第四話 ”B”
「なんですか」
「・・・いえ確かに。犯人ははた迷惑な趣向の持ち主のようです」
はた迷惑? それだけ?
「冗談じゃないわ。私の二万五千円をなんだと思ってんのよ」
呟いた声は、八橋さんに届いた。
「え、なんの話です。お金も盗られているのですか。それは大変です」
いや、そうじゃないけど。
「すぐに報告してきましょう」
「結構よ、別の意味だから」
きょとんとした顔がやけに幼かった。この人、髪を下ろすとかなり童顔かもしれない。
「別の意味とは」
思案しているような顔で近付いてくる。
顔は良いのよこの男。顔は。でもやっぱり腕に抱えた金魚鉢は意味不明。
「あたしの下着っ、あれ二万五千円もしたのよ!」
男は首を傾げて言った。
「それは、つまり、総合で?」
「一枚よ!」
それは大変な被害ですねえ。なんて呟いてんじゃないわよ。
「あたしの二万五千円! そのせいで彼とも別れたのよ、許せないわ!」
「被害にあったからですか?」
うーんと唸りながら金魚鉢を撫で回す。そんなにそれが好きですかあんた。
「違うけどそうよ!」
そう、直接的には違う。でも私の中であの下着は特別だったの。初任給で買った、一番大切な下着だったの。男にはわからないかもしれないけど。
「どちらですか」
「どっちもよ!」
八橋さんはやっぱり首をかしげた。
「しかも“B”だなんて! 女を馬鹿にしてるとしか思えないわ」
言葉と涙がどんどん溢れてくる。
「・・・かける言葉が見つかりません」
そりゃ結構。安っぽい言葉なんて必要ないし欲しくもない。
けれどその淡々とした言い方が、逆に安心できた。異性として見なくてすむような、不思議な安心感。
「なんなのよ、なんで盗るのよ。Bに入れるくらいなら盗るなよ!」
「おっしゃるとおりですねえ」
うんうんと頷いて、ところで、と彼は話を続けた。
「あなたはなにを飲みますか? コーヒーでいいですか。それはよかった」
あんたがコーヒーって言ったくせに。しかも今も勝手に決めたよこの人。
「それならミルクかお砂糖は? ああ、お塩もありますよ」
何で塩? コーヒーに塩?
私が首を傾げて、
「コーヒーに塩なんて合わないわ」
と言うと、とても意外そうな声が返ってきた。
「やったことはあるのですか? だって、世界にはコーヒーに塩をいれるところだってあるのですよ。もしかしたらあなたもそうかも、と思ったのですが」
絶対行きたくない、そんなところ。コーヒーに塩をいれるなんて、どんな味になるのかしら?
「ブラックで結構です」
「え、ブラックでいいって? それは、残念ですねえ」
ふふふん。と笑った。この人の癖なのかしら?
ちっとも残念そうに聞こえないのだけど。
「きっと落ち着きますよ」
それはとても優しい声だった。
「ありがとう」
手渡されたコーヒーは濃くて苦かったけど、なんだか心に沁みた。
「次は美味しい茶葉を手に入れますね」
次があるのか・・・
「あなたは塩をいれる人なの」
「あはははは」
その笑いはどういう答えなの。
「私は紅茶派です」
「じゃあ何で今日はコーヒー?」
深い、それは深い溜息を、・・・私につかれても困るわ、八橋さん。
「実は、神隠しに出遭ったのです」
この人、頭おかしい気がする。
「紅茶が?」
「はい、茶葉が。よくあることです」
気がするのではなくて、頭おかしいんだ。絶対。
茶葉がどうやったら神隠しに遭うのよ。それより神隠しって本当にあるの?
「非常に残念でした。朝見たらもう・・・」
他の人に処分されたんじゃ?
「ここはあなたの部屋なの?」
「いいえ?」
まさか、とでも言うような表情が返ってきた。
「ここは見てのとおり、資料室ですよ」
さっき言ったじゃないですか、と言われた。
そんなの見りゃわかるわよ、私が聞きたいのは場所の名前じゃなくて、どうしてここを使っているかという理由なんだけど。
「じゃあなんでこんなところでお茶するの」
「だから、ここが一番落ち着くからです」
この人、もしかして苛められているのかしら。だからこんな狭くて埃っぽいところにいるのかしら、もしかして実はとっても可哀想な人?
「・・・なんですか、その人を哀れに思う生易しい瞳は」
ムッとした表情がすごく幼い。
「その髪型は童顔を隠すためですか」
「やっぱりお塩いれてみますか」
うわ、この人笑顔なのに何故か怖い。もしかしなくても、コンプレックス?
「ぷっ」
「あ、笑いましたね。酷いじゃないですか」
「学生服がきっと似合うと思いますよ」
「ふふふん」
聞こえないフリをしているつもりなのか、茶色く色あせたダンボールに顔を向けた八橋さん。
「八橋さん、いじめられっこですか」
「・・・少しは遠慮というものを学んでも損はないと思いますよ」
しばらく気まずい沈黙が続いた。