001 プロローグ(1)
周りは錆ついた血の匂い、そして地が慟哭し、轟足から来る地響きと悪魔を見たような悲鳴、瞋恚の炎を瞳に宿す人々。現実離れした世界に何でこんな所にいるのだろうと自分の存在意義を見出しながら目は自分と似たような人物を血眼になって探す。黒い髪に意志の強そうな浅黒い肌、自分とは違って筋肉質な身体の持ち主を。
けれども、いくら目を凝らしてみても周りは土煙りと赤黒い血ばかり。
周りは自分のような小さな存在に目を向けることなく目の前の敵と斬り合っているので易々と、その間を切り抜けながら階段を上る。
途中でぶつかって来る人もいて巻き込まれて倒れてしまったが、そこから抜け出し我武者羅に足を動かして叫ぶ。
その声もこんな喧騒の中では聞こえないが、只ひたすら名前を呼ぶ。
身体中が悲鳴を上げ、身体が軋み始めた時、漸く階段を上りきって塔の頂きに着くと求めていた人物の姿が目に入った。
** * * * * *
最近、冷たさが肌に突き刺さる冬のような寒さが続く秋が始まり、色づいた葉はまだ秋が始まったというばかりなのに、名残惜しく葉を落としていて朝も静謐とした寒さが窓の隙間から入り込んでくる。その寒さと薄暗い朝日を受けて椎名蛍子は自然と目を覚まし、身体を起こす。身体がふらつくこともなかったため今日は気分が良く、何か良いことが起こると思っていた。まさかその期待がものの数時間で打ち砕かれると知っていたら家を飛び出していただろう。
――――おい俺、異世界に行ってきたんだ。なんか、古いオルゴールを友達に貰ってさ、あ、それは何故か俺にしか回せなくて、それがピカーって光ったら、いつの間にか異世界にいたんだ。そんでな、俺、剣も使えたんだけど魔法使えたらしくて、いや、あの魔法だぜ? 手から火とか雷とか出しちゃうやつ。そんでそんで今、俺戦ってんだ、てか俺すごくね。
早朝と呼べる朝の8時過ぎ、いきなり一人暮らしをしている兄が何の連絡もせずに帰省してきたと思ったら帰ってきた途端、矢次に話し始めた。
土曜の朝とあって共働きの両親は先程起きた。寝起きというのに関わらず、蛍子の兄、椎名太陽の朝にしてはテンションが高い、声も大きい、しかも奇天烈な話を聞いて2人は眼を大きく見開いていた。
平日の疲れのせいか、眼が血走っている。間近で見るのは恐ろしいと蛍子は思ったが兄の予測不可能な行動は今に始まったことでは無いので、蛍子は黙って自分は関係が無いとばかりにコーヒーを飲みながらパンを咀嚼している。
「そんでな、国王のフレゼリクの右腕として働いてんだ。あぁ、そうそう軍の司令官に毎日稽古つけてもらってて、すっげー楽しいんだ。そいつさ超強いんだぜ、やばくね」
お前の言葉の方がやばくね? 太陽の支離滅裂な話を聞いて蛍子は思ったが自分だけでなく、両親も呆れ返っているのが分かる。
夢でも見たの、学校辛いのか、様々な言葉が頭を過ったが、とうとう頭がいかれた、の結論を3人で目を合わせ、意見が一致した。そしてまだ9時だというのに両親は普段2人で行きやしない買い物にそそくさと出かけて行った。しっかりと蛍子に置手紙ならぬ置言葉「久しぶりにお兄ちゃんが帰って来たんだから、いっぱい話してなさい」と言って出かけてしまった。
もちろん蛍子は普段は嫌な荷物持ちとしてついて行こうとした。だが「蛍子の好きなモンブランケーキ買ってくるから」と母に言われ、泣く泣く兄の相手をしている。
別に食い意地が張っている訳では無いと弁解は一応しておく。
仕方無く、蛍子は興奮して鼻息の荒い太陽の話を聞いている。あからさまに面倒臭いという顔を張り付けているのに太陽は全く気付かない。厚顔無恥もここまでいくとは、どういった教育を受けているんだか。まぁ、育てたのは家の家族だが。
「兄さん、順を追って話そうか」
ソファに寝ころびながら雑誌から顔を上げることなく蛍子は淡々と言葉を発した。
はっきり言って興味など微塵もない。しかし、この盆暗はきっと就職活動のストレスが溜まっているのだろうと解釈する。太陽は只今、就活真っ盛りの大学4年生、だが期待を裏切ることなく就職先は未だ決まっていない。
