第一章
馬鹿馬鹿しいことこの上にないと、京田紅はいつも思っていた。
第二西暦二千百二十五年の脳さえマシン化されたこの世の中なのに、不合理なことが多すぎると紅は思う。
まず、学校という義務教育の過程。何もかもが電子化されて、入ってきた情報はメインマシンの脳が処理をし、目の前に―正に目の前、視界自体に―ウィンドウが開かれて、情報の理解を促しているのに、教室という箱の中に入って、教師と呼ばれる人物からの教授を聞かなければならないこの不合理。どんな人物も、実際に会って話すこと、つまりリアルコンタクトが必要だとお偉い学者さんは言っているが、その一方で個々には個々にしかない特性があるとも述べている。ならば、その特性のひとつとして、リアルコンタクトが面倒だと思う個性も認めてほしいと紅は思う。
例えば、この学校という制度がなければ、もっと仕事が捗るのに。教師のマシンは、回線をオープンにして、生徒のマシンに情報を届けている。同時に生徒が授業以外のことをしないように―思考できないように―、強制的に生徒が使っているマシンの状況が確認できるようになっていた。しかし、そのプログラムからこっそり抜け出すことは、紅にとっては難しいことではなかった。そろそろアップデートが必要だと思える京田のOSの件もある。授業もそこそこに、紅は教師の『目』を掻い潜って、京田本家にあるメインマシンにアクセスを試みた。しかし、すぐにアクセス申請が却下される。更に追加でメールが届いた。
『授業はきちんと受けるべきです』
本家のマシンを総括して操っている洸という式神のプログラムが紅にお小言を呉れる。この式神は京田が陰陽師として名乗りを上げた頃に、一番初めに開発されたものらしい。何度もアップデートを繰り返し、様々な情報を吸収した式神はまるで本物の人間のようだ。紅は京田のマシンから手を引き、思考をプライベートに切り替えて、ぼんやりと考え始めた。
何もかもが電子化されたこの世界で、何が本物か、何が偽物―つまり視覚的に存在しても、物理的には存在しないリアライズされたもの―なのかわからなくなっている。リアライズされたものは、見ることは勿論、触れたという認識さえ脳が処理しても、物質としては存在しないものだ。よってマシンがそのように処理をして、本物と偽物の違いはわかるようになってはいるが、そもそも、そのメインマシンが誤作動を起こしたらどうなるのだろう。視覚的に存在し、触れることができる『錯覚する』ものは、それはもう『本物』ではないのだろうか。何が本物で、何が偽物なのか。その全てをマシン化した脳に託してしまった今の世の中では、それがとても曖昧になっている。いや、紅は思った。脳がマシンとなっていなくても、あると認識してしまえば、それは『存在する』ものになるのではないだろうか。例えば、廃れてしまった昔々の第一西暦期の宗教。神というものが存在すると信じていた人々には、神は存在したのではないだろうか。信じることによって、『物』は存在する。なかなか面白い思考だと思った。
とはいえ、こんなことはどこかの学者が既に考えたあとのものであろうし、紅の仕事の本分はこんな思考のことではない。
――あなたは学生としての『仕事』も持っているのですよ。
本家に置いてきた式神は、よくそう言った。勝手にリアライズして、紅にお小言を呉れて回る。あのプログラムから離れることができて、紅は少しだけ安心しているのかもしれなかった。しかしそれは同時に寂しさでもあった。
紅の中のマシンがアラームを上げる。授業は終わったようだ。次いで、昼食を摂取すべき時間であることをアラームが告げる。鬱陶しく思いながらアラームを切って、紅は席から立ち上がった。立ち上がり、教室の中を出ていきながら、本当に無駄だと思った。椅子はともかく、椅子の前にある机は一体何をするためのものなのだろうと。
