『悲しき乙女のレクイエム』【1】
第2章に入りました。
後半が大きく変わる、予定。でも予定は予定であり、まだ未定です。
そして、6月ですね。月日が経つのが早い……。
レドヴィナ王国王都クラーサのオペラ座は、異様な存在感を放っている。凝った瀟洒な外観で、周囲はぐるりと円状の公園になっており、そこだけぽっかり穴が空いているようになっているのだ。
そのオペラ座をレドヴィナ女王がお忍びで訪れていた。護衛はエルヴィーンとラディムだけ。通常、女王が外出するときはもっと多くの護衛がつくものだが、今回は目立たないようにということで。
夏場のオペラ座は観客が多いことで知られるが、現在、周囲は閑散としている。夜だから、ではない。オペラは夜に始まるもので、それは人のいない理由にはならない。
ではなぜ閑散としているのか。
理由は簡単。すでにオペラが開幕しているからだ。普通の観客はオペラが始まる前に会場入りする。しかし、人目につきたくなかった女王エリシュカは少し遅れて会場に入ることを選んだ。ちなみに、待ち合わせの相手は開演前に中に入ってしまっているらしい。おそらく、一緒にいるところを見られない方がいいだろう、という彼女の配慮だろう。
誰もいない廊下を進み、待ち合わせに選んだ個室の前についた。貴族はオペラ座の中に自分たち専用の座席を取っていることが多いが、この個室はそれに当てはまらない、ちゃんと正規に手続きを踏んで予約したものだ。ちなみに、ここを予約したのも待ち合わせ相手である。
「ラディムは外で待機していてね」
エリシュカがラディムに命令した。幸い、貴族が多いオペラ座では、部屋の前に護衛がたっていてもあまり気に留められない。
外での待機を命じられたラディムは、あからさまに面白くなさそうな表情になったが、エリシュカは苦笑して言った。
「あなたがいたら、ウルシュラと話ができない気がするわ」
気がする、のではなくできないだろうな、とエルヴィーンは思う。ラディムは待ち合わせ相手=ウルシュラのことをあまり好ましく思っていない。まあ、彼女の性格がひねくれているのも、人に嫌われやすい性格であるのも否定できない。しかし、彼女の発言にいちいち反応するラディムは、ウルシュラと同族なのかもしれないと思う今日この頃だ。
エリシュカに事実を突きつけられてちょっとしょげたラディムを部屋の外に残し、エルヴィーンはエリシュカとともに個室に入った。その瞬間、オペラ歌手ののびやかな声が聞こえてくる。
ガラス張りの部屋の片面。その向こうに、舞台が見える。どこかの屋敷のセットが置かれていた。舞台にいるのはヒロインの女性とその相手役の男性。
どうやら、演目は『悲しき乙女のレクイエム』らしい。
「何なのかしら、これ。私に喧嘩を売っているのかしら。今日の演目は『セイレーン』じゃなかった? 急遽演目がこれに変わるとか、私に対するあてつけだとしか思えないんだけど」
舞台から目をそらさず、一人がけのソファに座ったウルシュラが言った。エリシュカは少し困ったように首を傾げ、彼女の隣のソファに座った。エルヴィーンは背後で立って待機。
「さすがに、あなたに対する嫌がらせの為だけに演目を変えたりしないと思うわよ」
エリシュカが同じように舞台を眺めて言った。さすがに個人に対するあてつけだけに、オペラの演目を変えたりしないだろう。ウルシュラの被害妄想だ。
しかし、ウルシュラがそう言ってしまうのにも理由があった。
この『悲しき乙女のレクイエム』。やたらと名前が長く、オペラらしくないタイトルだが、事実に基づいて作られていた。
ある貴族の令嬢がとある貴族の青年に恋をする。愛を育む二人だが、令嬢の父親が謀反をたくらみ、青年がその父親を処刑した。
一人残された令嬢は青年への恋心と肉親への愛情のはざまで揺れ動く。青年は自分と生きてほしいと令嬢に訴えるが、彼女は結局、父親を殺した人間と一緒にはなれないと主張し、毒を飲んで息絶えた――――。
という演目だ。レドヴィナ王国の人間ならどこかで聞いたころがあるな、と思うだろう。当然だ。近年に起こった出来事が題材なのだから。すなわち、前フィアラ大公の謀反だ。と言うことはヒロインの令嬢のモデルははウルシュラになる。相手役の青年のモデルは知らん。話を盛り上げるために配置したのだろう。
もちろん、ウルシュラは今も生きているし、謀反を起こした父親を殺したのは令嬢であるウルシュラだ(ということになっている)。
