6、放課後の約束
「はい、どうぞ。インスタントだけど」
目の前に、湯気を上げたマグカップが置かれる。
プンとコーヒーのいい香りがする。
「あっ、砂糖もフレッシュも入れたけど、それで良かった?」
「え…そ、それでいいです…ありがとう…」
ペコンと頭を下げると、「どういたしまして」と軽い微笑が返ってくる。
男の人なのに、やっぱり綺麗な顔立ちだなぁと少し見とれてしまう。
彼の名前は大沢桐人。
そして、ここは美術科棟の1教室だったりする。
なぜこういう状況に至ったかと言うと、放課後、いつものように浩平の練習を待つ時間つぶしに図書館を訪れたら、今日は臨時閉館日だったのだ。
ため息をつきながら、練習が終わるまでの1時間半を、どこでどう時間を過ごしたらいいか途方に暮れていたら、偶然会った大沢くんに、美術室で待っていたらと声を掛けられた。
どうやら彼は美術科の生徒であるばかりか、放課後のクラブ活動でも絵を描いているらしい。
先日も橘桐人のスケッチブックにすごく興味を引かれていたようだから、よっぽど絵が好きなんだろうなぁ。
「あ、あの、他の部員の人は?」
教室には暖房が入れられていて、程良い温度に保たれているが、クラブ活動中にしては他に誰もいないことが不思議だった。
「ああ。今日はホントはクラブのない日だからね。美術部の活動日は月・水・金だから」
今日は木曜日。
「じゃあ…私のために教室開けてくれたんですか?」
「まあ、それだけじゃないけど。もうすぐ県のコンクールの締め切りだし。今回は見送ろうかとも思っていたんだけど。ちょっと描いてみたい題材も見つかって、さ」
「あ、そうなんですか」
「…早希は、クラブとか入ってないの?」
「え?」
さらりと言ってくれたけど、“早希”なんてファーストネームでいきなり呼び捨てにされたことに激しく動揺する。
大沢桐人は平然とした様子で、クスリと笑った。
「…顔、真っ赤。いけない? 名前で呼んだら。僕は君とはもっと親しくなりたいと思っているんだけど」
「…いけなくは…ないけど、…でも」
「ほら、あいつだって、君のこと呼び捨てにしてるでしょう?」
あいつって、浩平のことだよね。
「浩平とは幼なじみで、物心ついた頃から姉弟みたいな関係だし…」
「彼がそう呼んでるってことは、別に彼氏じゃなくても、名前で呼んでも良いってことだよね」
「え…?」
「早希も僕をファーストネームで呼んで。僕の名前知ってるよね?」
「き…桐人…くん」
「“くん”はいらないけど…まあ、良しとするか」
結局、押し切られてしまった。
すごく困る。浩平が知ったら、絶対気を悪くする。
「で、早希はクラブには入ってないの?」
「…私は元々帰宅部だから。浩平の足がちゃんと治るまで、登下校付き添う約束なの。だから放課後、練習が終わるまで待ってるだけ」
「ふ~ん。じゃあ、彼の足が治るまでは、放課後、暇なわけだ」
それっきり、桐人は話を打ち切って、離れた戸棚の画材なんかをチェックしだした。
『早希…遠くへ行くなよ。ずっとここにいろよ、な?』
ふと昨夜の浩平の言葉を思い出す。
あの時感じた浩平の鼓動。回された手の力強さ。
確かに自分は浩平に抱き寄せられていた。
あれはどういう意味だったのか。
今朝、いつものように浩平を迎えに行ったが、何だか変に意識して、初めは言葉も態度もぎこちなかったような気がする。
だけど、昨夜のことは嘘のように、浩平の態度はいつもと全然変わらなくて。
そのうち、私もいつものようにポンポン言葉を返していて。
ホッとした。
二人の関係が変わらなくて。壊れなくて―――。
急に待ち合わせ場所を変えたので、行き違いがあってはいけない。
浩平に居場所を知らせるメールを打つと、私も鞄から化学の教科書を出し宿題を始めた。
宿題が一段落したとき、もう窓の外の景色がオレンジの夕日に染まっているのに気づいた。
携帯を取り出し時間を確認する。
5時35分。
ちょうど浩平の練習が終わったくらいの時間だ。
私は冷めたコーヒーの残りを飲み干すと、勉強道具を鞄にしまい、帰り支度を始めた。
マグカップを教室脇に設置されたシンクでサッと洗う。
桐人は木炭を手に、真剣な表情でイーゼルに立てかけたキャンバスに向かっていた。