指紋認証の電子マネーはとても便利だ。その点はとても高い評価をするに値すると紅はメロンパンと牛乳を買いながら思った。しかし、その牛乳とメロンパンを出すために、人が出てくるのは理解できない。そんなことしなくても、自動で出てくるようにすればいいのに。無駄が多いと思いながらも、そういうことで『仕事』を見つけなければ、仕事を持っていない人間が多々存在することになってしまうということも理解していた。その原理を理解していることと、それに対してああだこうだと思考することは同義ではないと紅は思っている。
階段を上って、屋上まで出る。今の技術を持ってすれば、階段を全てエスカレーターやエレベーターに替えてしまうことはとても簡単なことなのだが、そうなった場合の深刻な人間の運動不足が考慮され、公共施設は階段が多く作られている。百階以上もある高層ビルなら話は別となるが。
階段を一番上まで上りきった上の屋上は、ちょっとしたガーデンになっている。季節毎に花が植えられ、木々が風にざわめいている。そこここに備えられたベンチに座って昼食を楽しむ人影が見えたが、紅はそこから背を向けて、裏手のコンクリートのみの簡素な敷地にひとつだけぽつんと備え付けられたベンチに腰掛けた。買ったメロンパンと牛乳を脇に置いて、ぼんやりと空を眺める。空は澄んでいて、高かった。青く塗り潰したキャンパスに、白い絵の具を刷毛で描いたように、雲が流れている。瞼を閉じて、陽ざしに瞼を当てる。こうしていると、凝り固まった脳味噌のマシンから離れられるような気がした。近世では、五歳になると、脳を電子化する手術を受ける義務があった。そうすることで、戸籍の確認や犯罪の抑止など、国にとって事務的な処理が簡単になる。きっと。紅は思った。五歳までの電子化されていない脳は軽かったに違いない。脳を電子化することで形状や重さは変わらないと言われているが、情報の摂取量の違いだ。人間の頭の中を電子化してまで処理しなければならない情報とはなんだろう。そこまですることの意味が、人間がここまで進化したことに意味はあるのだろうか。
そんなことをつらつらと考えていた。瞼を天日干しにするのは気持ちがいい。うっとりとなっていたそのとき、突如ビーッとけたたましくアラートが鳴った。
脳内でアラートを上げて、視界を信号が行き交う。真っ赤に染まった視界とアラートをアンダースタンドの名の元にシャットダウンして、サブマシンを二つ立ち上げる。「柏」。名を呼ぶと共に、鳶色の毛並みの獣が紅の傍らにリアライズされた。同時に呪符をもうひとつのサブマシンでリアライズした。弱いウイルスなら、この式神で押さえている間に呪符で封じてしまえる。紅の中のマシンが周囲を索敵し、対象を見つけ出した。
「ハク!」
鋭く呼ぶと、獣は心得ていたように跳躍し、ウイルスと思われる物体に飛び込んでいった。そのままの構えで、祝詞を唱えようとした。しかしその前に。
「うっわあ!」
明らかに人の声がした。健常な人の声だ。紅は構えを解いて、その対象を見た。
「うわ、何、何これ、なになに!」
男子生徒の声だった。
「……ハク」
呼ぶと、獣は紅の命令の通りにその対象の上から退いた。別に、名前を呼ばなくてもそれだけの動作は指示できるのだが、名前を呼ぶのは陰陽師としての古い習慣のようなものだった。
「うわあ、びっくりした」
コンクリートの地面に倒れている男子生徒に、紅は手を差し出した。
「ごめん、私のマシンが誤作動したみたい」
「いや、オレの使ってるサブマシンが古いからさ、よくこういうことあるんだ」
男子生徒は軽く言って、紅の手を取った。ぐいっと引っ張る。男子生徒はほとんど自分の力だけで起きあがった。
「あなた、神仏関係者?」
紅の言葉に、男子生徒は頷いた。
「オレは仏教関係。あんたは?」
「私は陰陽師」
「ああ」
男子生徒は合点したように言った。
「シズカが言ってたのはあんたのことか。京田……何さんだっけ?」
「紅。京田紅」
そのままの文字を目の前の男子生徒のマシンに送信すると、「紅ね!」と彼は笑った。