というわけで、ウルシュラが「嫌がらせ」と感じるのはある意味当然だ。物語的に令嬢が死んだ方が盛り上がるとはいえ、当事者であるウルシュラに対し、「お前も父親を追って死ね」と言っているようなものだからだ。女王が上演禁止命令を出せば上演できなくなるだろうが、そんなことをしてはむしろ、ウルシュラは怒るだろう。
ウルシュラはため息をつくと、背もたれに身を預けた。ちらりとエルヴィーンの方を見る。
「護衛は彼だけ? もう一人は?」
「外で見張りをさせているわ。ラディムは……その。あなたに対する偏見がすごくて」
「あながち、偏見じゃないかもしれないわよ」
ウルシュラがにやり、としか表現しようのない笑みを浮かべてエリシュカに言った。それを見たエリシュカは困ったように笑った。
「あなたが噂になっているような人じゃないことは、わたくし、よく知っているわよ。あなたと私、どれだけの付き合いだと思ってるのよ」
「……」
エリシュカの言葉に、ウルシュラは言葉を返さなかった。ただ無表情で、眼鏡の奥の翡翠の瞳を細めた。
しばらく、二人の間に会話はなかった。個室にオペラ歌手ののびやかな声が響き、観客から拍手が沸き起こる。一幕が終わったのだ。
「……それで。私はどうして呼び出されたのかしら」
二幕が始まってしばらくしてから、ウルシュラが再び口を開いた。エリシュカがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「久しぶりに、あなたと話をしたいと思ったの」
「別にわざわざこんなところに来なくても、議場やパーティー会場であっているでしょう」
ウルシュラが冷静にそう言ったが、エリシュカは首を左右に振り、ウルシュラの方を向いた。
「公の場では、あなたと腹を割って話せないわ。あなたは『フィアラ大公』の仮面をかぶり続けるし、周囲はあなたがわたくしに何か失礼なことを言うのではないかとにらんでいるもの」
「まあ、普段の私のふるまいを見ていれば、仕方のないことよね。実際に私、口が悪いし」
ここでも、ウルシュラは冷静に言った。確かに、ウルシュラの公での言動は、こいつ、何を言いだすのか、と思わず身構えてしまうようなものだ。しかし、エルヴィーンが気になったのはそこではなかった。
やっぱり『アレ』は、演技なんだな……。
そう思った。
すべてを否定する女と言われる『フィアラ大公』と、盗みを働いた子どもを叱り、ダンスが楽しかった、とほほ笑んだ『ウルシュラ』。エルヴィーンが感じた違和感は、『ウルシュラ』が『フィアラ大公』の演技をしていたからなのだ。
ここで腹の探り合いを始めるほど、二人は間抜けではなかった。ここでそんなことを始めても、ただの水掛け論になるだけだ。
代わりに、エリシュカが尋ねた。
「ウルシュラ、好きな人はいる?」
どこの夢見るお嬢様だ、と突っ込みたくなる質問をしたエリシュカだが、彼女が場を和ませようとしているのは明らかだった。まあ、ウルシュラが態度を改めない限りは、このどこかとげとげとした雰囲気は解消されないと思うが。
「いるわけないでしょう。たとえ私が懸想する相手がいても、私が結婚できるとは思えないわね」
だからなんでお前はそんなに自己評価が低いんだ。エルヴィーンはとっさにウルシュラにそうツッコミをいれそうになったが、耐えた。自己評価が低いというか、自虐的というか。謙遜……ではないが、こうも否定的だと逆に腹が立ってくる。
ウルシュラがこんな返答をするため、会話が続かない。この女、エリシュカと話しをする気がないのではないだろうか。二幕が終わり、最後の三幕が始まる。
「……そう言えば、あの時はリビエナが失礼したわね」
と、ウルシュラが従妹の無礼をエリシュカに詫びた。いや、彼女が謝ることではないと思うのだが。
「構わないわ。むしろ、あなたが……」
「私のことはどうでもいいわよ」
公衆の面前で罵倒されたウルシュラは、興味なさそうにエリシュカに手を振って見せた。あれは気にする、気にしないレベルの問題ではなかった気がするのだが。
「……悪いことをしたら叱って、謝らせなければならない。そう言ったのはウルシュラ、あなたよ」
「……そう言えばそんなことも言ったわね。一応、リビエナには教育的指導は入れてるんだけど」
そうすると、リビエナのウルシュラに対する反感はより強くなる、という悪循環か……。エルヴィーンは一人納得した。
「リビエナは、あなたの所に謝りに来た?」
