第六十八話 キス
「徹さん。どうして金魚鉢が好きになったんですか?」
「・・・表情が乏しいと言われて、時々チェックするようにしていたんですが、なんかもう面倒だからいい方法はないかと考えていたら、たまたま金魚鉢を手に取った時に自分の顔が見えたんです」
は?
「どうも、仕事中は特に表情筋が死んでいると言われて・・・男のくせに鏡を持ち歩くのは恥ずかしいですし、別に自分の顔が好きなわけじゃないし」
つまり鏡の代わりにガラスを覗いていたの? なにこの人、やっぱり変人だ。
「表情なんて癖みたいなものもありますし、徹さんはいつも笑っているじゃないですか」
とても優しい笑みを見せてくれる人だと思う。むしろ渡瀬の方が表情怖いし!
「あなたの前だから、嫌われたくないからです」
・・・恥ずかしいので真顔で言わないで!
「じゃあ、無理してたの?」
「いえなんか、自然と・・・最初は、初めて会った日は、あなたに泣いて欲しくなくて、笑って欲しくて。次にあった時はあなたの反応が面白くて。時間が経つごとに楽しくて、嬉しくて・・・」
ふむ、と考え込む彼に、頬が熱くてたまりません。
暗い場所でもガラスと水が反射してきっと気付かれている。だって彼の顔も赤い。
「徹さんって照れるんですね」
「人を何だと思っているんですか!?」
いや、変人でしょ。
「もうそろそろハッキリ言ってください。目の前のサメに集中できません」
「透子さん、情緒とかないんですか」
「普通の恋人同士なら必要かもですけど、私達に必要ですか?」
「・・・いや、なんか想像できません」
お互い残念感半端ない。二人して微妙な顔をして、それからふと噴出した。
「そうですね、そろそろこの空間を純粋に楽しみたいです」
「そうですよ、せっかく来たんだから」
「でも、今日はぬいぐるみはなしですよ」
「今日は小さいのを買って帰りますよ」
いらない、いるを繰り返すと、もう一度手をぎゅっと握った。彼は僅かに首を持ち上げて暗い天井を見上げると、そっと身を屈めてきた。
「あんまり可愛いことされると集中できませんが」
「たまにはちゃんと私を意識してください」
「人の事言えますか。時々渡瀬君といい感じじゃないですか」
むすっとした顔は幼くてどこか可愛い。多分その辺の厚化粧の若い子より可愛い。
「オカン相手に男を意識する人間なんてありませんよ、なに言ってるんですか」
「透子さんは時々あかりさんよりも辛辣です」
褒め言葉として受け取ってあげよう。
にやりと笑った瞬間、彼の顔が今までで一番近づいた。ちゅっとリップ音がして、ああキスしてるって思った。キスなんて一年ぶりなのに、自分の中で違和感が全くなかった。むしろどうして今までしなかったのか、そればかりが気になった。
一瞬が、とても長かった。
「・・・もう少し素直に驚いてください」
「でも、嫌じゃなかったから」
見つめ合うけど、あんまり甘い雰囲気じゃなくて。こんなに淡々としているなんて自分に驚きだ。
「好きです」
「はい」
「透子さんは?」
「・・・サメよりは好きです。でも、あかりと比べると難しいです」
「あかりさんに勝てる人間は地球上に日向さんくらないなので、それで十分です」
え、十分なの?
じっと見つめ、今度は私からそっとキスをした。
「でも、あかりと徹さんの好きは違うので、そういう意味なら徹さんが一番です」
徹さんが口元を押さえて目を彷徨わせる。耳まで真っ赤で、近くを通り過ぎた人たちがチラチラ見ては、誰もが口元に薄らと笑みを浮かべて去って行く。
ガラス越しの魚さえも私達を静かに通り過ぎていく。




