4、前世の悲劇
「どうしたの?なんか元気ないじゃん」
「ん……夜眠れなくて。あれから同じ夢ばっかり見るの。琴音さんの夢」
学校へ向かう道、問いかける浩平にポロッと本当のことを零し、とたんに後悔した。
だって、浩平の瞳がとたんに翳ってしまったから。
こんな言葉を言えば、浩平が心配するのは分かり切っていたのに。
自己嫌悪。
二人を取り巻く空気が沈殿していく。
『俺はお前をあきらめない』
夢の中の人は、毎夜同じ言葉を私に囁く。
夢の中で私は琴音さんに同化している。
声の主はたぶん橘桐人という人。琴音さんの恋人で画家の卵だった人。
妙にリアルな夢。
その声が、あまりに張り裂けるような悲しさに溢れて、私は夜中に何度も目が覚めてしまう。
私の心の芯の部分が声に応えようとして、平静ではいられなくなる。
切なくて眠れなくなる。
完全な睡眠不足だった。
「……早希はどうするのがいい?」
「え?」
「橘桐人のこと、もっと知りたい? それとももう触れないで欲しい?」
「……」
「もっと知りたいのなら、…心当たりがないわけでもない。どうする?」
「…浩平も一緒にいてくれる?」
「当たり前だろ」
「…じゃあ、知りたい」
正直、知るのは何だか怖い。
だけど、中途半端なままだと、琴音さんと桐人さんの事が心の端っこに引っかかって、いつまでも魘されるような気がしたから。
オーケーと浩平は呟くと、私の頭をポンポンと軽く叩く。
昔から私が不安なとき、彼は何も言わず、こうして頭を軽く叩くのだ。
大丈夫っていうように。
すると私は何だか安心する。
小さく微笑みを返すと、浩平もニヤッと笑った。
その時。
「橘君、おはよ!」
浩平の横に、その肩をポンと叩いて微笑む神崎さんがいた。
ギョッとする。
『神崎には友達としてしか付き合えないって返事した』
先日の浩平の言葉を思い出す。
「あ、おはよ」
浩平も以前と全然変わらない反応を返す。
「川瀬先輩も、おはようございます!」
花のような笑顔。神崎さんは私には敬語を使う。
「お、おはよう…」
私だけちょっと上擦った声。
ダメじゃん。当事者の二人が平気なのに、第3者の私が緊張してどうする??
「私、あれから家でもちょっと練習してみたんだけど、あのアレグロの部分ね……」
神崎さんの言葉をきっかけに、二人は『卒業生を送る会』での演奏の話に夢中になっていった。
一見、以前と変わらない二人のスタンス。
神崎さんは話の合間に切なそうに、だけど嬉しそうに微笑む。
その笑顔を見て、私は悟ってしまった。
きっと神崎さんは友達のポジションでも、浩平の側にいることにしたんだ。
変なプライドに縛られるよりも。
それは、彼女が本当に浩平のことが大好きだと示しているように思う。
女の私でも、かわいいと思う神崎さん。
だけど、浩平は他に好きな人がいるという。
浩平は今まで、女の子に興味がないような感じだったから、そんなこと、今まで考えたことがなかったけれど。
二人の話に交われない私は所在なげに空を見上げる。
桜の枝が、寒々しい裸の腕を空に向かって伸ばしている。
春には見上げる空が一面うす桃色に染まる。
去年の春、入学したばかりの浩平と二人で、その空を見上げたことが今では夢のようだ。
この数日間で、あんなに側にあった浩平の存在が、ずいぶん遠くなったような気がした。
* * * * *
放課後。
浩平の練習がある日は、私は図書館で待つのが暗黙の了解になっていた。
椅子に座り、恋愛小説に没頭していた私に、セッションの練習を終えた浩平が声を掛ける。
「早希、おまたせ。今日、帰りちょっと寄り道していい?」
「う…うん! い…いよっ!」
小説の主人公に感情移入して瞳がウルウルしていた私は、あわてて俯いて本を鞄にしまう。
浩平は少し目を細め、優しい笑みを浮かべた。
