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15、解き放たれた呪縛

 二人きりになったマンションの屋上。


 浩平は黙って床に散らばった携帯や財布やポーチやスケッチブックを拾うと、元通りに私のバッグに詰めてくれた。

 私は金髪ピアス男に破られてしまった橘桐人のスケッチの断片を拾い集める。

 屋上の見渡す限り、小さな欠片も丁寧に拾って、浩平が持つ私の鞄に取りあえず入れたが、きっと何枚かは風に飛ばされてしまっただろう。

 一枚一枚に込められた橘桐人の恋人に寄せる想いを思って、たまらなく切なくなる。

 取り返しがつかないような喪失感に、また涙が零れた。


「もう気にするなよ。あの日、俺たちが見つけなければ、そのまま誰にも気づかれず、朽ちていくだけの運命のスケッチだったんだから」


「だけど、私が持ち歩いていなければ……ごめんね」


 マンションの屋上の手すりから風下の風景を見下ろす。

 葉の落ちたポプラの枝に、スケッチの一片が引っかかっているのが見えた。

 じっくりと見下ろしてみると、その高さに足がすくむ。

 

「どうした?」


「うん。あいつらに捕まる前、ここから飛び降りようかと本気で思ったの。怖くて躊躇って、出来なかったんだけど……あの時飛び降りていたら、二度とこんなふうに浩平に会えなかったって考えてた……」


 突然後ろから伸びてきた腕に引き寄せられた。

 いつの間にか私よりずっと太くなった腕が胸の前で交差して、ふんわりと暖かなものに包まれた。

 ああ、浩平の香りだ。

 懐かしい空気に包まれて、もう安全なんだ、大丈夫な場所に帰ってきたのだと安堵する。


「そんなことになったら……俺…」


 ぎゅっと強く抱きしめられた。

 頬に感じる浩平の熱い吐息に、私の体温もはね上がる。

 浩平の腕にそっと手を添えたら、それは思いがけず、小さく震えていた。


「良かった。……失わなくて」

 

 チラリと浩平も泣いているのではないかと思った。

 でも、確認することもせず、私たちはずっとそうやって抱き合っていた。


 やがてポツリポツリと、浩平の言葉が落ちてくる。


 今まで誰にも話したことはなかったけど、物心ついたときから、大切な物を失う夢をよく見たこと。

 大切な物を守るためには強くならなくてはいけないと思い、空手を習い始めたこと。

 随分前から、浩平にとって一番譲れないものは「私」だと気づいていたけど、私の気持ちが追いつくまで見守っていくつもりだったこと。

 だけど、大沢桐人の出現で焦ってしまったこと。


「夢での出来事があったから…何より早希があいつのことを橘桐人の生まれ変わりみたいに思って、惹かれていることがわかったから…正直、もう俺には望みがないと思ったんだ。早希じゃないなら、誰だって同じだった。神崎と噂になっているのは知ってたけど…もうどうでもいいやって思っていた…」


「…こうへい、ごめんね…」


「今日も神崎に付き合って歩いてたら、早希と女の子が何だか深刻な感じで路地に入るのを見かけたから。…未練がましいなと思いながら、気になって後をつけてしまったんだ。途中で見失って……俺、何やってんだろと思ったけど」


「……」


「やっぱり気になって…そしたら、早希と一緒にいた女の子に出会った」



 ――――千佳ちゃんを見つけて…、だから私の居場所が分かったんだ。


 ぼんやり考えながら、背中全体に浩平の温かさを受け止める。



「間に合って良かった。何度も諦めかけたけど、――――やっと捕まえた…」


 そっと振り向くと、浩平の照れくさそうな笑顔があった。

 私も嬉しくなる。


 私こそ、良かったと言いたい。

 浩平を失わなくて。

 私にとっても、ずっと心の一番は浩平だったことが、今なら分かる。

 でも、あまりに近すぎて、気づこうとしなかった。

 居心地の良い関係を変える勇気がなかった。


「そう言えば、あの千佳っていう子、何となく早希に雰囲気が似てるな」


「そ…そうかな?」


「うん。何となく天然っぽいところとか、真っ直ぐなところとか、美人って訳じゃないけど何だかホッと癒されるような雰囲気を持っているところとか。……だから、あいつ、早希に拘ったのかもしれないな」


