010 小鹿
―――急に視界が開けた。
暗闇だけだった世界から一気に光が見えたために外に出た瞬間、目が眩んだ。
目を閉じて視界を遮り、そして緩慢な動きで瞼を押しのける。漸く慣れた目で辺りを見ると目前に広がるのは一面の緑。深い色をした森が広がっている。
道という道が無い事実に気づいて途方に暮れる。この道を選んだのは間違いだったのかな、オリンの顔を思い浮かべて心の内で尋ねてみるが答えをくれる人などいない。王宮を出られたのは良い、しかしこの雲の上にいるというここからどうやって地上に降りればいいのか、太陽に会うにはどうすればいいのか。
蛍子は辺りをうろうろと徘徊した。そして腰を屈めると低い木の茂みに獣道があるのが分かった。小さくて蛍子が小さく身体を丸めて通ることができる幅しかない。
「道も分からないし、行ってみる価値はあるよね」
先ほどよりは幾分落ち着いた心臓の上に胸を当てながら深い呼吸をして額の汗をぬぐった。
** * * * *
何分か歩くと獣道は清涼な水が流れている幅員が狭い川に辿り着いた。
「水だ!」
ちゃんとした水を飲むのは久しぶりで、手で冷たい透明な水をすくって一気に飲んだ。
生き返る、せき込みながらも何度も掬って飲む。冷たい水が胃に入っていき全体に広がって行くのが分かった。
「これから、どうしよう」
口元を手で拭って立ち上がった。
川に沿って歩いていけば人に会えるはず、だけどそれも有翼人だろう。ここに翼の生えていない人間なんていない。助けてくれる人は周りに誰一人としていない。
「兄さん」
この世界に一人しかいない身内の名前を無意識に呟く。
日本にいた時は友達から頼られていた事が多かったのに一人になるとこんなにもネガティブになってしまうのか、なんだが自分がひどく脆弱な存在になった気がした。
「私は強い、そうよね」
自分に言い聞かせるように両手に力を入れた。
拳を作って空に向かって付き上げた途端に背後の茂みが揺れた。
「だ、誰?」
決意がいきなり打ち砕かれそうだ、だが勇気を振り絞って身構える。
しかし杞憂だった。
茂みから顔をだしたのは黒い可愛い瞳をした小鹿だった。しかも後ろ脚にひどい怪我を負っている。
「なんだ、君か」
安堵して鹿を手で招いた。
始めは警戒していたが尚も招く蛍子に警戒心を解いて恐る恐る近づいてきた。
「いい子だね」
つぶらな瞳が涙で潤んでいる。
蛍子は動物の温かさに少しだけ癒された。蛍子は小鹿と同じ高さに屈んで顔を撫でてあげると小鹿は気持ちよさそうに鳴いた。
「あ、怪我してるんだったね」
大丈夫、何もしないからと言い続けながら、そっと後ろ脚を持ち上げた。
ポケットに入っていたハンカチを脚に取れないように、しっかりと巻いてあげた。
「これでいいかな。ふう、これが昔話だったら君は私に何か宝をくれるんだけどね。そんなものはいらないから誰か人がいるところに連れて行ってくれない? 贅沢をいうなら無条件に私を匿ってくれるところがいいのだけど」
魔法みたいな奇跡に苦笑と自嘲をしながら背中を撫でた。いやはや欲が強すぎる。ただ小鹿には側にいてくれるだけで安心するのに、これ以上の欲を言ってしまうなんて。
だが小鹿が蛍子の服の裾を引っ張りだした。
「え、何どこに行くの?」
後脚をひょこひょこさせながらも蛍子をどこかに連れて行こうと一生懸命引っ張った。