「きれいな名前だな」
「ありがとう」
紅は素直にお礼を言った。
「オレはヨシナガショウゴ」
「ヨシナガ……? どういう字?」
「ああ、送信するの忘れてた」
彼はそう言ってから、少し時間を置いてから、情報を送信してきた。
慶永霄悟。そう書くらしい。
「霄悟……今日の空みたいな名前ね」
そう言うと、目の前の男子生徒―慶永霄悟はきょとんとした顔をした。
「そうなの?」
「『霄』には高く遠い空という意味があるでしょう。仕事柄、漢字には少し詳しいから」
「そうなんだ」
慶永霄悟はまだ少し間の抜けた顔をしている。
「オレ、自分の名前の意味なんて、今初めて知ったわ」
「そう」
紅はそれだけ言った。そしてサブマシンを二つ立ち上げたままだったことに気付く。
「柏。戻っていいよ」
そう言ってサブマシンをスリープモードに戻そうとすると、「待って待って」と慶永霄悟が声を上げた。
「それ、ハクっていうの?ちょっと触ってたら、駄目?」
慶永霄悟はまるで小さな子どもがおもちゃを強請るような顔で紅を見てきた。背は慶永霄悟のほうが高いのに、なぜか見上げられているような気持ちになるのはどうしてだろう。紅はその目線に負けて、「いいよ」と言っていた。
「やり!」
柏は赤い目を紅に向けてみせたが、好きにさせてやることにした。柏はサブとして紅の中に入っているので、マシンのプログラム自体は独立している。柏が動揺しようが、紅の感情の範疇ではないのだ。
慶永霄悟は柏を相手に、お手やお座りや、愛玩犬にさせるようなことを一通り試していた。柏もそれに付き合って、お手やらお座りやらしている。そうして見ていると、柏も少し大きいだけの犬のように見えた。柏のモデルは狼なので、そう違いないかもしれない。そんなことを思いながら、牛乳のパックにストローを刺して、飲んだ。牛乳は温くなってしまっていて、いつもよりずっと乳臭かった。
結局昼食のメロンパンは食べなかった。慶永霄悟は一頻り式神の獣と遊んで―あのプログラム自体も不快ではなかったのだろうと紅は推察している―、紅はぼんやりとそれを見ながら牛乳を啜っていた。授業が再開される五分前のアラームが鳴ると、慶永霄悟は急にはっと顔を上げて、「ヤバイ!昼飯食ってねえ!」と叫んで走っていった。去り際に「また遊ばせてねー!」と言い添えて。
紅は教師から見えないようにカモフラージュを施してから、昼間の騒動の原因を探っていた。解析をしてみれば、何のことはない。慶永霄悟が言った通り、彼が使っているサブマシンの型が古く、紅のマシンでは解析が不可能だっただけだ。見覚えのないコードだと思いながら、紅はとりあえずそのコードを認識する手順を踏んだ。そしてそのウィンドウを閉めておく。情報科学の授業だったので、下手をすれば教師に内職がばれるかもしれないと思ったからだ。
授業が全て終了して、紅は帰宅の準備をして帰路に着いた。この学校に転入してきて一週間になるが、この学校の中で紅が喋ったのは先程の慶永霄悟との会話と、転入一日目の「煩い」のひと言だけだった。それだけの言葉で、人は波が引くように離れていった。そのほうがよかった。何が良くて人とつるまなければならないのか、わからないと思っている。
鞄の中には少し拉げたメロンパンが入っているが、自宅の食材は切らしていたのを思い出して、紅は最寄りのスーパーマーケットに向かった。本家にいた頃は煩い式神が自炊をしろ、ファーストフードは食べるな、インスタント食品も食べるなと言って煩かったので自炊をしていたが、こちらに越してきてからは煩い式神もいない。紅は専らインスタント食品のお世話になっていた。インスタント食品はいいと紅は思う。最近では栄養価も偏りがないものが増えてきたし、色々な種類もある。適当なレトルト食品やらカップ麺やらを買い物かごの中に放りこみ、レジに向かおうとしたところで、後ろから声がした。
「紅じゃん!」