「―――美人って訳じゃないけどって言うのが余分だよ!」


 私がプイッと拗ねる真似をすると、浩平は「ごめん」とおかしそうに笑った。


「…あいつも、やっと何が一番大切か分かったって感じだったな」


「……それって、千佳ちゃん?」


「たぶんね。きっと些細な事に拘って、ずっと本心から目をそらしてきたんじゃねえの?」



 確か大沢桐人は『去年の今頃は千佳のヤツ、ランドセル背負っていたんだよ。そんな子供相手に特別な感情を持つなんてあり得ない』と言っていた。

 千佳ちゃんとの年齢差を気にしていたのかな。


 だけど、彼が千佳ちゃんの前では雰囲気が変わることには、私も気づいた。

 トゲトゲしているところがなくて、穏やかで丸い感じ。

 そして、千佳ちゃんが大沢桐人を想っていることは鈍い私にもわかること。

 じゃあ、二人は相思相愛ってことじゃない?

 千佳ちゃんのために、その事実を素直に喜べる自分自身に気づいて嬉しかった。

 これもきっと浩平が側にいてくれるから。


「でも、私が千佳ちゃんに似ているなんて思ったこと、なかった」


 浩平は腕を緩め、私を解放すると、私の持つスケッチの断片を受け取り、私のバッグに入っていたスケッチブックに挟んだ。


「あいつもこれから苦労するかもな。惚れた相手が天然だと」


『あいつも』の『も』ってどういうこと?

 ひょっとして、浩平も苦労してるってことを遠回しに言ってる?

 じゃあ、私も天然ボケだってこと??


 私に向き合った浩平がクスクス笑う。

 ここは怒る場面のような気がするんだけど、そんな幸せそうな顔をされたら怒れない。

 告白を断ったあの日に、傷ついた浩平の顔を見てから、こんな明るい彼の笑顔は初めて見たかもしれない。

 そう思ったら、胸の奥がキュンと痛くなって、また目頭が熱くなった。


「おい、早希! ここは泣くとこじゃないから! 普通照れるか怒るかじゃないの?」


 浩平が急に焦った顔をする。

 そんなこと言っても、今日はもう涙腺が壊れてしまったかのようだ。


「……もう泣くなよ。酷い顔してるぞ」


「…どうせ元々酷い顔だもん」


 酷い顔と言われ、浩平が渡してくれたハンカチで涙を拭う。


「ちょっと貸して」と言われ素直に彼にハンカチを渡した。

 目尻に浩平の持つハンカチが触れ、そっと目を閉じる。


 次の瞬間、唇に温かく柔らかなものを感じた。

 びっくりして後ろに下がろうとしたが、いつの間にか後頭部に浩平の手が回され、それは許されなかった。


 ―――――浩平が私にキスをしている。


 その事実に、頭の中が真っ白になった。

 浩平の両腕に包まれ、やがて頭を彼の肩に凭せかけた。

 緊張に硬くなっていた身体から、次第に力が抜けていく。


「……早希がどんな顔してても、俺にとっての女の子はずっと早希一人だったよ」


 後半だけ聞けば、夢で憧れていたような告白なんだけど。

 浩平相手だと100点満点のロマンチックな告白は期待できないかもしれない。

 だけど、心は満たされる。

 幼い頃からずっと見てきた相手だけに、悪気はないことも、照れ隠しがあることも分かってしまうから。


 むしろ、そうやっていつも彼は、全てをぶつけて、何事にも奥手な私が追い詰められないよう、一つの言葉にも逃げ道を用意してくれるのだ。

 大沢桐人が言葉や行動で私を振り回したようではなく。

 だから、私は浩平の前ではいつだって自然体で、私らしくいられる。


「じゃあ、…これからも私の一番傍にいてね」


 私の言葉に浩平は幸せそうに「うん」とにっこり笑った。




 * * * * * 




「俺、空手部は辞めるけど、早希は気にしなくて良いから。あいつらが早希や千佳ちゃんにしたことを思えば、俺はあいつらにしたことを、後悔してない。でも、俺のしたことで、万が一にも他の部員に迷惑がかかるのは不本意だから」


