第二話 ブルーシート
そんな思い出から早七ヶ月後の土曜日の昼。
「は?」
ミシミシと携帯が嫌な音をたてた。いけない、思わず握りつぶすところだった。
「ですから、確認に来ていただきたいんですよ」
「いや、あの・・確認って?」
つい聞きなおしてしまう。
「あなたのだって言うんですよ、犯人が」
のぶとい、聞きにくい男の声は、要領の悪い私にイライラしているのか、少し早口で聞き取りにくい。
・・・犯人?
「ともかく、今日中に頼みますよ」
ガチャッと電話を切ったのは、歩いて十五分ほどの場所にある警察署からだった。
あの二万五千円を盗んだ犯人が捕まって、こっちは通報していないにもかかわらず警察から電話がきたのだ。
「え・・なんで私の番号わかるの?」
わけもわからず部屋を出て、歩きながらあかりに電話した。一人で警察に行くなんて怖くて出来ない!
まさに圧巻だった。
「ここまでされると・・・凄いわね」
凄いなんてもんじゃない。
「これ、何人分?」
あかりと二人で警察署を訪れると、広い体育館のような場所に案内された。床はブルーシートに埋め尽くされ、その上には丁寧に下着が一枚一枚並んでいる。
「九十人程度ですね、ほとんどの人が通報してくれないので探し出して連絡するのも大変ですよ」
・・・九十? 九十って、何。え?
あかりは案内してくれた制服の女性警察官と話をしている。
「なんで通報してないのに持ち主がわかったんです?」
あかりが興味津々といった顔で質問すると、彼女は困ったように笑った。
「それが、犯人が覚えていたんですよ。これは何丁目の誰のだって・・・気持ち悪いでしょう?」
苦笑しながらそう言う。
気持ち悪い? そんなもんじゃない。犯人を含めたくさんの警察官に自分の下着を見られ、並べるために触られたの。もう気持ち悪いなんて一言ですませないでほしい。
「才能の無駄使いって感じですね」
あかりが感心した様子で頷いた。
「釣竿を改造して犯行に及んだようですね」
私たちの他にも何人かの女性がいた。
怒っている人もいれば、私みたいに呆然としている人、しくしく泣いている女子高生までいる。
「この、SとAとBって、なんですか?」
あかりがブルーシートに赤い字で書かれたアルファベットを指差すと、婦警さんが心底うんざりした様子で答えた。
「実はこれ、犯人の指示なんですよ。ちゃんとランク分けしないと誰のか教えられないって、酷いでしょう?」
「ランク?」
私が繰り返すと、彼女は力強く頷いた。
「Sは“素晴らしい”で、Aが“普通”。最後のBは“興味なし”ですって!」
意味がわからない。しかし私は気付いてしまった。
誰か説明して。どうして“アレ”が“B”の中にあるの。
「えーっ! なにそれ!」
あかりが興奮したように大きな声を出すと、たくさんの人達の視線を感じた。
「あかり、目立ってる!」
恥ずかしいからやめてよ! ただでさえ、ここに居るだけで辛いのに!
「だってあんた、わかってる? 自分の下着が、わけのわかんない変態男に採点されてんのよ!」
警察官まで一緒になって頷かないでよ。
「犯人は確かにオッサンでしたね」
今年五十六ですって。って。
「どうせテレビで流れますから」
いや、そういう問題・・・?
というかそういう問題ではないような気がするのは私だけ?
「あ、そうそう。一応調書取らなきゃいけないんで、どれがご自分のか教えていただけます?」
さらっと言われた言葉に、口がふさがらない。
「で、でも・・犯人が・・」
「確認しないといけませんから」
いや、笑顔で言われても困る。確認って、だってここには少し離れたところに男の人も(警官だけど)いるのに、そんなハッキリ言えるわけない。
だってあの二万五千円が“B”に入ってるっていうのに! つーかなんで安物のセットで三千円ちょっとのティーブラが“S”なのかも理解不能よ! 警察官が間違えたのかしら?
それにしても言えるわけがない。
あそこの“B”に入ってる一番高価そうなブラが私のです! なんて、口が裂けても言えるわけない!
「あのー、聞いてます?」
聞いてるよ。でもね、言葉が出てこないのよ。
なによ、もしかして一度も使ってない高級下着だから? それとも、犯人には高級下着より三千円の安っぽいティーブラのほうがお好みってわけ? 考え出すとイライラしてきた。
「あの?」
「おーい。婦警さん可哀想だから無視するなー」
今は黙っていて、あかり。それに今は女性警察官っていうのよ。
それにしても。なに、なんなの?
高級下着の何が気に入らないのよ? 少ない給料やりくりして手に入れた下着より、どこにでも売ってる安いティーブラのほうが色気があるって言いたいわけ?