就活が嫌になり、吐血する人、精神を病む人もいると聞く。ならばこの妄想はまだ許せる範囲だろう。これを相手にするのは少々、いやかなり面倒だが。
「だから、異世界に行ってきたんだって」
「それは、もう聞いた。私が言ってるのはどうして異世界に行けたのかってことなんだけど」
太陽はいつも厄介事を運んでくるトラブルメーカーだ。太陽が笑って過ごせることは蛍子にとっては悲鳴物だ。例えば道端にいたヒキガエルをペットにしようと言ったり、学が無いのに学校で生徒会長をやったりして同じ中学校に入った時は兄の学校のトップに立つ人間には見えない行動をして先生によく「太陽は蛍子の兄なのだから注意してくれ」や奇抜な行動から名前も知らない他クラスの人にまで「あんたの兄さん面白いね」と酷く恥ずかしい思いをした。極めつけとしては、中学校の時の渾名は「あの生徒会長の妹」だ。「あの生徒会長の妹」として3年間それで過ごした。太陽が卒業したにも関わらず、だ。だが太陽は他人と違うことは自分で自覚は無く、更に手に負えない。
そんな太陽が異世界に行ってきたと言っても納得してしまいそうな自分がいた。
そして質問から待つこと5分、兄の口は開いたり閉じたりするものの、そこから言葉は発せられなかった。
「やっぱり壮大な夢物語? 夢は寝ている時に見るものよ」
「違う! 本当なんだって。見てみろよ、この腹の傷。まじな真剣で切られたんだっての」
服をまくりあげると小麦色の肌と引き締まった腹筋が見え、脇腹から臍の下まで何かで斬られたような、はっきりとした黒い線が見えた。
余りの痛々しさに思わず眉を顰めたが、脳裏でまじな真剣ってなんだろう、と本気で思った。
傷は浅いが荒い糸の通し方である。まず普通の病院ではこのぐらいの傷ならばもっと綺麗な接合ができるだろう。糸目があちらこちらへと向いており、引き締まった筋肉とはつり合わない雰囲気を醸し出していた。
確かに以前はこんな傷など無かった。だって頑丈、健康が取り柄の太陽だ。違う県の大学に行き、随分と会っていなかったが前とは違った凛々しい顔をしていて大人びた事には気付いたが異世界と言われても何とも言えない。異世界なんて所詮は戯言、そんな固定観念があるせいか中々信じることができないが、この傷を見て少し揺れ動く。
「自分で縫ったの? 素人にも程があるわね」
「無理だっての。剣を受けちまって、化膿しちゃまずいからって友達が縫ってくれたんだよ」
「友達は慎重に選ぶべきよ」
内面では心配しているのにそれを覆い隠して辛辣に言い返す。命に関わらない傷で良かったと安心するが天の邪鬼な蛍子は顔に出さない。
「なあ、俺が異世界に行ってきたのって信じてる?」
いつもより真面目な声を出すので、その言葉に反応するように顔を太陽に向けた。蛍子には強すぎる黒色の瞳と視線が絡み合う。
真摯な瞳に瞳を撃たれ、息が止まる。蛍子は逸らすことなく太陽の目を見つめ返す。笑顔ではなく何かを強く強く訴える顔、太陽の黒い瞳は蛍子の驚いた顔を映し出していた。
――――あぁ、本当なんだ。
兄の瞳をみて確信する。いつもは不真面目な太陽が時折見せる真剣な顔、この表情をしている時はいつも正しい。
昔からそれに助けられていたのを思い出す。
しかし兄と久しぶりに向き合っている恥ずかしさもあってすぐに顔を雑誌にもどした。
「8割だけ」
「あとの2割はどうなってますの」
太陽が信じてくれた蛍子に、にやりと笑い女口調で尋ねる。
とうとう白痴の者にでもなったか、このオカマと言いそうになったが胸中に留めておくことにした。
それを誤魔化すように咳払いをして話を元の方向に正した。
「あのね、もし何にも取り柄が無い一般人が異世界行ってきたって言ったら即あんた頭腐ってんじゃない、精神科行ってきたほうがいいよ、でしょ」
さりげなく、いや、さりげなさの欠片も無く酷いことを言っているのだが太陽は全く気付いていなかった。それどころかふむふむと頷いている。
「どうして、兄さんは異世界とやらに行けたの。なんか重大な使命でも担ってたの?」