「…大沢くん、今日はどうもありがとう」
私は素直に礼を述べる。
「ファーストネームで呼んでって言ったじゃん。でないと話をしないから」
表情を変えず、黙々と手を動かす桐人に、苦笑いを零す。
仕方がないから「桐人くん…」と呼びかける。
「寒い中待たずにすんで助かった。コーヒーもごちそうさま。今度機会があったら、私が奢る…」
マグカップを渡そうと近づいたせいで、キャンバスの絵が目に飛び込んできた。
まだ木炭を使ったラフな絵柄だが、桐人が何を描こうとしているのかは理解できて言葉が詰まる。
「…これ、ひょっとして…私?」
キャンバスに描かれているのは、私に似た女の子の横顔だった。
悪戯を見つかった子どものような表情で、桐人がクスリと笑った。
「もう帰る時間? マグカップならそこの机の上にでも置いておいて。後で片付けるから」
「ちょ、ちょっと待って!」
「別に早希に奢ってもらおうなんて思ってないから。明日の放課後もこの教室に来てくれたら、僕はそれで良い」
「そんなの困る。酷い。無断で勝手に描いちゃうなんて!」
彼の傲慢な様子に、腹がたった。
しかし、真剣に怒る私に、桐人はまるで動じないようだった。
「だって、彼の足が治るまでは、放課後、時間があるんでしょ?」
「…時間があっても、私、絵のモデルなんて困ります」
「いつまで彼の付き添いをするの?」
「…あと、十日くらい、だと思う」
「僕は1週間で描き上げるから。それ以上は迷惑かけない。約束する」
「…でも…」
「描きかけのキャンバスを無駄にしろって言うの?」
瞳を覗き込むように懇願されて、断る言葉が思いつかない。
ああ言えば、こう言う。
人の扱いに慣れている、と思った。
どう言えば断れないのが分かっていて、断られるなんて微塵も考えていない自信満々な態度。
そして私は彼の術中にまんまと嵌ってしまう。
「ねぇ、僕を助けると思って、引き受けてよ」
「……―――わかった。だけど、1週間って約束、守ってね」
ほうっと一つ、溜息を溢して、私は了承の言葉を呟いていた。
オーケーと満足そうに微笑みながら、桐人の視線が教室のドアに向く。
「さあ、ナイトくんの登場だね。ちょっと遅かったけど―――」
ガラリとドアが開けられた。
そこには少し息を切らせて、怒ったような顔をした浩平がいた。
* * * * *
「ふ~ん…で、浩平君、今朝ご機嫌ななめだったんだ…」
翌日のお昼休み、教室で杏子とお弁当を頬張りながら、私は桐人の絵のモデルを引き受けることになった経緯を話していた。
「で、今日放課後、行くわけ? 美術室」
「うん。だって約束だもん」
「大丈夫かなぁ」
「大丈夫だって。1週間だけだし」
「……私が心配しているのは、浩平君との事だよ」
杏子が箸をピシッと私に向ける。
どうして、そこで浩平が出てくるのか。
私はムッとして、杏子に反論する。
「別に浩平は関係ないもん。浩平だって神崎さんにピアノの伴奏頼まれて引き受けてるんじゃない。私が頼まれてモデル引き受けても、何も言う資格ないと思う」
「で、それを浩平君に言ったわけね」
「…うん」
「なるほど」
杏子はちょっと考えるようにして、ミートボールを一つ頬張る。
会話が少し途切れた。
「…ひょっとして、神崎さんのこと、気にしてる?」
「え!? 別に、そんなわけないじゃん」
神崎さんが浩平に告白した場面に遭遇してから、気まずくて、できるだけ二人がいる場所には近づかないようにしている。
朝、浩平と登校しているとき、神崎さんが一緒になることもあったが、そんな時は日直だとか、友達と用事があるとか適当に理由をつけて、先に行くようにしていた。
気にしてないとは言えない。
「浩平君と早希ならお似合いだと思うんだけどなぁ。それとも大沢桐人に惹かれてるの?」
「どうしてそんな話になるかなぁ。浩平とは幼なじみ以上でもなければ、以下でもないし。桐人くんにも恋愛感情なんてないし。だいたい浩平には神崎さんを振るくらい、好きな人がいるらしいし…」
そう言うと、「それが誰だか見当付かないの?」と杏子が驚いたような顔をする。
えっ? 杏子はそれが誰だか知っているの?