そんな風に自分を呼ぶ人物がこの辺りにいただろうか。思案してから紅は振り向いた。そこには昼間に会った慶永霄悟がいた。真っすぐ紅のほうを指さしている。
「霄悟。そんな風に人を指さしてはいけませんよ」
隣の眼鏡をかけた男性が慶永霄悟に言った。慶永霄悟は言われた通りに腕を下ろして、ぴょんぴょんと跳ねるような足取りで紅のほうに近づいてきた。
「紅もこの辺りに住んでるの? 買い物? 何買うの?」
慶永霄悟は矢継ぎ早に質問をする。紅が顔を顰めると、「霄悟」と後ろの男性が慶永霄悟を窘めた。
「人にずばずば質問をするのはやめたほうがいいですよ。失礼でしょう」
「はあい」
慶永霄悟は先生に叱られた小さな子どものような返事をする。少しだけそれが面白かった。
「……でも」
眼鏡の男性は、じっと紅の買い物かごに目を落とした。
「あまりいい買い物だとは言えませんね」
それこそ不躾だと、紅は思った。
「ショウゴ」
眼鏡の男性は言った。
「この方のかごの中の商品を、元のところに戻してきなさい」
「おっけ!」
慶永霄悟は素早く言って、素早く紅の手からかごを引っ手繰った。「よ、」。しながくんと言おうとしたときにはもう、並んだ棚の向こうに消えていってしまっていた。
「私が何を買おうと私の勝手でしょう」
紅が自分よりも背の高い男性を睨み上げていうと、男性はにっこりと笑ってみせた。
「僕、インスタント食品が三大大嫌いのひとつなんです」
眼鏡の男性は相楽海と名乗った。彼が買ったものをなぜか紅は買い物袋に入れ替えるのを手伝わされ、そのまま手を引かれて強引にスーパーの外に出された。
「カイちゃん! 全部戻してきた!」
スーパーを出たところで慶永霄悟が姿を現した。
「ショウゴ、今夜はこの方を夕食に招待しようと思うんですが、どうです? ご馳走を作ろうと思うんです」
彼の言葉に、慶永霄悟は目を輝かせた。「ご馳走! オレはいいと思うよ!」 言った慶永霄悟を、紅は睨みつけた。
「慶永くん。この人に何か言ってくれない」
「慶永なんて、いいよ。霄悟って紅も呼べばいいよ」
全く話を聞いていない。
「僕のこともカイって呼んでくださって構いませんよ。「うみ」って呼ぶ人のほうが少ないんです」
この男も全く話を聞いていない。紅は反抗の印に男性―カイに掴まれた右手をぎゅうっと強く握ったが、カイは欠片も表情を変えなかった。
「えーと、ベニさんですか?」
カイが聞いたので、名乗らないわけにもいかず、紅は無言で姓名情報をカイのマシンに送信した。
「ああ、京田紅さんと仰るのですね。きれいな名前です」
カイの言葉に何も答えずいると、「きれいな名前です」ともう一度繰り返されたので、紅は渋々「どうも」とだけ言った。
「京で紅というと、『紅の深染めの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる』ですかね」
すらすらと暗唱してみせたカイを、紅は驚いて見上げた。
「古い京の都では、紅の深さで思いの深さを表しましたからね。京で紅というのはいい名前です」
「あなた、歴史学者か何か?」
聞いた紅に、カイはいえいえと笑った。
「僕はただの塾の講師です。専門は国語ですけど、数学もときどき教えます」
「文系なの、理系なの」
思わず聞いた紅に、カイは控えめに「国語のできる理系です」と言った。意味がわからないと紅は思った。
少し歩いて、『善如寺』という石塔が立てられた小さな山の前まで来た。「……お寺?」 紅が誰に聞くともなしに言うと、カイが「寂れてますけどね」と言って、紅の手を引きつつ、石段を上がっていく。鬱蒼と茂った木々の中の長い石段を上りながら、一体どれだけ上にあるのだろうと紅は思った。十分くらい石段を上っただろうか。時間を測っていなかったので、正確な時間はわからなかったが、紅の体感時間ではそれぐらいに思えた。カイも霄悟も飄々としていて、疲れているのは紅だけだった。石段を上り切ったところで屈みこんでしまいたかったけれど、我慢した。「こちらです」 カイが紅の手を引く。されるがままに手を引かれて門をくぐり、歩いて行くと、大きな本堂が見えた。大きい。そして寂れている。それが紅の感想だった。
