とある人生録
午後二時。陽の光を浴びて昼寝をしていた僕を起こしたのは、一人の若者の来客だった。二〇歳過ぎのその若者は変に律義で、玄関の鍵が開いているのも承知で、ドアベルを鳴らして家主の迎えを待っていた。
バルコニーから覗くと、丁度家主であるうちのじいさんが出て来たところだった。じいさんが若者を家に入れるのと同時に、僕も中へ入った。
この若者はじいさんの友人の孫らしく、昔からの馴染みがあるのだそうだ。彼が我が家を訪れるようになったのはここ二年程の話。その友人の葬式の後だ。
「さて、今日は何の話をするかい」
じいさんは若者が来るといつも楽しそうで、鼻歌なんか歌いながら紅茶を淹れている。
「そうだなあ……先月は、僕の祖父の事を話して下さいましたよね。では今日は、おじいさん自身の話を聞かせて下さい」
「私の話?」
はい、と若者は瞳を輝かせた。
「おじいさんの子供の頃とか、社会に出てからのこととか。僕はまだ学生だから、仕事のことも是非聞きたいんです」
二つのティーカップとミルクの入った皿を持ったじいさんは、うーんと言いながら椅子に座って、私の話は面白いかなあ、などと呟いていた。
「――では、一つ語るとするか」
ミルクを飲む僕を撫でる手はしわくちゃでとても温かい。同じくらい温かい声でじいさんは話し始めた。
「君は、演劇は好きかな?」
***
「小学生の頃の私は、それなりに頑張っていた」
「それなり?」
「ああ、特筆して勉強が出来るわけでも運動が得意だということも特にない、いわゆる平凡な子供だ。小学生の時分は、あんまり人と差が出来ると孤立する。まあ大人になってもさほど変わりはしないが……特に小学生は、ということだな。それでも成績は上位をキープしていた。これは親の為だな。あまりに平凡すぎると、また余計な心配をかける可能性もあったから。どの時代も親というのは心配性でね」
おもむろに僕を膝の上に乗せる。僕だけの特等席はとても心地よくて、僕は思わず喉を鳴らした。
「中学生の頃は、はもう少し上位層にいた。同級生間でも差がはっきりする頃だし、遠慮する必要のない時代だったからなあ。先生も喜ぶし親も喜ぶ。友人に勉強を教えればその子らも喜ぶ。先輩や後輩との関わりもあったし、この頃は充実していたよ。社会に溶け込むよりもずうっと」
「あ、あの」
ペラペラとまくしたてるじいさんを遮るように、若者は声を上げた。
「先程、おじいさんが僕に『演劇は好きか』と聞いたのは、学生時代、演劇部に所属していたからとかそういうのですか」
若者の問いかけに、じいさんは少しの間きょとんとして、やあすまない、と笑った。
「そういうことではないよ、ろくな説明もせずに進めてしまったね」
僕からじいさんの顔は見えないが、声だけで察せられた。彼が今、どれほどいい笑顔をしているのか。
じいさんは再び語り出した。
「私は昔から、求められる人間だった」
***
「誰かにそうであれと言われたわけじゃない。気づけばそれが当然だったんだ。周りに合わせた生き方が得意だ、ともいうかな。その場に一番適応した人間になることが、私であるということだった」
若者の顔に?が浮かぶ。いつもは紅茶やお菓子の話、あとは僕の話くらいしかしないじいさんの口から紡がれる言葉の数々は、若者には奇妙に聞こえたことだろう。
「小学校でも中学校でも高校でも、私には〝役〟があったのさ。こういう人間になるのが一番丁度いい、最も適する姿はこれだ、っていう役割がね。実際に伝えられるんじゃなく、いつの間にか私の心には刷り込まれているんだ、その台本が」
「……えっ」
素っ頓狂な声が若者からこぼれた。
「じゃあおじいさんが……おじいさん自身が、既に演劇だというのですか」
そういうことさ。
僕はじいさんの膝から降りて棚へ上った。ここからなら二人の表情が見える。じいさんは、僕でも稀にしか見ない、いたずら心溢れる少年の顔をしていた。
