第十六話 事故だって。悪気はないんだよ。
「コンニチハ」
不機嫌丸出しで立っているのは渡瀬さんだった。お洒落なスーツで従業員用の出入り口に立っていた。
「こ・・こんにちは・・・?」
昨日とはうってかわって、同僚達も遠巻きに見ている。
「・・・」
うう、無言で睨むのはやめてほしい。
「あ、あの、八橋さんは・・・」
「昨日聞きませんでしたか、今日は俺が護衛します」
ぶっきらぼうな言い方。嫌なら来なきゃいいのに。それにしても、護衛・・・?
首を傾げると深い溜息をつかれた。
「う」
明らかに不機嫌だ。もう不機嫌絶好調みたいな? いや、どんなだ私・・・
「き、聞きましたけど、どうしてあなたが来るんですか?」
「・・・は?」
うう、だからどうして私を睨むの!
「昨日は、あの変人とどこへ行ったんですか」
「鍵を買いに・・・もともとあったのだけじゃ駄目だって」
渡瀬さんは一つ頷く。
明らかに年上だろう相手に向かって、堂々と変人扱いする渡瀬さんを少しだけ尊敬しつつ、けれど一定の距離をとる私に、彼は手を伸ばした。
「なんで逃げるんですか」
「べ、べつに・・・」
近付かれればそれと同じだけ後ろに下がってしまう。
渡瀬さんは伸ばしていた手を下ろした。
「行きますよ、時間がもったいない」
「え、どこへ?」
こっちは本気で聞いたのに、渡瀬さんはもう一度溜息をついただけだった。
歩調を合わせてくれている渡瀬さんに驚きながら、なかば奪われるように取られてしまったカバンから開放された手が寂しい。
「ええと・・・」
困ったな、食料品を買って帰りたいのにどう声をかければいいかわからない。
すでにデパートを出て、アパートに向けて歩いている途中だけど、全く会話がない。
「どうしよう」
今夜は残り物の野菜で何か作るとして、明日の朝のパンもないしそろそろ冷蔵庫はからっぽだし。
小さな声で呟いたつもりだったのに、渡瀬さんの耳にはしっかり届いていたらしい。
「何が」
「ぶぎゃっ」
急に立ち止まられたせいで、渡瀬さんの背中に突撃した。
「なにが、どうしようなんです」
ただでさえ低い鼻を打ちつけてしまった私を、一瞥しただけで前を向く渡瀬さん。
ちょっと、無茶苦茶痛いんですけど。
「か、かいもにょ」
「は?」
鼻が痛くてうまく喋れない。
「だから、買い物をどこでしようかと・・・」
「ああ」
頷いていきなり方向転換した渡瀬さんと、今度は真正面からぶつかった。
「のべほっ!」
「・・・もう少し色気のある声を出せないのかあんたは」
誰のせいだ。私か? よけられなかった私か? 私が悪いのか?
「だから痛いのよ!」
「いきなり切れるな!」
しばらく、無言で睨み合った。
「で。どうしたらこうなるのでしょうか」
「知らない、俺に言うな」
せまいキッチンからは香ばしい肉のにおいと、みずみずしい野菜を切る音。そして私はソファーに体育座り。なぜこんなことに・・・
「変な女だとは思っていたが、いきなり階段からずり落ちるわ、人の頭にリンゴと卵をぶつけるわ、あげく缶詰まで直撃したと思ったら最後の最後で小麦粉をお見舞いされるのはさすがに初体験だったよ」
いちいち言い方がねちねちした男ね。変な女ってなによ。
「か、階段から落ちたのは私が悪いけど、後は事故です!」
てゆーか自分だって痛かったもん。
さすがにリンゴと卵と小麦粉まみれになった姿を見たときはちょっと引いたけど。あれは完全にいい男が台無しだったわ。すぐに店員がタオルを貸してくれて助かったけれど、彼の額には白いテープが目立つ。缶詰が直撃した場所だった。