「保護指定区なの、ここ」
思わず紅が言うと、少し前を歩いていたカイが振り向いて、「森林はそうですけど、建物は違いますね。お金がないだけです」と少し笑いながら言った。霄悟は石段を上りきったところで先に奥へ走っていってしまっていて、姿が見えない。
「カイ……さんが、ここに住んでるの?」
紅が聞くと、カイは少し歩調を緩めた。
「いいえ。僕はここには住んでませんよ。もっと便利な場所に住んでます。ショウゴはここに住んでますけどね」
じゃあ、どうしてここに連れてこられたのだろうか。どうしてカイはここまで紅を連れてきたのだろうか。そんなことを思っていると、それを見抜いたのか、隣に並んだカイが言った。
「僕ら、定期的にここに集まるんです。ショウゴは育ちざかりだから、きちんと栄養のあるものを食べさせなきゃなりませんしね」
カイの『僕ら』という言葉に、まだ誰かいるのかと、紅は些かうんざりしながら思った。
「それに汚い。今日は仕事が休みでしたから、早目にここに来てみれば、案の定の汚さですよ。僕の三大大嫌いのもうひとつは散らかった部屋なんです」
なんて家庭的な男なんだろうと、紅は疲れた心持で思った。それに、おせっかいを焼くのが好きを付け足しておけ。紅は心の中で思った。しかし、それで霄悟が神仏関係のサブマシンを持っていたわけだ。霄悟はここの息子か何かなのだろう。しかし、カイの言いぶりでは、霄悟の世話を焼く人物がいないように聞こえる。
「ああ、あそこが僧坊です」
奥にある建物を指さして、カイが言った。そこの縁側で霄悟と、それに男が二人何か雑誌を眺めている。
「シズカ、サナル。お客様ですよ」
男二人にカイが声をかけた。二人の男は顔を上げて、びっくりしたような顔になる。
「え、まじ?」
黒髪で短髪の男が言った。その横の茶髪で色白の男も黙って紅を見ていたが―その男は雑誌のモデルのように整った顔の美形だった―、「よく見ろ」と紅のほうを指さして言った。
「胸が足りない」
茶髪の男の言い草に思わず固まった紅の横を、カイはすばやく近づいていって、男二人の頭の上に持っていた買い物袋をそれぞれ落とした。
「お客様に失礼でしょう」
「だ、だって、お前、これ見てみろよ」
黒髪のほうの男が、頭を押さえながら、見ていた雑誌を指さして言う。
「そっくりなんだって。このアサミってグラドルに」
カイは男の言葉に、雑誌を覗きこんで、それから紅を見た。何度か目を往復させて、「まあ、似てないこともないですね」と言った。なんて失礼なやつらだと、紅は思った。
「紅さん。これは僕の幼馴染の篠崎紗仍です」
短髪で黒髪の男を指さして、カイが言う。同時にカイのマシンから名前の情報が送られてきた。紗仍と呼ばれた男がにやっと笑って「どーも」と声を上げる。
「で、こっちがこの善如寺の住職の善如寺玄です」
茶髪の男のほうを指さして、カイは言った。また同時に名前の情報が送られてくる。玄と呼ばれた男は黙って煙草を吹かしていた。
「……京田紅」
紅はそれだけ呟いて、マシンの情報を送った。「お前が『京田』の秘蔵っ子か」 この国の神仏関係者に自分の情報が渡っていることはわかり切っていたので、紅は「それが何か?」と住職の男に返した。
「それに『秘蔵っ子』って言い方、やめてもらえませんか。不愉快です」
紅がはっきりと言い切ると、玄と紹介された男はくつくつと笑いを零した。「で」 カイのほうを見る。
「京田の『秘蔵っ子』はどうしてここにいるんだ?」
こいつ性格悪いと、紅は思った。わざとやってやがる。「彼女がインスタント食品を買おうとしていたところに行きあたりまして」 カイが静かに言うと、紗仍が笑いだした。
「紅ちゃん、災難だったな。こいつのインスタント嫌いのせいでこんなところまで連れてこられて」
