否定する女【1】
第1章です。改稿版です。読んで下さっている方、ありがとうございます。
昼の王都で、エルヴィーンは信じられないものを見た気がして、来た道を戻った。不審な動きをしたために通りを行く人々に変な目で見られた気がするが、ちらりと目にした気がする光景の方が衝撃的だったため、エルヴィーンはそのことに気付かなかった。
その光景を見たあたりに戻ると、まだその光景は続いていた。
「人のものを取っちゃダメでしょう。ちゃんと謝りなさい」
黒髪の女性が十歳前後の少年の腕をつかんで視線を合わるように地面に膝をついて言い聞かせていた。少年はうつむいたまま何も言わなかった。ストリート・チルドレンだろうか。周囲に親らしき人はいなかった。
「悪いことをしたら謝る。どれだけおなかがすいていても、それは当然の事よ。これからまっとうに生きていきたかったら、人に謝ることを覚えなさい」
「今更俺みたいのがまっとうに生きることなんてできるかよ!」
「できなくはないわよ。女王陛下が平民も通える学校を開設されたわ。あなたたちでも入れるはずよ」
それは事実だ。二年前に即位したエリシュカ女王は平民に学びの場を開いた。貧富を問わず無料でその学校に通うことができる。簡単な読み書き計算を教えるその場所は、国家予算で運営されている。
「俺、頭悪いもん」
「そうやって決めつけない。やってみなきゃわからないでしょう。孤児でも、読み書きができるだけで道は広がるわ。一人孤児の知り合いがいるけど、勉強したら、その子もちゃんと読み書きができるようになったし」
なんだか話がすり替わっている気がする。少年たちが困惑したように眼を見合わせている。
「わかったら、ちゃんと謝りなさい」
話が戻った。少年がぽつりと「ごめんなさい」と言う。何が少年の心を変えたのかわからないが、見事少年を謝らせてみせた女性は満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、もう人の物をとったりはしないのよ。ほら、これあげる。ちゃんと学べばあなたでも稼げる職業に就けるわよ!」
「うん。姉ちゃん、ありがと!」
本当に女性の話を聞いていたかわからないが、少年は女性が差し出した焼き菓子の包みをもらうと、嬉しそうに駆け出した。それを見送ってから、女性が手に持っていた日傘を開いた。
その時、目があった気がした。
しかし、すぐに彼女を見失ってしまい、見間違いかと思った。ただでさえ王都の目抜き通りだ。人通りが多いここでは、知り合いがいてもおかしくないし、知り合いに似た人がいてもおかしくない。
ぐるりと周囲を見渡したが、白い日傘は同じような色の日傘に埋没してしまっていた。何故か残念な気持ちになったが、見つからないから仕方がない、と身をひるがえした。
と。
腕をつかまれた。振り返ると、白い日傘を手にした女性がにっこり笑っていた。あまり仕事をしないエルヴィーンの顔が引きつった。
「……なんで俺はこんなところにいるんだ……」
「私を見ていたあなたが悪いわ。……あ、すみません。コーヒー二つ。あと、チーズケーキもくださいな」
通りすがりのウェイトレスに注文を告げ、彼女はからりと笑った。
「私がだれか気づいていなかったなら、そのまま見逃したけど、気付いちゃったみたいだからねぇ。恨むなら自分の洞察力を恨みなさい」
「……横暴だな……ですね」
「無理に敬語を使わなくてもいいわよ。あなたの方が年上だし」
エルヴィーンはじろりと目の前の女性を睨んだ。先ほど、盗みを働いたらしい少年に説教をしていた黒髪の女性だ。
「それで、あなた、こんなところで何してたの? よく私だと気付いたわね。今までばれたことなかったのに」
今まで、と言うことは、これまでも何度かこうしてふらついていたのか。今日たまたま気づいただけで、もしかしたらすれ違っていた、なんてこともあったのかもしれない。
「化粧をしたところで、顔の形は変わらないだろう。あなたこそ、護衛もつけずに何をしているんだ」
女性が吊り上り気味の眼を細めた。淡い色のルージュが引かれた唇が弧を描く。背筋が寒くなるようなその笑みに実際に身震いしたとき、女性が勝手に注文したものが届いた。
「その辺のならず者に、私をどうにかすることなんてできないわよ。私の方が強いもの。それに、護衛なんていても邪魔なだけだしね」