 私を家に送り届けた後そう告げたように、浩平は空手部をすっぱり辞めた。

 もちろんかなりしぶとく慰留されたが、あの時逃げた高校生らしき連中が報復に、クラブに迷惑になる手段に出るとも限らない。


 偶然校内で出会った大沢桐人に、彼らの事を尋ねたことがあった。

 あの日彼は、『もうこんなことがないように、ちゃんと話をつけておく』とも言っていたし。

 

 「ああ。まあ、彼らには僕の気持ちは…十分思い知ってもらったからね。もう君たちの前にも二度と現れないと思うよ」


 にっこり微笑む彼を見て、何だかゾクッと背中を冷たいものが走ったような気がした。

『十分思い知ってもらった』ってどういう意味だろう。

 分からないけど聞けない。聞きたくない。


 千佳ちゃん…大変だなぁって思うけど。

 きっと千佳ちゃんは少しも大変なんて思わない。

 明るい笑顔で、さらりとまっすぐに。

 きっと大沢桐人すらも、その軌跡に巻き込んでしまうような気がする。


 ただ、大沢桐人が言ったことは本当だった。

 それから、再び彼らを見かけることはなかった――――。




 そのまま穏やかな時が流れ、私は3年生に、浩平は2年生に無事進級した。

 

 あの日、想いが通じ合った私と浩平は、所謂「カレ・カノ」の関係になった。

 朋姉ともねえは私たちが付き合うことになったと聞いて、


「これで早希ちゃんが本当の妹になる可能性がずっと高くなった訳ね。嬉しい。こらっ、愚弟! 逃げられないようしっかり頑張るのよ!」と言ってバシバシ浩平の背中を叩いた。


 杏子も、

「まあ、こうなるだろうとは思っていたわよ。端から見ればそうとしか考えられないのに、当人同士が話をややこしくして……一時はどうなることかと思ったけど」と…一応喜んでくれた。


 杏子の反応は、どうやら私や浩平の友人達とも共通するもので、ずっと以前から仲間内では公認状態だったらしい。私と浩平、当人たちだけが知らなかっただけで。


 浩平とはただの幼なじみだった頃とは違って、出かける時は自然に手を繋いだり、甘め50%(辛めも50%)の言葉を遣り取りしたり、……そして時々キスをするようになった。

 お互いの家を行き来したり、一緒に登下校したりは以前から変わらない。

 お互いにとって一番近い場所にいるというスタンスも変わらない。

 親友のようで。

 姉弟のようで。

 そしてその上に恋人という関係―――。


 浩平は決して私の許容量を超えることを要求したり、急かしたり、無理強いしない。

 ただ、「いつも一番近くにいよう。一緒に少しずつ前に進んでいこう」と言ってくれる。

 ありのままの私を肯定してくれて。

 そして、時々さりげなく背中を押してくれる。

 だから、私は一人の時より、ずっと安心して、自由になれる。



 マンションの屋上で浩平に助けてもらった後、不思議と橘桐人の夢を見ることはなかった。

 橘桐人のスケッチブックはかなりのページが破かれていた。

 屋上で拾った断片を、裏からセロテープを使って補修したが、多くの部分が風に飛ばされたのか失われていて、もはや完全に修復は不可能だった。

 橘桐人が残した『琴音、おまえを諦めない―――』の文字も、眩しそうな笑みを浮かべ宙に手を差し伸べる琴音のスケッチも見当たらなかった。



 あの日、浩平の家の蔵の中で、そのスケッチブックを見つけてから長い間、それが傍にないと橘桐人の夢を見た。


 ―――俺はおまえを探し続ける。

 俺は、おまえをあきらめないから   


 闇の中。橘桐人の囁きに心が捕らわれると、切なくて苦しくて眠れなくなった。

 スケッチブックがなくても夢を見なくなったことは、不思議だったが、一層心を軽くした。

 橘桐人の言葉の代わりに、浩平の温かな冗談や直向きな言葉が私の心を埋めていく。

 浩平の存在が橘桐人の呪縛から私を解き放ってくれる。

 そのことが、浩平をもっと好きになっても良いんだと、大丈夫なんだと肯定されているようで。

 何だかとても嬉しかった。



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