「本当です」
むっとした顔のままいうと、紗仍は堪え切れないというように肩を震わせている。
「でも、まあ」
紗仍は笑いの間に言った。
「カイの料理は美味いから、それだけ僥倖と思ったら?」
その言葉に紅はますます顔を顰めた。
「できないわけじゃないんですね」
言われたようにニンジンの皮を剥いて半月切りにしている紅に、カイは笑いながら言った。
「実家では、自炊しろ自炊しろって煩く言われてたから」
ぶすっとしたままで紅は言った。こっちに来たら楽ができると思ったのに、結局自炊なんて無駄極まりないものをやっている。インスタントならレンジで数分なのに。
「僕はね、紅さん」
ざっざっざと見事な包丁捌きで玉ねぎをスライスしている。
「鍵っ子っていうんですか? ああいう環境で育ったんです。父も母も忙しくて、ずっと一人で食事を温めて食べていました。だから、みんなで食べる食事は楽しいと思うし、作られたばかりの食事は美味しいと思うんです」
「そうですか」
紅は無感動に返事して、トマトを取って半分に割った。一体何品目作るつもりなのか、この野菜やら肉やら魚やらの量はなんだ。他の男性陣には、キッチンに立ち入り禁止令が出ているらしく、向こうでテレビの音がする。主に見ているのは霄悟のようで、紗仍と玄はそれを見つつ、先にできたツマミを肴にさっさと酒を開けている。いい御身分だと紅はそれを睥睨した。
カイがスライスし終えた玉ねぎをざるに開け、ボウルに水を溜めて辛みを抜く。紅がトマトを角切りにしている間に、カイはカツオを炙り、均一に切っていく。スライスされた玉ねぎの味を見ると、まだ少し辛かったものの、嫌がらせ代わりにそれで良しとした。水気を切り、カイが並べたカツオの叩の上に散らばせ、トマトも同じようにする。ざっくり切ったスプラウトを乗せ、カイは作っておいたらしいタレを上からかけた。
「ショウゴ、取りに来てください」
「ほーい!」
霄悟がすっ飛んでくる。霄悟は皿を見て、うへえと顔を顰めた。
「俺、カイワレ嫌いって言ったじゃん!」
「好き嫌いしてると大きくなれませんよ」
「だって、カイワレって草だぜ?」
「レタスもキャベツも大根もニンジンも草です」
カイは母親のように言うと、霄悟を宥めてその皿を持って行かせた。「お! カツオか。いいねえ!」 向こうで紗仍が声を上げたのが聞こえる。
「カイさんは塾の講師じゃなくて、保育士とかのほうが性に会うんじゃないですか」
茄子を切りながら紅がいうと、カイは「そうですねえ」とフライパンでごま油と生姜とニンニクと小口ねぎを弱火で熱しながら言った。香りが立ったところでひと掬い、豆板醤を入れる。じゃあっと油が弾ける音がした。
「子どもは無邪気でいいですよね」
「それ、私と霄悟も入ってます?」
ひき肉を炒めているカイに切った茄子を渡しながら紅が聞くと、カイはにっこりと笑った。
結局何品目作ったのかよくわからなかったが、カイと紅も調理を終えて居間に戻った。「紅さんがいてくださったから、助かりました」 カイがにこにこと笑って言う。紅は「別に……」と言葉尻を濁した。居間では折角作った料理はいいように食べ散らかされており、主に食べているのは霄悟のようで、紗仍と玄の周りにはビールの缶が転がっている。
「おら、カイ、お前も飲め」
散らばっている缶の量の割に正気を保っているらしい紗仍がカイにビール缶を渡した。「紅ちゃんもどーぞ」 そう言って、缶をひとつ渡される。
「紗仍」
カイが咎めるような口調で言った。
「彼女もショウゴも学生なんですから」
「だってこのガキ、食い気ばっかりで飲みたがらねえから面白くねえし」
「だからって」
その会話を横に、紅はぷしっと冷たいビール缶を開けてそれを喉に流し込んだ。「おおー」 紗仍が声を上げて、カイは頭を押さえている。
「実家じゃ、監視が厳しくて飲めませんでしたから。好きですよ、ビールも焼酎もワインもなんでもいけますよ。じゃないと幹部会議と称した飲み会で潰されますからね」
