持っていて、祐貴は驚いたのだった。


 緑川 瞳子


 渡された名刺には、そうあった。


「緑川……って、あの……?」

 祐貴が訊くと、吾妻はニヤリと笑って、やめとけ……と言った。


「緑川とーこ女史。俺より二年先輩なだけなのに、すでに主任……企画室室長代理ってところかな? とにかく仕事がデキルらしい」

 言いながら、吾妻はちょっと肩を竦めてみせて――

「あれだけの美貌に恵まれながら、それを出世に利用した形跡はない……。凄い男嫌いなんだとさ」

 カップを口に運びながら、勿体無い話だ……と呟いた。


 祐貴が目を丸くする。

 確かにどこにも隙のない様子だったが、男嫌いとは穏やかではない。


「言い寄った男は数知れずだが、全員見事に玉砕だ。レズビアンじゃないかって噂もあったが、それを鵜呑みにしてアタックした女子社員が冷たくあしらわれたらしいし……」

 なびかないばかりか出世まで先を越されて、やっかみ半分、不感症に違いない、なんて噂を流す奴までいる……と、吾妻は語った。


「いくら学生時代、百戦錬磨だったお前でも、相手が悪い。あの人はやめておけ」

 からかうように吾妻に言われて、祐貴は咽た。


「何だよ、それ……。俺はもう、ああいうのは辞めたんだっ」

 祐貴が言うと、吾妻は意外そうにこちらを見た。


「もしかして……今、彼女いないとか……?」

「いない」


 吾妻は信じられないといった表情で、辛い恋でもしたのか? とか、それとも男がよくなったのか? とか、訳のわからない質問を浴びせた。

 そんな吾妻に呆れつつ、祐貴はちょっと照れたように笑った。


「自然体でいる事にしたんだ……。ギラギラしないでいるのって、楽なんだよ」


 呆気に取られた吾妻だったが、そう話す祐貴の表情がとても柔らかく穏やかなのを見て、小さく吐息をつく。


 就職活動を始めた頃から、互いのスケジュールが合わず、社会人になってからはますます疎遠になっていたが、最近久しぶりに再会した祐貴が、以前とは違ってとても優しい雰囲気を漂わせている事に、もちろん吾妻は気付いていた。