「うーん、使命って言うのか、そうしなきゃいけないって言うか」
どうにも歯切れが悪い。
「異世界で何をしているの」
「有翼人と戦っているんだ」
その瞬間、盛大に口を開けてしまい、太陽に拳を入れられそうになったので、口をすぐさま閉じて太陽の耳を掴んで伸びるところまで伸ばして差し上げた。
太陽曰く、
太陽がいる世界では地上に住む人間と空の上に住んでいる有翼人がいる。
有翼人とはヒトであって人間ではない存在だ。彼らには人間には決して持ちえない翼が背から生えている。
この両者は遥か昔から争ってきていた。だが、空を自由に飛び回り魔法をも使える有翼人に人間は幾度も敗北を味わってきた。
その上、有翼人は雲の上に住んでいる。天を覆う雲はあらゆる生物の命の源といえる太陽を隠し、地上の作物を育たなくさせている。穀物は腐り果て、家畜達も次々に病気にかかる。何も口に出来ない地上の人々は飢えているのだ。
そのため太陽を奪う戦いが生まれた。
有翼人の王であり彼らの太陽の象徴である女帝アイリーンと、幾人の王から成り立っている地の代表であった先帝を引き継いだフレゼリクとの早5年の戦いが続いていた。
そんな冷戦真只中に突然現れた椎名太陽は最初有翼人の仲間だと思われ、しばらく牢屋に閉じ込められていたが、ようやく誤解が解け、フレゼリクという国王の傍で活躍しているらしい。
「牢屋? 大丈夫だったの?」
視線を逸らして眉を顰めた蛍子に太陽は安心させるように蛍子の頭をぐしゃぐしゃとかき乱した。為すがままにされていた蛍子は、ぼさぼさとなった髪を手で梳かしながら心配そうに瞳を細めた。
一応、こんな言い草をしていても兄なのだ。心配は充分している。
「いや、そんな酷い扱いは受け無かったよ」
「そう、ならいいんだけど。でもなんで有翼人と思われたの?」
どう考えても太陽は翼なんぞ生えていない。生粋の日本人であり、人間だ。というか翼が生えている人間など見たことが無い。いたとしたら、まず研究対象として何処かしらの研究室に送り出されているだろう。
「地上に住む人間は瞳と髪の色が違うんだ。けど有翼人は瞳と髪の色、しかも翼の色まで同じらしい」
日本人は黒い瞳に黒髪だ、もちろん染めたりしていなければ。いや、一時期太陽は髪を染めたことがある。金髪に。どこのホストだよ、と突っ込みそうになったが。
「よく無事だったね」
未だ受け入れがたい横暴な話だと思うが、どうやら現実の話のようだ。本当によく無事だったと思う。
「本当だよな。まあ俺が魔法を使えたってのも理由だと思うけど」
へえ、お兄ちゃんってば魔法少年だったんだね、すっごい! と、もう大学生になる蛍子が思うわけもない。むしろ返すのはブリザードの如く寒波の視線だ。
「ふっ、魔法ねえ」
「そうそう、その魔法」
蛍子の鼻から空気が出た。ついでに口元の端も少しばかり上がっている。隠そうともしないのは、こんなあからさまな態度を取っても太陽が気付かないからだ。
「兄さんって魔法使いだったんだ」
「そう、だから重宝がられてすぐに牢獄から出してもらえたってわけ。まあ、そのおかげで戦闘じゃ先頭に立ってるけど、なんつって」
空気の入れ替えにと少しだけ開けていた窓から冷たい風が入ったらしい。身を凍らす空気が蛍子と太陽の間に流れた。
「じゃ、魔法出してよ。魔法って見てみたいんだけど」
先ほどの発言を綺麗に無視して蛍子が久しぶりに瞳を輝かせながら兄にズイっと寄った。
「ごめんな、異世界じゃないと魔法は使えないみたいだ」
「・・本当に魔法使いなの。嘘なんてついたってなんのお得情報もないよ」
「まじで、ちっくしょー! って、本当だから。魔法が無かったら今も『地』の人間は負けっぱなしだったからな」
役に立てることが嬉しいのか思い出し笑いをして、天井の染みを見上げている。
「というか、兄さんがお世話になってる国ってなんていう名前なの?」
太陽は蛍子をみて、白い歯をこれでもかと言わんばかりに輝かせ、にかっと笑って言った。
――――オエリフィーア大陸、と。