私は10年以上浩平の近くにいるけど、今までそんな存在考えたこともなかったよ――。
何だか、心が痛い。
それが誰なのかすごく気になるけど、尋ねる勇気もない。
杏子がこれ以上、浩平とのことを誤解しても困るし。
「それに話を聞いている限りでは、大沢桐人ってかなり強引みたいじゃない。早希って、そういうのに免疫がないから、流されちゃうんじゃないかって心配」
じっと私を見つめる杏子の瞳が、本当に心配を映しているようで、ちょっと心が素直になる。
「ありがと…」
「それに、ね…」
杏子が明らかに言いにくそうに、ちょっと難しい顔をして言葉を続けた。
「…美術科の大沢桐人って、あのルックスで目立つでしょ? それに頭も切れるみたいで、確かに女の子の評判は高いんだけど。何かダークな噂もチラホラあるようで、さ」
「ダークな噂?」
「う~ん…未確認情報なんだけど、繁華街で良からぬ風体の奴らとつるんでいたとか。陰で何か良からぬ事をしているらしい…とか」
「え…」
「だから、気をつけて。早希、気に入られているみたいだけど、あんまり深入りしない方が良いと思う」
積極的な性格の杏子は友人も多く、情報通だ。
だけど、何度か実際に接した桐人は悪い人には見えなかった。
それどころか、浩平と比べたら、ずっと親切で紳士的に見える。
私に似ているという琴音さんに最後まで誠実で、その後を追うように亡くなったという橘桐人と共通点が多く、イメージがダブる。
そんな人が、“良からぬ事”なんかするはずかない。
まあ、杏子の情報網も多い分、正確だとは限らないわけで。
別に深入りなんてするつもりもないしね。
「明日から土・日、お休みだけど、モデルを理由に自宅に来てなんて誘われても、ホイホイついてっちゃダメなんだからね」
尚も心配そうに見つめる杏子に、私は明るく請け負った。
「大丈夫。桐人くんはそんな危ない人じゃないって。それに土・日は約束があるし」
「約束?」
「うん。朋姉にレポートの清書を手伝って欲しいって、今朝浩平を迎えに行ったら頼まれて、さ」
「朋姉って浩平君のお姉さんの?」
「うん」
朋姉こと橘朋美は浩平の5つ年上の姉で、現在大学3年生。
兄弟のいない私にとっては、幼少の頃より本当のお姉さんのような憧れの存在。
ぶっきらぼうな浩平と本当に血が繋がっているのかと疑いたくなるほど、美人で、優しくて、社交的で、頼りがいのあるお姉さん。
浩平は5つも年上のこの姉に苦手意識はあるようだが、好意を持っていることは間違いない。
昔から仲の良い姉弟なのだ。
その朋美に、「早希ちゃん、助けて」と泣き付かれたのが今朝のことだった。
週明けがレポートの締め切りなのだが全然はかどって無くて、おまけにその教授は手書きレポートしか受け取らないらしい。
「…で、土曜日は朝から浩平の家に行って、朋姉のレポートの手伝いするつもりだから。念のため、日曜も開けててと言われて、別に予定もないからオーケーしちゃったの。朋姉には昔から可愛がってもらってる恩があるしね」
「…そっか、麗しの兄弟愛だね」
「うん。私にとって、朋姉は本当のお姉さんのようなモンだしね」
「いや、私が言ったのは…そういう意味じゃないんだけど」
どういう意味か首を傾げる私に、杏子は、
「ま、そういうとこが、早希はかわいいんだけどね―――」
と、意味ありげに笑った。