 その上、照れたようにこんなセリフを吐く。


「信じられないな……。俺は騙されないぞ」

 意地悪く言って笑った吾妻の顔は、言葉とは裏腹に、とても嬉しそうだった。











 めでたく正式にパッケージデザインの依頼を受けた祐貴は、吾妻と別れた後、事務所に戻って仕事に没頭した。

 才能を認められたとはいえ、まだまだ独立して食べて行ける程は稼げない。

 所属しているデザイン事務所は、大きくはないが、少数精鋭といった感じでセンスのいい仕事をするので、着実に業績は伸びて来ていた。

 上司や先輩にも恵まれ、祐貴はしばらくこの職場から出るつもりはなかった。


 春の新作シリーズ。

 シリーズというからには、同じイメージで、少しずつパターンの違うものを用意しなければならず、それに集中しているうちに、気付けば終電一本前だった。




 乗り込んだ電車のシートに沈み込み、祐貴は吐息をついた。


 腹減った……。

 今日はコンビニで何か買って帰ろう。

 作る元気、ないや……。


 規則的な電車の揺れ。

 遅い時間のため、乗客は少なく、静かで心地良い時間が流れる。


 今日一日の事を、ぼんやりと考えていた祐貴だったが、突然その耳に、言い争うような声が聞こえて来た。


「いいじゃねぇか横に座るぐらい~」

「やめて下さい……」

 呂律の回っていない男の声と、嫌がっている女の声。酔っ払いが絡んでいるようだった。


「離してっ……!」

 何気なく祐貴が視線をそちらに向けると、女が逃げるように立ち上がったところだった。


 緑川瞳子……⁉︎


 まさかと思ったが、あの美貌は見間違い様がない。

 同じ車両に乗っていたのだ。

 祐貴は弾かれたように立ち上がると、駆け出していた。


「お姉ちゃん、美人だね~」

 酔っ払いはフラフラしながらも瞳子を追って立ち上がり、抱きつこうと両手を広げた。

 追いついた祐貴は、立ち竦んでしまっている瞳子の腕を掴んで引き寄せると、すかさず身体を入れ替えた。


 酔っ払いのオヤジが抱き締めたのは、祐貴の背中だった。


 ぎゅっと目を瞑っていた瞳子が、祐貴の腕の中で目を開けた。

 何が起こったのか理解できず、視線を漂わせた瞳子と、祐貴の目が合った。


「こんばんは、緑川さん」

 場違いな程、穏やかに挨拶されて、瞳子の目が驚愕に見開かれた。


「あなた……」

 祐貴を認識して呟いたが、瞳子の身体はまだ緊張してガチガチだった。もしかしたら、こうして祐貴に抱き締められている事にも、気付いていないのかも知れない。


 う……可愛い……。


 昼間見た瞳子と、今、揺らめく瞳で自分を見上げている瞳子は、別人のようだった。

 思わず見惚れてしまった祐貴の背中で、脳天気な声が響いた。


「あれれ~~? 姉ちゃんが兄ちゃんになっちまったぞ~~?」

 祐貴は我に返って苦笑した。まだ酔っ払いを背中に縋りつかせたままだった。

 名残惜しいが、瞳子を腕から解放すると、酔っ払いのオヤジに向き直る。


「えへへ……でも、綺麗な兄ちゃんだな~」

「そりゃどうも。はいはい、危ないからちゃんと座っていましょうね~」

 祐貴は酔っ払いの肩をポンポンと叩きながら、座席まで誘導した。

「どうです~? ここのシートはクッションがいいでしょう?」

 座らせながら言うと、酔っ払いはご機嫌で、そうだな~、と笑った。


 鮮やかに手懐けてしまった祐貴を、瞳子は呆気に取られて見ている。

 祐貴はオヤジに、それじゃ、と、にこやかに言い置くと、呆然としている瞳子の手を引いて、隣の車両までずんずんと歩いた。


 瞳子の手は、震えていた。




「大丈夫ですか……?」

 車両を移ると、祐貴が気遣うような表情で訊いた。

「ええ……ありがとう、早瀬くん……」

 瞳子は吐息をつきながらそう言い、はっと口元に手をやった。


「ごめんなさい、仕事でお世話になる方に、くん、なんて……」

 多分、私よりお若くていらっしゃると思ったからつい……、と、瞳子は呟いた。

 まだ混乱していて出た言葉なのだろう。瞳子は恥じたように少し赤くなった。


 可愛すぎる……。

 無表情で冷たい瞳子のイメージが、僅か数時間でガラガラと崩れて行く。


 吾妻の奴、こんな可愛いとーこさん、見た事ないだろ~な~。

 祐貴は内心嬉しくて堪らない。


「いいですよ、くん、で……。これでも一応芸術家の端くれのつもりですから、おだてられ過ぎるのは私のためになりません。実力を見失う元ですから」

 祐貴は屈託なく笑って言った。


 瞳子には、意外な言葉だった。


 男なんて生き物は、おだてられないと機嫌が悪くなる生き物だと思っていた。

 実力もないのに、たくさんおだてられて満足した男だけが、たまにこういう謙虚ぶったセリフを吐くのだ。そんな事、心にも思っていないくせに。


 しかしこの男は……


 その笑顔には邪心のかけらも見当たらない。

 しかも瞳子はまだ、おだて上げてもいないのだ。


「緑川さんは、こんな遅くまでお仕事だったんですか?」

 祐貴に訊かれて、瞳子は我に返った。


 自分がまじまじと祐貴を見つめていた事に気付き、急に居心地が悪くなる。

「ええ……」

 返事をしながら、所在なげに視線を漂わせた瞳子は、電車が見慣れた駅に滑り込もうとしているのに気付いた。


「あ……ごめんなさい。私、ここで降りますから……」

 助け舟を得たような気分で瞳子が言うと、祐貴がびっくりしたように目を見開いた。


「私もこの駅で降りるんですよ。なんだ、ご近所さんだったんですね」


 え……?


「ええぇぇ~~~っ!?」

 驚きのあまり、車両中に響く声で、瞳子は叫んでいた。






「あははははははは……」

 夜の住宅街に、祐貴の笑い声が響き渡った。


「そんなに笑わなくてもいいでしょう?」

 瞳子はふくれて、ぷいっとそっぽを向いた。

「だって、緑川さんったら、あんな大きな声で……」

 祐貴は身体をくの字に折り曲げて爆笑中だ。

「本当に驚いたんだから、仕方ないでしょう」


 祐貴は作品と一緒に、履歴書も提出していたが、多忙な瞳子は、住所までチェックしている訳ではなかった。必要ないからだ。

 連続して起こった偶然に、瞳子が我を忘れて叫んでしまっても無理はない。


 瞳子の絶叫は、静かな車両内に響き渡り、他の乗客の視線が一斉に集まって来た。

 しかも、そこにいたのが超絶綺麗な瞳子だったりしたので、視線はますます容赦なく絡みつき――

 扉が開くのももどかしく、祐貴は瞳子の手を引いて、逃げるように電車を降りたのだった。

 改札を抜け駅を出た途端、我慢出来なくなって、祐貴は笑い出してしまった。


「そうやっていつまでも笑っているといいわ。私は帰ります。さようなら、早瀬くん」

 瞳子はくるりと踵を返すと、ヒールの音を響かせて歩き始めた。

 しかし、いつまでたっても、祐貴のくすくす笑いはすぐ後ろから聞こえて来る。


 瞳子は吐息をついて振り返った。

「送って下さらなくて結構よ。ついて来ないで」

 瞳子が精一杯睨み付けても、祐貴はにっこり微笑みを返して来る。


「俺もこっちです。送りますよ、緑川さん」


 一気に赤面するのが自分でもわかった。

 辺りが暗くて良かった……と、瞳子は本気で思ったのだった。






                                つづく


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