優雅なしぐさでシュガーポットから角砂糖を一つ取り出し、コーヒーに入れた。いちいち洗練されたしぐさを見せる女性を睨みながら、エルヴィーンは言った。
「ご自分の立場をわきまえたらどうだ? フィアラ大公」
スプーンでコーヒーをくるくるとかき混ぜていた女性は手を止めてにっこりと笑った。
フィアラ大公ウルシュラ・ヴァツィーク。現在、二十一歳。貴族院議員である。背中の中ほどまでの藍色に近い黒髪。吊り上り気味の目。意志の強そうな翡翠の虹彩を有する美女。真正面から見て初めて気が付いたが、左眼尻に泣きぼくろがある。
「私にそんな説教をするのはあなたくらいだよ、エルヴィーン・ラシュトフカ。まあ、私に気が付いたのがあなただけっていうのもあるけど」
ウルシュラは、普段宮殿に出てくるときと様子が違った。宮殿に出てくるときはいつも、きっちりと黒髪を結い上げ、眼鏡をかけ、暗い色彩のドレスをまとっている。雰囲気も違い、触れれば斬られるような怜悧さが見られた。
しかし、今はどうか。明るいブルーのドレスをまとい、髪はおろし、眼鏡もかけていない。化粧のせいか怜悧な美貌も優しげに見える。おいしそうにケーキをほおばる姿は、怜悧な女大公には見えない。確かに、これでウルシュラに気づけと言うのは難易度が高いかもしれない。エルヴィーンが気づいたのもたまたまと言える。
エルヴィーン・ラシュトフカはエリシュカ女王の近衛騎士である。カラフィアート公爵の三男坊だ。そのため、貴族院議員であり大公でもあるウルシュラを間近で見る機会が何度かあった。だから気づいたのかもしれない。
話は変わるが、レドヴィナの王位は血縁継承ではない。つまり、王族が存在しないのである。三つの大公家と五つの公爵家の令嬢が女王教育を受け、その上で国民選挙が行われる。国民選挙と言っても、国民すべてに選挙権があるわけではなく、貴族と富裕層の平民だけだ。富裕層の平民は金で選挙権を買う形になる。
女王の任期は二十五年。先代女王は二年前に退位したばかりだ。任期が満了する三年前から令嬢たちは女王候補として教育は始まるのだが、いつでも八つの大公、公爵家に女王候補になれる娘がいるわけではない。エルヴィーンのカラフィアート公爵家はそうだった。
せっかく女王を輩出できるかもしれない地位にあるのに、カラフィアート公爵家には娘がいなかった。男ばかりの三人兄弟。ないものねだりをしても仕方がないので、カラフィアート公爵は別の策に出た。
女王は、任期は二十五年だが、その間に結婚してもいい。すでに結婚して相手の家に入っていると女王候補にはなれないが、女王になってしまえば相手が婿に入ることになる。そういう形を取れば、結婚することができるし、子どもを産むこともできる。
つまり、カラフィアート公爵は自分の息子を近衛騎士という名目の夫候補として女王に差し出したのだ。エルヴィーンが選ばれたのはたまたま騎士だったのもあるし、三兄弟の中で一番見目が整っていたからでもある。
明るい茶髪に切れ長の深い青の瞳。色彩は平凡ながら、顔立ちはどこの計算された彫刻だ、と言われるほど整っている。繊細だが、女性的な顔立ちと言うわけではない、とにかくきれいな顔立ちをしていた。ちなみに年齢は二十四歳で、女王よりひとつ年上になる。
女王候補になれるのは大公令嬢か公爵令嬢だけ。ウルシュラがフィアラ大公であることからわかるように、彼女も大公家の娘だ。もちろん、女王候補だった。しかし、彼女は女王選挙の前に諸事情で女王候補から降りることになり、フィアラ大公に収まった。爵位を持っていたら女王にはなれない、という法律はないので、女王候補から降りたのはウルシュラの意志だと言われている。本人が何も言わないので、真相は謎のままであるが。考えてみれば秘密の多い女である。
「俺をここに連れて来たのは口止めの為か。と言うか、目立ってないか?」
ウルシュラがエルヴィーンを引っ張ってきたのは、目抜き通りに面したオープンテラスのカフェである。そのかわいらしい外観から、カップル向けであることがわかるが、なぜこんなところに入る。
「今更何言ってるのよ。男女の連れ合いなんだから、こういうところの方が逆に目立たないわよ。それに、そうねぇ……確かに口止めに連れて来たんだけど、よく考えたらあなたに口止め料とか渡してもダメね」
