第四十三話 小さな声でありがとうと言ってくれた。
徹さんから連絡が来たのは、それからすぐの事だった。
「透子さん」
電話を切って、一息ついた瞬間、聞きなれない声に呼ばれて振り向く。走って来たのか、知らない男の人が乱れた呼吸のまま私を見つめていた。
「あかりは」
あ、そうか、この人があかりの恋人・・・
「・・・あ、はい、大丈夫、怪我は、えっと、ちょっとだけ。でも、大丈夫だって徹さんが・・・あの・・・」
誠実そうな人だった。乱れた高そうなスーツとよく磨かれた靴。手ぶらだが、左手の薬指にはシルバーリングが光っている。そう言えばあかりはいつも、首から同じようなリングをぶらさげていた。
短い黒髪に、涼しげな目元。右目の下にはなきぼくろ。
・・・あかり、あんた面食いだったんだな。
「怪我、ですか」
ぎゅっと拳を握る彼に渡瀬が近づく。
「手当すれば大丈夫です。こちらで確認できました。現在、ここに向かっています」
「渡瀬君・・・君も手伝ってくれたのか、前回の件といい、ありがとう」
「いや、まあ、こいつの頼みでしたし」
ちらりと私を見て、にやりと笑う渡瀬。
「俺の仕事でもありますから」
なんか恰好つけてる!?
「ありがとうございます、透子さん。あかりを、助けてくれて」
優しい目をして、それでも落ち着かないような雰囲気に、私も落ち着かない。
「あ、あの、私は何も・・・」
「いつも、あなたが寝ている時にお邪魔してすみません。きちんと挨拶できなくて・・・自分は、日向要と申します。一応・・・初めまして」
一瞬迷ったな、この人。
「私は透子です。よろしくお願いします。あの、二人はその」
「婚約者です」
やっぱり!
「そ、そうなんですね! あのあかりが結婚なんて・・」
「幸せそうなとこ悪いが、帰って来たぞ」
あかりがパトカーから降りてきた。隣には徹さんがいる。
「あかり!」
私と要さんの言葉が重なった。足は彼の方が長くて速い。人目も憚らず彼女を抱きしめて何度も名前を呼ぶ姿が痛々しい。
痣が出来ている白い腕が、彼の背中に回った。
ああ、彼女は本当に彼が好きなんだな。素敵な人を見つけたんだね、あかり・・・
「泣いてんじゃねーよ、馬鹿が」
フッと笑って私の頭を優しく撫ぜた。
「あかり、帰ってきた」
「おう、あの金魚が頑張ったんだ。当たり前だろ」
自分だって色々してくれたのに、大事な所はちゃんと徹さんに譲るんだ。
「今初めて渡瀬が良い男に見えた」
「初めてってなんだよ、俺は常にイイ男だろうが。お前、眼が腐ってんじゃねーの」
この口と態度の悪さがなければいい男だと思うけれど・・・
「透子さん、ただ今戻りました」
近づかれて初めて気付く。どうしてこんなにボロボロなんだろうか。
「徹さん! 犯人に酷いことされてんですね! 大丈夫ですか? 怪我は?」
「いえ、これは・・・ええ、大丈夫ですよ。ちょっとしたかすり傷だけです。あなたが待っていてくれると思ったら力が出ました。ところで、僕の金魚鉢は?」
そっちが本題だろう。思ったが我慢した。
「はい、取り戻しました」
途端、キラキラ光る男の瞳が澄んでいて、ちょっと綺麗だった。
「流石です! 透子さんに頼んで良かった!」
この人、絶対署内に友達いなんだ。
「渡瀬に頼んでも同じ結果でしたけど・・・あの、あかりを助けてくれて本当にありがとうございました。やっぱり徹さんを頼ってよかった! 私、なんてお礼をしたらいいか・・・徹さん、本当にありがとう」
感極まって徹さんにそう言えば、彼はとても綺麗な笑顔を見せてくれた。
「では、一つお願いしても宜しいですか?」
「お礼ですね! もちろんです」
大切なあかりを助けてくれた人なのだから当然だ。
「今度、こちらに行きたいのです。一緒に行っていただけますか?」
そう言って見せられたのは携帯の画面。
「ガラスの世界展? わかりました、一緒に行きましょう! でもこれでお礼になりますか?」
首を傾げると、それはもう、うっとりとした笑顔で頷かれた。
「ここのイベントの最大のポイントは、世界中の水槽の歴史一覧と、最新の金魚鉢の公開なんです!」
あ、聞かなきゃ良かった。
「ぜひとも透子さんとご一緒したいとチラシを見た時から思っていて・・・嬉しいです、透子さん」
何故に私・・・
「と、徹さんがそれを望むなら・・・」
一日金魚鉢コースになりそうな予感だけど、これはお礼なので我慢だ、我慢!
「うへぇ」
隣で渡瀬が嫌そうな顔をするのがわかったが、あえて無視した。
調書を作成するために、私達はすぐに帰宅することが出来なかった。全てが終わって帰る頃、日向さんも当たり前のようについてきて、それから二人は少しして部屋を出て行った。今夜は日向さんの部屋に泊まるということだった。
「あたしは別に自分の部屋で良いんだけど」
「駄目だよ! 日向さんを安心させてあげて!」
そういうと、珍しく彼女は私にそっと抱きついてきて、それから小さな声でありがとうと言ってくれた。
たった一言にたくさんの気持ちが込められている様に思えて、なんだか涙が出た。
その日は広いマンションに一人だったけど、久々によく眠れた。