5、切ない抱擁
いつものように、私は図書館で浩平の練習が終わるのを待っていた。
まだ1月末だ。
外は厳しい寒さが続いていたが、図書館内はエアコンで程良い気温が保たれていた。
心地良くて、浩平を待ちながら、うとうとうたた寝をしてしまう。
ふと目が覚めたとき、テーブルにおいてあったはずのスケッチブックがない事に気づいた。
ガバッと身を起こした私が辺りをキョロキョロすると、「あ、ごめん」という声がした。
私の隣の椅子に、端正な顔をこちらに向けている人物がいた。
大沢桐人だった。
その手にはページを開かれた、橘桐人のスケッチブックがある。
彼は少し決まり悪そうに、言葉を継いだ。
「スケッチブックの表紙に『桐人』って、僕の名前が書いていたから。僕の名前って変わってるし、同名の人がいるとは思わなくて。ちょっと興味を惹かれて、見てしまった。これ、君のスケッチブック?」
古いスケッチブックの表紙には、漢字で『桐人』と書かれている。
たぶん持ち主であった橘桐人による癖のある、まるで墨絵の一部のような文字が。
「このスケッチブック、同じ女性でいっぱいだね。これは君?」
「…ううん」
私は首を横に振り、否定する。
「…琴音、おまえをあきらめない」
ポツリとこぼれ落ちた言葉に、ハッとして顔を上げる。
大沢桐人と視線が絡んだ。口角が僅かに上がって笑みを作る。
スケッチブックにそう書いてあったからねと、桐人は言った。
「…琴音って……このモデルの名? 君にそっくりだけど、姉妹とか?」
一つ目の問いは正解だが、二つ目の問いは間違っている。
私は少し首を傾げて答えた。
「琴音さんは、もう…ずっと昔に亡くなった人。私も会ったことがない人だから…」
「ふ~ん。赤の他人でこんなに似てるんだ。まるで生まれ変わりみたいだね?」
ドキンと気持ちが跳ね上がる。
大沢桐人が言ったのは、琴音の事を知ってからずっと心の中で考えていたことだった。
なぜ琴音と私がこんなによく似ているのか。
なぜ琴音が亡くなる時の瞬間をリアルに夢で見るのか。
『生まれ変わり』という理由でも与えなければ、説明できないような気がしていた。
「このスケッチ見てびっくりしたよ。心の琴線に触れる描き方というか……僕に大事な人ができたら、こんなふうに描きたいと思わせるような描き方だと思った」
桐人はそのまま僅かに目を細めて、真剣な表情でスケッチブックのデッサンを眺めている。
それから徐に私を振り向いた。
「ねえ、このスケッチブック、ちょっと借りられないだろうか?」
「え?」
「僕も美術科の学生だし、すごく…惹かれるんだ。この絵に。一日でも良いから、じっくり見せてもらえないだろうか」
「でも…」
私の声に重なって、良く知った声がした。
「ダメだよ―――」
いつの間にか浩平が私の後ろにいて、サッとスケッチブックをその手に取り上げた。
「このスケッチブックの持ち主は僕だからね」
桐人が険しい目で浩平を見上げる。浩平は平然と涼しい顔で桐人を見据える。
「君は? 川瀬さんの彼氏かなにか?」
桐人はちらりと私に視線を移した。
「ち…ちがいます!」
上擦った声で私は否定した。
温和な浩平には珍しく、初対面であろう桐人に対し、友好的に振る舞おうとは微塵も感じていないようで、それが態度に表れていた。
物心ついたときから傍にいた浩平だが、こんな浩平は珍しい。
「俺の名は橘浩平。早希とは…“彼氏”なんかより、深い繋がりかもな」
浩平が薄く笑いを浮かべたまま、言葉を落とす。
私はカッと頬が熱くなるのを感じた。真っ赤になってしまったのに違いない。
別に桐人を怒らせても構わない。浩平の態度からはそんな気持ちが感じられた。
「それより、人の名を聞きたいなら、まず自分が名乗るべきじゃないの?」
浩平も桐人も大きな声を出している訳ではなかったが、二人を取り巻く空気は最初からピリピリと張りつめている。
下校に近い時間帯だったため、図書室のテーブル席には空席が多い。
私の近くのテーブルで本を読んだり、自習をしたりしてた生徒達が、興味本位にこちらに視線を向けているのを感じる。
私はどうすれば良いか分からなくて、ハラハラしていた。
「…僕の名前は大沢桐人。美術科の2年生だよ」
「桐人?」
「そう。川瀬さんも初めて僕の名前を聞いたとき、すごく驚いたみたいだったけど…。そんなに変わった名前なのかな?」
浩平がムッとした顔をした。
桐人はくすりと笑うと、私の耳に顔を近づけた。
そして私にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「早希、君をあきらめない――」
驚いて顔を上げる私に、「…なんてね」と桐人はニッコリ笑顔を見せて、席を立った。
「……またね。川瀬早希ちゃん…」
そう私に言葉を残して。
* * * * *
その日は整形外科の通院日だったため、浩平に付き添って病院を出た頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