「ちょっと道場によって師範に挨拶していきたい。しばらく練習休むことになるし…」
浩平は小学校に入学した頃から、林派糸東流の空手道場に週3日通っている。
中学の頃から頭角を現し、数々の大会で入賞を果たした浩平は、高校に入学するや待ちかまえていた空手部に勧誘され部活にも席を置く。
しかし、浩平自身は部活とは違う道場の雰囲気や、師範や師範代の人柄などが居心地が良いようで、道場も手を抜いている感じではなかった。
浩平は、師範に捻挫が完治するまで道場を休むことを告げると、道場の隅で稽古の様子をしばらく見学することにしたようだった。
師範代と呼ばれる40歳前後の男の人が、白や黄・青・緑・茶・黒と色とりどりの帯を身につけた小中学生らしき子ども達の型を見ている。
手持ちぶさたな私に、師範が声をかける。
「しかし…残念だなあ。今度の大会の結果、良い線行くかと楽しみにしてたんだけど」
「…すみません…」
「あはは…残念がっているのは僕だけでね。浩平自身は別に試合に出られなくても全然平気なヤツだから、早希ちゃんは気にしないで、ね」
顔を上げた私に師範は穏やかな笑みを見せる。
身長は180cmはあるだろうか。がっしりした身体に白髪交じりの髪と髭。
だけど、とても優しい目をしている。
「う~ん、浩平は昔から試合とかに頓着しない質だから。かと言って、空手が好きでたまらないってんでもないんだな。その点欲がないというか…」
「?」
「どちらかというと、ピアノを弾いている方が、浩平は好きなんじゃないのかな。たぶん空手を続けている理由は別の所にあるんだろうね」
「別の所?」
「道場に通い出した、小学校に入学したばかりの頃は、とにかく強くなりたい。強くならなきゃいけないなんて言ってた。『大事なモノを守るために』とか? なんかませた子どもだったよな。今も同じ気持ちかどうかは知らないけど」
「師範!!」
「いらないことを早希に吹き込まないで下さい」と、浩平が会話に割って入った。
心なしか頬が赤い。こんな動揺している浩平はちょっと珍しい。
師範代さんが組み手の指示を出している。
防具を付け、二人一組になり、基本動作に入ろうとするとき、ザワッとみんなに緊張の色が走った。
道場の入口に胴衣を着た老人が立っていた。
帯の色はくたびれたような、使い込んだ黒色。
「宗師だ。師範のおじいさんに当たる人なんだけどね。ちょうど良かった」
浩平は囁くと、私に付いてくるよう促し、宗師と呼ぶ老人に挨拶をした。
「宗師! ご無沙汰してます」
「おお、浩平か。なんだその松葉杖は? それに私は今は隠居の身じゃから、いい加減『宗師』と呼ぶのは、勘弁してくれんかね?」
宗師は俺にとって、ずっと宗師ですから、と浩平は笑った。
しかし、穏やかな老人の視線が私の顔に移ったとき、その眼が驚きに瞠られた。
「俺の幼なじみですが…誰かに似ていますか?」
そのまま探るような目を向けた老人に、浩平は畳みかけるように言葉を続けた。
「琴音さん…とか? 宗師はご存じなんですか?」
道場に隣接した宗師の屋敷の離れに通された私と浩平は、8畳ほどの和室で、座卓を挟み、宗師と向かい合っていた。
「さっきは本当に瓜二つだと思ったが、こうしてじっくり見ると、やはりだいぶ違うようじゃな」
老人が優しい目を私に向ける。
「あなたは明るくて元気で、健康で。だけど、琴音さんは病弱だったせいもあるが、大人しくて、滅多に笑顔も見せない。儚げで、若いのに既に人生を諦めているような、そんな感じのする人だったよ。だけど、優しい人だった。わしら幼い子どもの話にも真剣に耳を傾けてくれて、時々はお菓子をもらったような記憶もあるよ」
老人は遠い瞳で、自分が幼い頃、見知った話をポツリポツリと話し始めた。
琴音さんは近所に住む女学生だったそうだ。