「ヴィレーム殿に連れてこられて、一度お会いしたわ。謝っていただいたわよ、一応」
「……重ね重ね、申し訳ないわね……」
ここで、初めてウルシュラが自然な笑みを浮かべた。と言っても、苦笑いだったが。と、ウルシュラが振り返ってエルヴィーンの方を見た。
「あなたも、悪かったわね。あの子に振り回されたでしょう?」
今年の社交界シーズン最初の夜会で、エルヴィーンはウルシュラと踊った後にリビエナに声をかけられ、一曲踊った。その時に聞かされたのは、ウルシュラの悪口と文句だ。
「……いや。延々とあなたの悪口を聞かされただけだからな……です」
「語尾がおかしいわよ。別に無理して敬語を使わなくても結構よ」
ウルシュラが少々呆れ口調でつっこみを入れた。いや、相手がフィアラ大公なので敬語を使うべきなのだが、どうしてもやっぱり口調が軽くなってしまうのだ。そんなやり取りを見てエリシュカがくすくすと笑う。
「面白いわね、あなたたち。知り合いだったの?」
エリシュカの当然と言えば当然の問いに、エルヴィーンは顔をひきつらせて固まった。以前に街で、ウルシュラと遭遇したことを話さなければならないか、と思ったからだ。
しかし、ウルシュラがしれっと言ってのけた。
「ヴィレームが彼と騎士学校で一緒だったらしいわ。学科は違ったらしいけど。だから、話には聞いていたわね」
確かに、ヴィレーム・ヴァツィークは騎士学校時代の同級生だが、そんなに親しかったわけではない。ウルシュラも言っていたが、エルヴィーンは騎士科、ヴィレームは士官科に所属していた。だから、ウルシュラが彼から話を聞いていた、というのは少々無理があるのではないだろうか。
「それと、『赤の夜事件』の時に、私を気遣ってくれたわよね」
さらりとしたウルシュラのセリフに、エルヴィーンは覚えていたのか、と思った。あの時の彼女は茫然自失としていて、周囲のことが見えているようには思えなかった。
前フィアラ大公のクーデター事件。通称・赤の夜事件。玉座の間が血の海と化したことからその名で呼ばれている。玉座の間で息絶えたのは誰あろう、ウルシュラの父、前フィアラ大公アルノシュト。手を下したのは娘のウルシュラということになっている。現場を見たものは誰もおらず、軍が突入したときの状況からはウルシュラが手を下したと判断できたのだ。そして、彼女が否定しなかったため、そう言うことになっている。
あの時、エルヴィーンは次の女王の護衛としての訓練を、宮殿で受けているところだった。そこに起こった赤の夜事件。玉座の間には前フィアラ大公のほかに十数人の遺体が転がっていた。ウルシュラは自分の父親の遺体の前にたたずんでいたが、彼女がすべての人間を殺したとは思えなかった。
父親の血を浴びて、茫然とたたずむ彼女を玉座の間から連れ出したのはエルヴィーンだった。
「あら。そうなの?」
ウルシュラが自分から「赤の夜事件」の話を始めたことに驚いていたエリシュカが、ウルシュラとエルヴィーンを見比べた。エルヴィーンが何か言う前に、彼女はさらりと「そうよ」と言った。
「……覚えていたのが意外……です」
「これでも記憶力はいいからね」
ウルシュラはそう言ってエルヴィーンの発言を受け流した。自分から振ったんだろうに。こういうところが、ウルシュラに腹の立つ部分だ。
三幕は最終幕だ。オペラが終盤に差し掛かる。自然に、二人の女性の意識は舞台上に引き戻されていった。
「ねぇ、ウルシュラ」
「うん?」
エリシュカが再びウルシュラに話しかけた。二人とも、舞台上から視線を逸らさない。
「あなたは、どうして……ううん」
質問を発しようとして、エリシュカは途中で言葉を止めた。代わりの言葉を吐き出す。
「また、一緒にオペラを見に来ましょう」
「ええ。いいわよ、それくらい」
ウルシュラのあっさりしたこのセリフは、彼女の素直な言葉だと、何となく感じた。
オペラが終わると、ウルシュラは先に出ていった。彼女の名前で予約してあるため、彼女が出ていかないと不自然なのだ。少したって帰る客が落ち着いてから、エルヴィーンとエリシュカは外で待機していたラディムを連れて城に戻った。
一見、何事もなく過ぎた一日だったが、翌日、とんでもないおまけを運んできた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
オペラ、いいですよねー。やっぱり『オペラ座の怪人』を見てみたいですかね。