浩平は以前は自転車通学だったのだが、ケガをしてからは電車を利用している。
最寄り駅から浩平の自宅まで15分ほどの道のりを、いつものように二人分の鞄を持ち、並んで歩いた。
帰り道、浩平はずっと口数が少なかった。
放課後、桐人と図書室で会ってから、なんだか変だった。
もうすぐ浩平の家に着く。
私はこのまま気まずい思いのまま、別れるのは嫌だと思った。
「まだ怒ってるの?」
「……」
「…眉間に皺が寄ったまま固まっちゃって、変な顔になっちゃうよ」
「―――どうせ変な顔だよ」
浩平がむっと拗ねたような顔をこちらに向ける。
「浩平らしくなかったよ、今日。最初からけんか腰で、さ」
「…あいつ、気にくわねえもん。仲良くしようなんて気、さらさらないし」
浩平が他人に対しこんなに攻撃的なのは初めて見る。
「早希は、あいつの肩持つの?」
浩平が苛つく感情を瞳に忍ばせながら、私を覗き込むようにして尋ねる。
「そんなつもりはないよ…。でもね」
どうして、浩平がこんなに怒っているのか、首をひねってしまう。
いつも私たち二人の間に流れている空気はもっと穏やかで、優しくて。
どうしたらいつもの浩平に戻ってくれるのだろう。
長い付き合いだから、頭ごなしに言っても逆効果なのはわかっている。
こういう時は…。
私は真っ直ぐ浩平に視線を返し、微笑んだ。
「今夜は…月がすごく綺麗だよ。気づいてた?」
浩平がハッとして、空を見上る。
冬の夜空に凍てついた満月が掛かっていた。
冷たく澄んだ空気を通して、月は煌々と輝いていた。
「…なんだか、お月様から銀の粉が降っているみたい。建物にも街路樹にも道路にも、静かに降り積もってるようだと思わない?」
私の言葉に、浩平の顔がゆっくりと穏やかな表情を取り戻す。
身体から力が抜けていくのがわかった。
「相変わらず、乙女チックな表現……」
クスリと笑うと、ひっそりと小さな声で呟いた。
「だけど…ホントに綺麗な月だな。俺、気づかなかった…」
しばらく無言で歩く。
浩平の尖ったような雰囲気が失せ、私はホッとする。
「良かったね、経過が順調で。お医者さんも回復が早いとびっくりしてたね」
「…うん」
「添え木も取れて、包帯も取れて。まだテーピングで固定しなくちゃいけないけど、ぱっと見た感じじゃ、ケガもあまりわからないよね」
「……」
「この調子で治れば、空手の試合、間に合うかも…?」
「…バカ」
バカと言われて、ムッとする。
そんな私の様子を、浩平は無視する。
「師範が話してたんじゃなかったの?俺、試合とかに執着ないって、あれ本当だし」
浩平が心底呆れたような声を出した。
「それに元々1年じゃ、俺の他に試合に出るヤツなんていなかったから。……代わりに2年の先輩が出られるようになって、なんかホッとしてたりして。まあ、俺には来年も再来年もあるんだし」
だから、早希は本当に気にするなと、浩平は私の頭をクシャッと撫でた。
師範さんの話が出て、そう言えばと私は思いだした。
「師範さんが言ってたけど、浩平は何か『大事なモノを守るため』に空手を始めたんだって? 私、そんな話、聞いたことないけど」
「俺も言ったことないもん」
「今もそのために、空手続けてるの?」
浩平は少し俯いて、こめかみの辺りをポリポリと掻いた。
「…まぁ…な」
「ねえ、『大事なモノ』って何?」
浩平はちょっと考え込むようにして、「地球の平和…とか?」と呟く。
「何よ、それ?!」
驚いた私のリアクションに、浩平は、ははは…と豪快に笑った。
いつもの浩平だ。
私も嬉しくなって笑った。
いつしか浩平の自宅の門の前に着き、私は浩平に彼の鞄を差し出す。
浩平は急に真面目な顔をして、私の顔を見下ろした。
「…ホントは、俺の『大事なモノ』って、もっとささやかなもんだ。例えば、こんな綺麗な月を、本当に穏やかで優しい気持ちで眺める時間とか。そのために必要なものを守る力を手に入れたい……それが空手を始めた動機かな」
何か抽象的でよくわからない表現。
「浩平ってそんな小さな頃から、そんな難しいことを考えてたんだ。意外」
からかうような私の口調に、浩平は表情を崩すことなく、言葉を継ぐ。
「その気持ちは今も変わらない……」
浩平は差し出された自分の鞄と一緒に、私の手をグイと引いた。
バランスを崩して、私は浩平の肩に額を押し当てる形になる。
浩平の鼓動を感じる。私は脳裏が真っ白になった。
―――だから、
「早希…遠くへ行くなよ。ずっとここにいろよ、な?」
声と共に、私の背に回された腕が一瞬力を増す。
今まで気づかなかった浩平の香りが鼻腔をくすぐる。
それから、拘束はゆっくり緩められた。
私は浩平に抗議しようとして、彼の顔を見上げ、言葉を飲んだ。
だって、私を見つめる浩平の瞳に、痛いくらい切ない色が浮かんでいたから。
私は今までそんな切ない瞳を見たことがなかった。