紅が言いきると、玄がくくっと笑った。
「そりゃあ、豪気なこって」
紅はふんと鼻を鳴らした。
それから何時間飲んでいたのか覚えていないが、雰囲気に煽られてちゃんぽんをやらかした覚えまではある。気付くと紅は和室で布団の中に寝かされていた。制服のままだ。あーあと思いながら、昨日のことを思い出す。あんなに馬鹿騒ぎをしたのは、初めてかもしれない。紅が酒に強いことに気が付いたカイはもう放っておくことにしたらしく、食べ物が減るにつれて霄悟も飲みだした。カイと紅が作ったツマミがなくなってきたとわかれば、どこからかイカサキやらチータラが出てきて、なんだこのおっさんの飲み会はと思いながら焼酎をロックで飲んでいた。真っ先に潰れたのは霄悟であり、それくらいからカイは飲酒量にセーブをかけ、紅もいい加減にしようと思ったのだが、その後の記憶がない。不覚である。
布団から起き上がって、軽く叩く。セーラーの制服は皺になってしまっているので、登校する前に一度アパートに戻らないといけないだろう。布団はどうすればいいかわからなかったので、そのままにした。ぎしぎしと軋む廊下を歩いて、記憶を辿りながら居間まで起きていくと、居間でテレビのニュースを見つつ、新聞を読みつつ、煙草を吸いつつ、コーヒーを飲んでいたらしい玄と目があった。
「お、はよう……ございます」
紅がなんとかそれだけ言うと、玄は「ああ」と興味なさげに目を逸らした。キッチンからは味噌汁の匂いがする。そちらに行くと、やはりカイが朝食を作っているようだった。
「おはようございます」
紅が声をかけると、カイが振り向いて「ああ、おはようございます」と返す。歯磨きがしたいと紅がいうと、新品の歯ブラシを出してきてくれて、洗面所の場所を教えてくれた。
「シャワーも浴びていきますか?」
昨日からべたついていた体が気になったものの、男ばかりの状況でシャワーを借りるのもどうかと思っていると、居間から玄が「ガキに欲情するほど女に困ってねえよ」と言ったので、半ば意地でその申し出を受け取った。カイは苦笑して、その間に制服にアイロンをかけておいてくれるという。紅はそれにも甘えて、恐らく霄悟のものであろうシャツと綿パンを借りて、シャワーを浴びた。やはり、老朽化している。ところどころに染みついたカビを見て思った。幾らカイが綺麗好きでも、手の行き届かないところはあるだろう。むしろ、男所帯の大騒ぎをする場所が掃除されていることのほうが驚きだ。カイさんさまさまだなと紅は思い、浴室を出た。下着はそのまま付けて、髪を拭きつつ居間に戻ると、居間には玄しかいなかった。この人、苦手なんだけどな。紅は思いつつ、「ねえ」と玄に声をかけた。まだ煙草を吸っていた玄は、「あ?」と紅を見る。
「ドライヤー。あったら借りたいんですが」
紅がいうと、玄は「ちっ」と舌打ちして煙草をもみ消し、部屋を出ていった。すぐに戻ってくる。
「おら」
随分古い型のドライヤーを渡される。「コンセントはどこのを使えばいいの」と紅が聞けば、玄は無言でテレビ横のコードを示した。ここで使っていいということなのだろうか。テレビが付いているのに、構わないんだろうか。紅は思ったが、玄が何も言わないので、紅はコンセントを差し、ドライヤーの風を当てた。粗方乾かし終えて、持ち歩いているポーチから櫛を出して梳く。ついでに、乾燥防止用のスプレータイプの化粧水も噴霧しておく。「得だな」 ふと玄が言った。
「若い女ってのは、得だな。そんだけの身支度で済んじまう。年を取れば取るほど、身支度に時間がかかって仕方ねえ」
「そういうものなの?」
「俺の経験からすればだ。ホテルに行けば、でかい化粧鞄出してきて、三十分は化粧に費やしてやがる」
「帰ればいいじゃん」
化粧鞄という古臭い言い方に多少引っかかったものの、スルーして紅は無感動に言った。ていうか、これ、コウコウセイにしていいハナシ?