そんな琴音さんに美大を出たばかりの橘桐人が恋をした。
「琴音さんは大人に対しては人見知りが強く、なかなかうち解けない人だった。
桐人さんは絵を描く以外全く不器用な人だったけど、優しくて誠実な人だったからね……」
琴音さんが断り切れず桐人さんの絵のモデルを引き受けたのを切っ掛けに、時間を重ね、琴音さんも桐人さんに心を開き、惹かれるようになっていったらしい。
そして、琴音さんの卒業を待って、二人は婚約した。
子どもの目から見ても、二人はお似合いで、こんな幸せそうなカップルは見たことなかったと老人は微笑んだ。
だけど、婚約を発表したその夜―――。
「桐人さんがちょっと側を離れた隙に、琴音さんは男に刺されたんだ。琴音さんに一方的に片思いしていた男に。今で言う“ストーカー”だね。急いで病院に運ばれたけど、琴音さんは助からなかった。犯人はその場で逮捕されたが、桐人さんの憔悴は気の毒なほどだった。……その後、琴音さんの満中陰の法要を待たずに、桐人さんも亡くなった……」
その冬一番の寒さを記録した朝、桐人さんは自宅のすぐ近くの路上で眠るように冷たくなった姿で発見された。
泥酔による凍死ということだったけど、消極的な自殺だと思ったと、老人は言葉を結んだ。
誰も何も話さなかった。
浩平がそっと私にハンカチを握らせた。
気づいてなかったけど、私はずっと涙を流していたのだった。
浩平を家まで送る帰り道。
「……ごめんな」
彼が私の顔を覗き込む。
「宗師ってしっかりしてるけど、ああ見えて90才近い人だから、きっと大叔父の桐人さんや琴音さんのことも知ってるんじゃないかと見当はつけていたんだ。でも、あんな話聞いて、良かったのか、悪かったのか。早希が余計に眠れなくなったら、俺のせいだよな」
大きなため息をつく浩平に、慌てて私は答える。
「そんなことない。私が知りたいって言ったんだし…」
「…ただ、大叔父は本当に琴音さんが大好きで、大切に思っていた訳だから……琴音さんに似た早希のことも困らせたり、苦しめたりするなんて事、ないと思うんだ」
「うん……」
「身内の欲目じゃなく、これに関しては、俺、なんか確信みたいなものがある」
家の前に着き、私が差し出した鞄を受け取ると、浩平は私にちょっと待ってと玄関に消えた。
しばらくして戻ってきた浩平の手には桐人さんのスケッチブックがあった。
「これ、早希が持ってろよ。なんかそれが一番良いように思うから」
もう9時に近い時間だった。
浩平の家と私の家はそれほど離れているわけではないので、一人で帰れると言ったが、浩平は遅いから送っていくときかなかった。
浩平から預かった古いスケッチブックは、どのページも琴音さんでいっぱいだった。
戸惑ったような表情の琴音さん。
拗ねたような表情の琴音さん。
はにかんだ表情の琴音さん。
嬉しそうに微笑む琴音さん……。
まるで自分の肖像画を眺めているみたいな錯覚に陥る。
『大人しくて、滅多に笑顔も見せない。儚げで、若いのに既に人生を諦めているような、そんな感じのする人』と宗師は琴音さんの印象を語っていたが、スケッチブックの琴音さんは構えたところがなくて、安心しきったような表情を見せている。
それは、そのまま橘桐人に向けた信頼の印。
橘桐人に向けた愛情の印――。
繊細で優しさに溢れたタッチは、そんな琴音さんの表情を受け止める桐人さんの人柄を表しているように感じた。
突然、先日図書館で出会った大沢桐人の端正な顔を思い出す。
橘桐人と同じ名前で。
同じ高校の美術科で絵を描いていると言っていた生徒の。
そして、以前会ったことがないかと私に聞いた彼の顔を。
ベッドに横になりながら、またスケッチブックを開く。
懐かしいような、優しい気持ちになる。
そのままいつの間にか眠りに落ちた私は、朝目が覚めるまで久しぶりに夢も見なかった。