05:それでいい。
『好意を持ってもらうには、相手に興味を持ちなさい』
酔っぱらいながらも、真由姉は強いまなざしでそう言った。
『相手――この場合は北条香織ね――に好かれるには、まずあんたが北条香織という一人間に強い興味を持ち、知りたいと思うこと。北条香織という一個人をすべて知り尽くしたいと思うほどに』
本当に酔っているのかと疑いたくなる瞳と口調で真由姉が言う。だが、それは不可能だ。人が他人を完全に知ることなんて無理の極み。俺だって、俺自身のことをすべて把握しているわけじゃない。第一、一番親しいはずの親だって、俺が碧涼高校を辞めたことについて理解しなかった。俺をなじり、罵倒し、ついには見捨てた。一番親しく無条件で愛をくれるはずの相手すら、俺という存在を知ってはいなかったのだ。くれなかったのだ。だから、それこそそれ以上の他人がわかるはずがない。俺も知れるはずがない。ましてや北条香織とは今日初めて言葉を交わした存在だ。わかるはずがねえ。
そう言うと真由姉は大きく頷いた。
『んなことは重々承知の上よ。他人が自分を理解できるなんてどうあっても不可能。一マイクロの可能性もないわ。だから、それを理解しようとすることに価値があるのよ』
真由姉が続ける。
『人って言う生き物はね、自分を知ってくれる人間を欲しているのよ。辛い時、悲しい時、どうしようもない時に手を差し伸べてくれる存在を。自分が好きなものを、なにも言わずに覚えてくてる存在を。嬉しいものを、無条件で与えてくれる存在を』
真由姉が俺の胸をとんと殴る。
『あんたは、北条香織にとってのそんな存在になりなさい』
――それがきっと、許された数少ない救いよ。
救いとは何なのか?俺には微塵も理解できない。『救い』とは何を指す?北条香織にとっての救いか?だとしたら俺には無理だ。俺は誰も救いはしない。俺にとっての最高にハイになるシナリオを、望むがままに突き進むだけだ。そこに他人は関係ない。俺は俺のためだけに、ただそれだけのためにこの生を生き死ぬだけだ。今回の北条香織の件はただそれに合致しただけ。すべては俺だけのために、俺はただ北条香織を欲しているだけだ。綺麗ごとなんて微塵も言うつもりはねえ。俺は心底おもしれえと思った北条香織を手に入れる。ただそれだけだ。
だが。
その手段になるのなら、真由姉のアドバイスも利用してやるのも悪くない。そう思った。
◆
俺はあくびをかみ殺しながら、駅から学校までの通学路を歩く。結局あの後午前三時過ぎまで飲んでいた。流石に眠い。それでも真由姉は学生の俺よりも先に起きて、俺が目覚める前には学校へバイクを走らせていた。なんだかんだと社会人はすげえと思う。
かくいう俺も遅刻しないように起き上がり、準備し、家の最寄駅から電車に乗って通学している。社会人と学生とは生活サイクルが違うため、俺はもう真由姉のバイクに乗っての通学はしていない。あんな朝早く起きて学校行くのもバカらしいしな。
チャイムの鳴る二十分前に余裕を持って教室のドアをくぐる。教室にはそこそこの人間がいて、その中には北条香織の姿もあった。
北条はあいもかわらず一人で机に座り勉強をしていた。周りにはあからさまに人がいない。大地に深く根差した大木のように、そして台風の目のように悠然とそこに存在していた。
俺は北条の傍にまで歩み寄り、北条の前の席の椅子を掴み北条の正面に座る。北条は俺の方をちらりと見てそのまま勉強に戻った。清々しいまでの無関心ぶりに、俺はにやりと笑う。
そのまま数十秒綺麗な北条の顔を眺める。そんな俺を無視して北条はただペンを走らせ続けた。
とそのペンが止まり、艶やかな仕草でアゴに手を当て思考を巡らせ始める。そのまま一分近く考え出したので、俺は机を覗き込む。
ほう、微分積分か。まだここまでこの高校はやってなかったはずなんだがな。このまま顔を眺めているのもいいが、ちょっと助けてやるか。真由姉のアドバイスもあるしな。
「ほら、これだ。これをなんとかしてみろ」
北条が途中まで書いていた式よりも少し前の式をトントンと叩く。
「ここが違う。考え方は間違えてねえから、もう一度考えてみろ」
いちいち全部説明するのがだるくて、そんなざっくばらんな指摘をしてやる。北条はそんな俺をちらりと見て、俺が指さしたところから式を解き直し始める。多少の試行錯誤の後、北条は自力で答えを導き出す。
その後も数分の間にそんなやり取りをする。その間、俺たちの間に特に会話はなかった。北条は淡々と勉強をし、俺も淡々と指摘してやる。そんな時間を経て、朝礼のチャイムが鳴る。俺が席を立つ。
「とんだバカがいたものと思ったけど」そんな俺を流し目で見やりながら、初めて北条が口を開いた。「碧涼高校に行ってただけあって勉強はできるのね。少し見直したわ」
「そりゃどうも。なんならこれからも教えてやるぜ」
「結構よ。あんたはただのクライアントで、ただそれだけだもの」
言い終わるか終わらないかの間に北条は勉強に戻ってしまっていた。鼻で小さく笑う。
それでいい。俺がおもしれえと思った北条香織という女は、大木であり台風の目なのだから。
門脇が教室にやって来て、係りが号令をかけた。
長らくお待たせしてしまって申し訳ありません。
一応連載再開ですが、まだリアルがごたごたしているので更新は遅めです。
ご容赦ください。