「帰るさ」
「そ」
紅は素っ気なく返事して、まだ付いていたテレビに目を向けた。テレビを見たまま、本家のマシンにアクセスした。新規のメールに目を通し、いらないものは削除していく。明らかにメモリの無駄遣いだと思えるダイレクトメールの類や迷惑メールはマシンを管理している洸が削除するものの、曖昧なものは紅が自分で目を通すしかない。分家からの見合いのメールなどがいい例だ。男の顔さえ見ず、紅はそのメールを削除した。
その後、洸と簡単なミーティングを行った。『お友達もできて、自炊もしたようでなによりです』 そう言った洸に「しね」と返してから、紅は本家のマシンから手を引いた。
そのすぐ後に、カイが制服を持ってきてくれたので、礼を言って、和室に戻ってそれに着替える。もう一度居間に戻ると、食卓には朝食が並んでいた。
「紅さんは二日酔いは?」
「全くしません」
「それは結構」
カイは笑っていい、隣の部屋のふすまを開けた。見れば、布団も引かずに紗仍と霄悟が転がっている。
「二人とも、起きなさい。朝です」
カイの厳しい声に、霄悟がふらふらと起き上がり、紗仍もその後から立ちあがる。
「だめ、カイ、俺マジ駄目。味噌汁がきつい」
「飲んだのはあなたでしょう。ショウゴは顔を洗ってきなさい」
カイはきっぱりと言いきると、紅に座るように勧めた。顔を洗って戻ってきた霄悟はまだ寝ぼけ眼なものの、気持ち悪がっている様子はない。大体、彼は真っ先に潰れたのだから、飲酒量はそんなに多くなかったはずだ。紗仍と玄はカイと紅が料理をしていた間から飲んでいたので、こういう結果になっても仕方ない。むしろけろっとしている玄のほうが怖い。
紗仍がカイにおっ立てられて顔を洗いに行ったあと、ふらふらと戻ってきた彼を無理矢理座らせて、朝食を食べた。昨日も思ったが、こんな大勢で食事をするのは、しかも仕事が絡んでいないのは、いつぶりだろうか。『手料理』の朝ご飯なんて、母親が入院してから、一度も食べていない。そう思っていると、ぽろっと目から涙がこぼれた。
「どうかした?」
霄悟が真っ先に気付いて、紅に問いかける。「なんでもない」 紅は慌てて涙を拭って、ご飯で口を塞いだ。他の三人は見ない振りをしてくれたらしい。こんなのでも『大人』なんだなと紅は思った。
食事を終えて、一番先にこの家を出るのは霄悟と紅だったらしい。カイが玄関まで見送りに来てくれた。
「じゃあ、二人とも、いってらっしゃい」
「行ってきます!」と霄悟は元気に言い、紅も俯きながら「……行ってきます」と答えた。こんな風に見送られるなんて。紅が思っていると、カイが「また一緒に食事しましょうね」とまるで家主のように言った。