「当然だ」
言い切ると、何故かウルシュラに苦笑された。エルヴィーンは自分があまり頭がよくない自覚はある。しかし、本当に頭のいい人は何を考えているのかわからないとも思う。
「じゃあ、あなたの良心に訴えることにしようかしら。私が一人で出歩いていること、黙っていてほしいの」
ニコッとこれまでで一番いい笑みを浮かべて彼女は言った。エルヴィーンは口元をひきつらせた。
「それが人の良心に訴える態度か」
ウルシュラの態度は、人にものを頼むにしては横柄すぎた。これだから、彼女はどんどん敵が増えていく。そのことに……気付いてはいるんだろうな。むしろ、わざとやっている節がある。そんなに敵を作ってどうしたいのだろうか。
「それでも、あなたは言わないでしょう? エリシュカにも」
エリシュカ。今となっては、その名を呼び捨てにする者はほとんどいない。エリシュカは女王だからだ。みな、エリシュカの後に敬称を付けて彼女を呼ぶ。女王の近衛騎士であるエルヴィーンは、敬称を付けて呼ばれるたびに女王の顔が強張るのを知っていた。
ウルシュラの言うように、エルヴィーンは誠意をもって頼まれれば、主であるはずのエリシュカにも、ウルシュラの話をしないだろう。取り立てて離さなければならない事項でもないし、そもそもエルヴィーンは人を貶めるようなことは好きではない。そんな性格だから、女王に反論するウルシュラが気に食わないのかもしれない、とふと思った。
「お願い。これ、私の数少ない趣味なのよ」
思いのほか真剣に頼まれ、エルヴィーンはうなずいた。ウルシュラが心持ほっとした表情になる。
「見つかったのがあなたでよかったわ。まあ、あなたじゃなかったら見つからなかったのかもしれないけど」
「それは否定できないな」
エルヴィーンだから変装したウルシュラがウルシュラであると気が付いたが、ほかの人では気付けなかったかもしれない。エルヴィーンは人の顔を覚えるのが得意だった。顔立ちの印象ではなく、骨格で覚えると覚えやすい、と言うのがエルヴィーンの持論だった。ちなみに、だれにも同意されたことは無い。
「しかし、あなたは俺を信じるのか? 俺は女王陛下の騎士だぞ」
念のために尋ねてみると、彼女はけろりとして言った。
「別に私は女王の敵になった覚えはないもの。それに、あなたのことはそれなりに信用してるしね。信頼はしていないけど」
「大公。あなたは一言多い」
「よく言われるの」
うれしげにふふふ、とウルシュラが笑う。ウルシュラの意外な、と言うか妙な一面を見た気がして、エルヴィーンは何故か落ち着かなかった。
「……聞きたいことがある」
「あら、何?」
機嫌よさげな今なら答えがもらえるかと思い、エルヴィーンは尋ねた。
「何故、あなたはすべてを否定するんだ?」
その質問を発した瞬間、ウルシュラの目が細くなった。彼女がよく見せる酷薄な笑みを浮かべる。
「そんなこと聞いてどうするのかしら?」
「……あなたの奇行を黙っているのだから、聞く権利くらいはあると思うが」
「ふぅん。そうねぇ……」
コーヒーをすべて飲み干したウルシュラは、今度はにっこり笑った。
「私にしかできないから、と言っておこうかしら」
不遜な発言をしたウルシュラとは、そのカフェで別れた。支払いは彼女が持った。いわく、口止め料なのだそうだ。その額、五リスィー。安い。いや、買収されなくても別にしゃべらないが。
エルヴィーンが次にウルシュラと会ったのは二日後の貴族院議会だった。フィアラ大公であるウルシュラは議員、エルヴィーンは女王の護衛だ。
ちらりと目にしたウルシュラは、二日前に会ったのは別人だったのではないかと思うほど印象が違っていた。髪は結い上げ、銀縁の眼鏡をかけ、首元まであるかっちりしたドレスを着こんでいた。色は濃い紫。まさに評判通りの『怜悧なフィアラ大公』だった。
化粧の効果はすごいな、と思いながら見つめているとエルヴィーンとウルシュラの目があった。だが。
ウルシュラは表情も変えずに視線を逸らした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この先も改稿が終わり次第投稿していこうと思います。たぶん、隔日になるかと思いますので、よろしくお願いします。
一応、第1章は少々の表現追加だけで進んでいくかと思われます。