なによその差は。どこに差があるの?
というかいらないなら盗るなよ。私の二万五千円返してよ。いや、今返されても困るけど!
「頭痛くなってきた」
「いや、婦警さんが困ってるから答えなさいって」
あかりの声も私には届かない。
二万五千円よ、二万五千円! シンプルなティーブラより、細やかな刺繍が施されているあの美しいブランド物が気に入らないっていう犯人に一度会ってみたいわ。もちろん力の限りのパンチをお見舞いしてやる。
「困っているのはこっちよ」
ぼそっと呟いた声は、彼女には一応届いたらしい。
「はいはい。でもね、これ終わらないと帰れないのよ。どうせ証拠品は返してくれないんだから諦めて白状して楽になりなさいよ」
こいつ、本当に他人事だわ。それより白状ってなによ、まるで私が犯罪者みたいじゃない。警察官も一緒になって頷いてるし。
そういえば下着はやっぱり戻らないのなら、言わなくてもいいじゃない。
「ほら、なんか逃げようとしてない? さっさと言っちゃえ」
簡単に言わないでよ、こっちは今恥ずかしくて死にそうなのに!
心臓がばくばくいって気持ち悪い。これを終わらせなきゃ帰れないってわかってはいるけれど、だからって言えない。女のプライドがそれを許さないわ。
もう夏でもないのに、締め切った体育館は蒸し暑かった。
「むり」
「は?」
言えと?
あたしに言えと?
あそこの紫のブランド物です。バラの刺繍が入った高級そうな下着です。“B”に入ってます! って?
馬鹿言わないでよ。確認っていうぐらいだから、ドラマで出てくるような個室に案内されて、脂ぎったオヤジに睨まれながら話を聞くんだと思ってた。こんな体育館だなんて聞いてないわ。
言えない。言えるわけがない。
まだ気持ち悪いオヤジに睨まれながら、悲劇のヒロイン気取って、しくしく泣いてるほうが、気持ちが楽だわ!
「ちょ、・・・何泣いてるのよ。あーはいはい、わかったわよ、私が言いすぎたわよ。ね、泣かないで」
泣くなといわれても涙は勝手に出てくるものなんだ。私だって泣きたいわけじゃない。さっきからチラチラと他の警察官がこっちを見ていることには気付いている。
恥ずかしいさ。無茶苦茶恥ずかしいわよ。でもね、あの下着を指差して自分の物だと宣言するよりはマシよ。
「ううぅ」
「で、あんたのはどれなのよ。早く終わらせて帰ろうよ。かなり目立ってるわよ」
女の友情って・・
「あ。ほら、お姉さんが晩御飯奢ってあげるから」
どんな誘い文句だ。
「ね、大丈夫ですよ。ここにいる警察官は女性の下着なんて見飽きていますから。恥ずかしがらないで」
どんな安心感よ、それは。
「むり」
「大丈夫。私にだけ言ってくれればいいですから」
いいですからって、でも、さっきから人が集まってきているのに。
「どうかしました?」
しましたとも。
どうして男が寄ってくるのよ!
制服姿の、まだ若い警察官だった。歳は私とそう変わらないぐらいの。
「ああ、渡瀬さん。この子泣き出しちゃって」
制服を着た男の人は、またですか、と呟いて溜息をついた。
なんだその態度は。あんたにとっては日常かもしれないけど、こっちにとっては初めての経験だ。
「こちらで飲み物配っていますから、少し落ち着いたら再開してください」
事務的な男の口調に、だんだんと悲しくなってきた。
自分はここで何をしているのだろう。
下着盗まれた一週間後、結局彼とは別れた。その数ヵ月後。近くの警察署の体育館で泣いている。
二万五千円じゃなかったから悪かったのか。やっぱり一万八千円の下着じゃ気に入らなかったのか。男の好みなんて知るか。
悔しくて涙が止まらない。
嗚咽を堪えようとしても土台無理な話だった。
子供のように泣きじゃくる私に、あかり達は困ったように顔を見合わせていた。他の被害者の人達も心配して寄ってくるし。なんか慰めてくれるけど、やっぱり涙はとまらなかった。
「ちょっと悪戯されただけよ、こんなことに負けないで」
胸元を出したセクシーな格好のお姉さんはそう言って励ましてくれた。キツメの香水のにおいで頭がくらくらする。
ちょっとの悪戯なんて思えるぐらいなら誰も泣かないわよ。
「大丈夫ですよ、やられたらやりかえせばいいんです!」
女子高生。あんたもさっき泣いてたでしょ。つーかどうやってやりかえすのよ!
私に下着泥棒をしろって? 男の下着を?
その時、泣いた自分の顔が見えた。