「刷り込まれた台本には、ある程度の設定はある。だが、実際それだけの情報量で過ごすとなると、どうもぼろが出て人間らしさに欠けてしまう。だから自分で役作りもするんだ」
「それは……楽しいものなんですか」
「うーん、何せそれが当たり前だからなあ。だが苦痛に感じたことはない」
「学生時代だけじゃないですよね、演じていたのは」
「当然。社会人になって仕事に就けば、また新たな役が用意されていた。種類は沢山だったが、ほぼ毎日同じ繰り返しだったせいで、学生の頃より躍動感はなかった。それでも、私は満足だったよ」
***
「あの」
若者の表情はいつの間にか真剣なものになっていたが、当初の瞳の輝きはさらに強くなっていた。
「これまでに、何も演じていない時ってなかったんですか」
例えば、社会から一歩離れた今とか。
「――ないな」
じいさんの笑みは、夢に満ちた青年のようだった。僕が街に出た時によく見る、自分の信念を意地でも曲げてやるもんか、これが俺の姿だ、といった雰囲気を纏う人間。
「常に演じているという意識はある。だが、それが途切れることがないんだ。誰かといるときは勿論、家で愛猫と二人きりで過ごしている時も。そういう過ごし方をする老人、という役割なんだ」
「それって悲しくないですか」
若者の声は鮮明だった。
「いつも自分を偽って生きなければならないなんて、悲しくないんですか」
その言葉を聞いて、じいさんはケタケタと笑った。
「いやあ、流石血筋といったところか。君のじいさんにも同じような事を聞かれたっけなあ」
仮面を被らなけりゃ生きていけないなんて悲しい人間だね。
――悲しい? 一体何が悲しいというのだ。
「そもそも、人は誰しも仮面を持っているものなんだ。小さい子供もくたびれた老人も皆そうだ。むしろ仮面が無ければ生きていけない。俺はね、それが楽しいと思えるのは幸福だと思うんだよ。外して着けてを繰り返すから息苦しくなる。楽しんでこその人生じゃないか、そう思わないか?」
じいさんの熱のこもった声が、部屋中に響く。
「人生は舞台だ、誰もが物語の主人公だ、なんてよく言われるが、まさしくその通り。俺の人生は、俺そのものが演劇だ。演じることが存在意義であり、宿命であり、呼吸なんだ。君が『悲しくないのか』と聞く訳も理解はできる。要するに、これが素の俺だ、というものは無いに等しいからな。だがな、素の自分を考えたことすらないのだ。毎日が、一分一秒が役作りに励むために消費されているのだから」
冷めきった紅茶を飲み干し、若者は聞いた。
「じゃあ、その舞台は幕間もなく続いているんですね。僕もその舞台の一員というわけだ」
「ああ、とても良い俳優だよ、君も、君のじいさんも。二大花形役者だね」
「終幕は――」
「もう、すぐそこまで来ているよ」
おいで、と僕を呼ぶ声色は、いつもの明るいじいさんのものだった。僕は一息にじいさんの膝へ跳んだ。
「クライマックスはこいつとの二人芝居になるだろう」
しわだらけの笑顔に僕は小さく鳴いた。
僕の次の役割は野良らしい。十数年ぶりだが、きっと立派にこなせるだろう。
〈これにて、演目『 』をお開きとさせていただきます。皆様、ご来場ご出演、誠にありがとうございました〉
伝わりもしない挨拶を残して、僕は役作りを始めた。
閉幕
【演劇】(えんげき)
それぞれの役に扮装した俳優が、脚本に従い、言葉のやりとりを通じて、社会の現実の姿や願望としてのあり方、人生の悲喜・哀楽などを描き出し、観衆に何らかの感懐を抱かせることを目的とする舞台芸術。
(新明解国語辞典より引用)
こんにちは、新谷裕です。
今回は三日間で書き上げました。自己史上最速。
さて、ここまでお読み下さった皆様は、この小説の語り部は誰か、わかりましたでしょうか?もしまだ謎として頭に引っかかっている方がいらっしゃいましたら、是非もう一度ご覧ください。ヒントはほら、すぐそこに散りばめられています。頑張って散りばめました。
『人生は演劇である』
あなたはあなたを、どう演じますか?