009 逃げる
駄目だ、息がもたない、心臓が胸の皮を突き破って壊れそう。
全力で走ったのは何年ぶりだろうか。いや、全力で走ったことなどないではないか。いつも木の陰がある場所に座って皆が苦しそうに楽しそうに走っているのをただただ見ていただけだった。その罰が今当たったのだ。
とりあえず後方からの足音が聞こえないため近くの恐ろしく仰仰しい扉を押し、誰もいないことを確かめ中に入った。
まだ心臓の拍動は不規則で、見えないがきっと顔も唇も真っ青であろう。
足が震え、筋肉が強張り悲鳴を上げている。どんな場所でもいい、今直ぐに倒れたい。
「っつ・・はあぁ、死に、そう」
でもまだ死ぬわけにはいかない。兄に一発報いなければ、死んでも死にきれない。
息を深く吐くことで、なんとか呼吸を整えて中を見渡した。
どうやら教会のようだ。日光が薄いガラスを通して降り注いでいて大理石に反射されている。その光がまた違う場所に当たり、また光を生みだす。それが教会の中全体に広がるので教会は神秘的な雰囲気を醸し出していて心までも荘厳となる。
まるでここだけが違う空間のように感じられる。
―――奇麗、だ。
幻想的な情景に、ただ綺麗の一言しか出ず、今の状況も忘れ魅入っていた。蛍子を覆う無数の光が自分もこの世界の仲間だとでも言うように勘違いさせる。神の領域を侵してしまったかのように感じ畏怖さえも感じた。
だが、その時間を壊す音が聞こえた。不意に後ろの扉が開く音がしたのだ。
「っつ、誰!?」
蛍子の叱責に少し驚いた顔をして、ドアから顔を出したのは綺麗な金髪をした少年だった。瞳も金色で教会内の光が当たって、金色は輝き、幼いながらの美貌を際立たせる。天使? こんな状況を忘れ馬鹿な疑問を抱いたが我に返り警戒心を滲ませる。まだ甘く幼い顔立ちが残る子供に怒鳴ってしまった罪悪感が芽生えた。しかし自分の本来の目的を思い出し、早く逃げようと辺りを見回したが出口がない。唯一の出口には、その少年がいる。
正に絶対絶命。まだ整えきっていない呼吸がさらに乱れ出し心臓が悲鳴を上げている。
しかし、こちらの焦燥を感じとることなく、少年はにこやかに話しかける。
「君、黒の?」
「く、黒?」
「黒の騎士団の隊員でしょ。でもそんな綺麗な黒髪は見たことないな。もしかして新人?」
そうか、と何かを納得したように頷きながら蛍子の頭を見た。
「ん、何したの? 君、追跡呪文がかかってるよ」
「追跡呪文?」
もしかして頭をアカシアという男に撫でられた時に何かされたのか、けれど何の感じもしなかったと思う。
「もしかして逃げてたり?」
ぎくりとした。まあ当然だろう、奇天烈な服を着た女、しかも息を乱している。どこから見ても不審だろう。彼も自分を捕まえるのか。だがもう逃げられないと分かっている。心臓が針で刺されているように痛いし、何年も運動していない足はがくがくしていて、もう一歩も動けない。
「だったら何? 捕まえるって言うの?」
可愛らしい少年に余裕があると思わせ虚勢を張ってみた。その隙に目は忙しなく動かして逃走経路を確保する。この少年を突き飛ばして逃げる他は無いようだ。
自分よりも歳が低い子を睨むのは胸が痛んだが、自分の生死を唱えられている今、なり振り構っていられない。
「逃がしてあげようか?」
「えっ?」
唐突なその言葉に心踊ろかせたが怪しげに見つめる。
彼が私を逃がして何の得がある? いや得など無い、得がないことをするものか。
蛍子の冬のような凍てつく視線と彼の温かな金色の瞳と視線が合わさった。
少年の思惑を計ろうとしたが扉の後ろから鎧がぶつかり合う音がした。
まさか、そう思うが確実に音は大きくなり、こちらに迷いなく近づいている。
「どうすれば・・」
「こっち」
少年が音に気を取られていた蛍子の腕をとり部屋の隅へと向かう。
「なっ・・」
蛍子の抗議も虚しく彼は壁に掛けてある太陽と天使が描かれている珍妙な絵画はずした。
がちゃん、何か機械的な物が開く音がする。
「この絵を外して、絵の後ろの壁を3回叩く。そして元の位置に絵を戻す」
そうすると絵画が掛っていた部屋の角の床に人一人分がやっと通れるような隙間が出来た。
それは階段になっているが、先は真っ暗で何も見えない。
「これは!」
「隠し通路だよ。いいかい? この階段をまっすぐ降りる。そうすると3つの道がある、右と真ん中、そして左だ。まず左の道を行く、そして壁に沿って歩いて4つ目の角を右に。次に2つ目の角を左、また2つ目の角を左だ。そうすると大きく広がった道に出る。そこに7つの道がある、左から3番目と4番目、一番右は止めておいた方がいいよ。それ以外なら外に出られる」
さあ行って、彼は蛍子の頭に手を乗せ優しく微笑んだ。
自分よりも幼い10位の歳のくせに大人びた少年に驚きを隠せない。
「な、何で」
「うーん、慈善活動中だからかな?」
彼の瞳を見ると嘘はついていないと思う。だが信用していいのか、先ほどのアカシアとのやりとりが思い出される。
不安が出ていたのを読み取ったのか彼は苦笑しながら蛍子の頭に手を置いた。
「多分、少しの償い」
「償い?」
「そっ、さぁ早く行って。彼らが来るよ、追跡呪文は消しておいたから大丈夫だよ」
「でも、君が」
「僕は大丈夫、何とかなるよ」
本当だろうか、優しげな子供にあの兵隊たちに勝てるのだろうか。そんな細い腕で、そんな小さな身体で。
だが時間が無い。足音がだんだん大きくなっている。
「ありがとう。私は椎名蛍子、あなたは?」
「オリンだよ」
オリン、心の中にその名を刻む。
もう一度ありがとうと言って暗闇の中に身を躍らせた。