表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/16

5、切ない抱擁

 いつものように、私は図書館で浩平の練習が終わるのを待っていた。

 まだ1月末だ。

 外は厳しい寒さが続いていたが、図書館内はエアコンで程良い気温が保たれていた。

 心地良くて、浩平を待ちながら、うとうとうたた寝をしてしまう。

 

 ふと目が覚めたとき、テーブルにおいてあったはずのスケッチブックがない事に気づいた。

 ガバッと身を起こした私が辺りをキョロキョロすると、「あ、ごめん」という声がした。

 

 私の隣の椅子に、端正な顔をこちらに向けている人物がいた。

 大沢桐人だった。

 その手にはページを開かれた、橘桐人のスケッチブックがある。

 彼は少し決まり悪そうに、言葉を継いだ。


「スケッチブックの表紙に『桐人』って、僕の名前が書いていたから。僕の名前って変わってるし、同名の人がいるとは思わなくて。ちょっと興味を惹かれて、見てしまった。これ、君のスケッチブック?」


 古いスケッチブックの表紙には、漢字で『桐人』と書かれている。

 たぶん持ち主であった橘桐人による癖のある、まるで墨絵の一部のような文字が。


「このスケッチブック、同じ女性でいっぱいだね。これは君?」


「…ううん」


 私は首を横に振り、否定する。


「…琴音、おまえをあきらめない」


 ポツリとこぼれ落ちた言葉に、ハッとして顔を上げる。

 大沢桐人と視線が絡んだ。口角が僅かに上がって笑みを作る。 

 スケッチブックにそう書いてあったからねと、桐人は言った。


「…琴音って……このモデルの名? 君にそっくりだけど、姉妹とか?」

 

 一つ目の問いは正解だが、二つ目の問いは間違っている。

 私は少し首を傾げて答えた。


「琴音さんは、もう…ずっと昔に亡くなった人。私も会ったことがない人だから…」


「ふ~ん。赤の他人でこんなに似てるんだ。まるで生まれ変わりみたいだね?」


 ドキンと気持ちが跳ね上がる。

 大沢桐人が言ったのは、琴音の事を知ってからずっと心の中で考えていたことだった。


 なぜ琴音と私がこんなによく似ているのか。

 なぜ琴音が亡くなる時の瞬間をリアルに夢で見るのか。

『生まれ変わり』という理由でも与えなければ、説明できないような気がしていた。


「このスケッチ見てびっくりしたよ。心の琴線に触れる描き方というか……僕に大事な人ができたら、こんなふうに描きたいと思わせるような描き方だと思った」


 桐人はそのまま僅かに目を細めて、真剣な表情でスケッチブックのデッサンを眺めている。

 それから徐に私を振り向いた。


「ねえ、このスケッチブック、ちょっと借りられないだろうか?」


「え?」


「僕も美術科の学生だし、すごく…惹かれるんだ。この絵に。一日でも良いから、じっくり見せてもらえないだろうか」


「でも…」


 私の声に重なって、良く知った声がした。


「ダメだよ―――」


 いつの間にか浩平が私の後ろにいて、サッとスケッチブックをその手に取り上げた。


「このスケッチブックの持ち主は僕だからね」


 桐人が険しい目で浩平を見上げる。浩平は平然と涼しい顔で桐人を見据える。

 

「君は? 川瀬さんの彼氏かなにか?」


 桐人はちらりと私に視線を移した。


「ち…ちがいます!」


 上擦った声で私は否定した。

 温和な浩平には珍しく、初対面であろう桐人に対し、友好的に振る舞おうとは微塵も感じていないようで、それが態度に表れていた。

 物心ついたときから傍にいた浩平だが、こんな浩平は珍しい。

 

「俺の名は橘浩平。早希とは…“彼氏”なんかより、深い繋がりかもな」


 浩平が薄く笑いを浮かべたまま、言葉を落とす。

 私はカッと頬が熱くなるのを感じた。真っ赤になってしまったのに違いない。

 別に桐人を怒らせても構わない。浩平の態度からはそんな気持ちが感じられた。


「それより、人の名を聞きたいなら、まず自分が名乗るべきじゃないの?」


 浩平も桐人も大きな声を出している訳ではなかったが、二人を取り巻く空気は最初からピリピリと張りつめている。

 下校に近い時間帯だったため、図書室のテーブル席には空席が多い。

 私の近くのテーブルで本を読んだり、自習をしたりしてた生徒達が、興味本位にこちらに視線を向けているのを感じる。

 私はどうすれば良いか分からなくて、ハラハラしていた。


「…僕の名前は大沢桐人おおさわ きりと。美術科の2年生だよ」


桐人きりと?」


「そう。川瀬さんも初めて僕の名前を聞いたとき、すごく驚いたみたいだったけど…。そんなに変わった名前なのかな?」


 浩平がムッとした顔をした。

 桐人はくすりと笑うと、私の耳に顔を近づけた。

 そして私にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。


「早希、君をあきらめない――」


 驚いて顔を上げる私に、「…なんてね」と桐人はニッコリ笑顔を見せて、席を立った。


「……またね。川瀬早希ちゃん…」


 そう私に言葉を残して。




 * * * * *




 その日は整形外科の通院日だったため、浩平に付き添って病院を出た頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

 浩平は以前は自転車通学だったのだが、ケガをしてからは電車を利用している。

 最寄り駅から浩平の自宅まで15分ほどの道のりを、いつものように二人分の鞄を持ち、並んで歩いた。

 帰り道、浩平はずっと口数が少なかった。

 放課後、桐人と図書室で会ってから、なんだか変だった。

 もうすぐ浩平の家に着く。

 私はこのまま気まずい思いのまま、別れるのは嫌だと思った。


「まだ怒ってるの?」


「……」


「…眉間に皺が寄ったまま固まっちゃって、変な顔になっちゃうよ」


「―――どうせ変な顔だよ」

 

 浩平がむっと拗ねたような顔をこちらに向ける。


「浩平らしくなかったよ、今日。最初からけんか腰で、さ」


「…あいつ、気にくわねえもん。仲良くしようなんて気、さらさらないし」


 浩平が他人に対しこんなに攻撃的なのは初めて見る。


「早希は、あいつの肩持つの?」


 浩平が苛つく感情を瞳に忍ばせながら、私を覗き込むようにして尋ねる。


「そんなつもりはないよ…。でもね」


 どうして、浩平がこんなに怒っているのか、首をひねってしまう。

 いつも私たち二人の間に流れている空気はもっと穏やかで、優しくて。

 どうしたらいつもの浩平に戻ってくれるのだろう。

 長い付き合いだから、頭ごなしに言っても逆効果なのはわかっている。


 こういう時は…。

 私は真っ直ぐ浩平に視線を返し、微笑んだ。


「今夜は…月がすごく綺麗だよ。気づいてた?」

 

 浩平がハッとして、空を見上る。

 冬の夜空に凍てついた満月が掛かっていた。

 冷たく澄んだ空気を通して、月は煌々と輝いていた。

 

「…なんだか、お月様から銀の粉が降っているみたい。建物にも街路樹にも道路にも、静かに降り積もってるようだと思わない?」


 私の言葉に、浩平の顔がゆっくりと穏やかな表情を取り戻す。

 身体から力が抜けていくのがわかった。


「相変わらず、乙女チックな表現……」


 クスリと笑うと、ひっそりと小さな声で呟いた。


「だけど…ホントに綺麗な月だな。俺、気づかなかった…」


 しばらく無言で歩く。

 浩平の尖ったような雰囲気が失せ、私はホッとする。


「良かったね、経過が順調で。お医者さんも回復が早いとびっくりしてたね」


「…うん」


「添え木も取れて、包帯も取れて。まだテーピングで固定しなくちゃいけないけど、ぱっと見た感じじゃ、ケガもあまりわからないよね」


「……」


「この調子で治れば、空手の試合、間に合うかも…?」


「…バカ」


 バカと言われて、ムッとする。

 そんな私の様子を、浩平は無視する。


「師範が話してたんじゃなかったの?俺、試合とかに執着ないって、あれ本当だし」


 浩平が心底呆れたような声を出した。


「それに元々1年じゃ、俺の他に試合に出るヤツなんていなかったから。……代わりに2年の先輩が出られるようになって、なんかホッとしてたりして。まあ、俺には来年も再来年もあるんだし」


 だから、早希は本当に気にするなと、浩平は私の頭をクシャッと撫でた。

 師範さんの話が出て、そう言えばと私は思いだした。


「師範さんが言ってたけど、浩平は何か『大事なモノを守るため』に空手を始めたんだって? 私、そんな話、聞いたことないけど」


「俺も言ったことないもん」


「今もそのために、空手続けてるの?」


 浩平は少し俯いて、こめかみの辺りをポリポリと掻いた。


「…まぁ…な」


「ねえ、『大事なモノ』って何?」


 浩平はちょっと考え込むようにして、「地球の平和…とか?」と呟く。


「何よ、それ?!」


 驚いた私のリアクションに、浩平は、ははは…と豪快に笑った。

 いつもの浩平だ。

 私も嬉しくなって笑った。


 いつしか浩平の自宅の門の前に着き、私は浩平に彼の鞄を差し出す。

 浩平は急に真面目な顔をして、私の顔を見下ろした。


「…ホントは、俺の『大事なモノ』って、もっとささやかなもんだ。例えば、こんな綺麗な月を、本当に穏やかで優しい気持ちで眺める時間とか。そのために必要なものを守る力を手に入れたい……それが空手を始めた動機かな」


 何か抽象的でよくわからない表現。


「浩平ってそんな小さな頃から、そんな難しいことを考えてたんだ。意外」


 からかうような私の口調に、浩平は表情を崩すことなく、言葉を継ぐ。


「その気持ちは今も変わらない……」


 浩平は差し出された自分の鞄と一緒に、私の手をグイと引いた。

 バランスを崩して、私は浩平の肩に額を押し当てる形になる。

 浩平の鼓動を感じる。私は脳裏が真っ白になった。


 ―――だから、


「早希…遠くへ行くなよ。ずっとここにいろよ、な?」


 声と共に、私の背に回された腕が一瞬力を増す。

 今まで気づかなかった浩平の香りが鼻腔をくすぐる。

 それから、拘束はゆっくり緩められた。


 私は浩平に抗議しようとして、彼の顔を見上げ、言葉を飲んだ。

 だって、私を見つめる浩平の瞳に、痛いくらい切ない色が浮かんでいたから。

 私は今までそんな切ない瞳を見たことがなかった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