12、迫りくる影
『今日暇ですか? 今からお店に来れますか?』
やっと学年末テストが終わった週の日曜日。
朋姉にも会いたかったが、実弟である浩平と顔を合わせたくなかったし、親友の杏子は家族で出かけており、特に予定のない私は暇をもてあましていた。
何をするでもなく、ゴロゴロとベッドに寝転がって漫画を読んでいた私の元へ、千佳ちゃんからメールが来た。
大沢桐人と気まずい事があったあの後も、千佳ちゃんからは何事もなかったようにメールが来て、お店を訪れた私に、彼女は屈託無く話しかけてきた。
私も今まで通り、変わらず千佳ちゃんと接していた。
『どうしたの?』
『絵が出来上がったって。今、桐ちゃんがお店に持ってきているの』
絵が出来上がった―――。
それは、私がモデルを務めたあの絵に違いない。
橘桐人のスケッチブックに描かれた人物像が脳裏に浮かんだ。
夢の中のそれらの絵は、いつも柔らかで懐かしい色彩を伴う。
まるで実際に目にしたことがあるかのように、筆のタッチもその色彩も陰影も、鮮やかに浮かび上がるのだ。
あの優しさにまた触れることができるのかと思ったら、いてもたってもいられなくなった。
『すぐ行くね』と返信し、私は長い間会えなかった恋人に会うような心持ちで出かけた。
―――――だけど。
開店して、それほど時間がたっていない店内は、それでも少し遅い朝食をマスター自慢のモーニング・セットで、という常連のお客で大半の席が埋められていた。
入れたてのコーヒーの深い良い香りが店内に漂っている。
ギャラリーになっている壁の隅で、マスターと馴染みのお客さんと千佳ちゃんと大沢桐人が笑いながら話をしていた。
みんなの視線を集めている一角。イーゼルに載せてその絵はあった。
『琴音 おまえをあきめない』と言葉を添えられていた、橘桐人のスケッチブックのページに描かれていた少女。
眩しそうな表情を浮かべ、宙に手を差し伸べていた私に良く似た少女を思い出す。
目の前の絵の少女も宙に手を差し伸べていた。
銀に霞む背景。滲む町の景色。
複雑な色彩の鈍色の空から舞い落ちる雪。
それを受け止める少女の掌。
まるで景色に同化するかのように儚い雰囲気を漂わせ。
構図は似ていた。
双方とも素人が見ても、非凡なものを感じさせるスキルを持った絵柄。
だからこそ、よく分かる。
橘桐人の肖像画は、淡い優しい色合いが特徴で、どこまでも写実的で緻密で、繊細なタッチを重ねたものだった。
生き生きとした少女のはにかんだ微笑が、見る者を溢れるような優しさで包み込む。
でも、目の前の大沢桐人の作品は抽象的な要素を多く含み、大胆で潔い筆遣いだった。
中央に配された少女は誰も寄せ付けない雰囲気を漂わせている。
幻想的で非現実的な画風。
例えて言えば、双方の画風は明と暗。柔と硬。現実と幻想。
同じ魂が描いたなんてありえない。
大沢桐人は橘桐人の生まれ変わりなんかじゃないと、突然悟った。
私はその事実に打ちのめされた。
「あっ、早希さん。いらっしゃ…」
私に気が付いてニコニコと駆け寄ってきた千佳ちゃんに笑顔を向けることは出来なかった。
千佳ちゃんや周りの人たちも、私の様子が変だと思ったようだったが、そんなことに気を回す余裕もなかった。
怪訝な表情を浮かべた大沢桐人に視線を向けると、
「これは…桐人さんの絵じゃない…」
と、私は小さく呟く。
私は――――。
こんなにも、橘桐人の絵に捕らわれていたんだ。
あのスケッチブックを偶然開いてしまった日から。
心の奥底の不確かな記憶でしか知らない彼の魂に、夢の中で「おまえをあきらめない」と囁いた人に。
非現実的なことだとわかりながら、出会えることを疑ってなかった。
あの人がいつか必ず自分を捕まえてくれると。
「早希?」
と、驚いた表情で問い返す大沢桐人の顔が、ユラリと歪む。
橘桐人を彼に重ね合わせたのは、私が勝手に早合点しただけのこと。
大沢桐人には何も落ち度はない。
「……ごめんね」
それだけ言い捨てると、私は踵を返し、通りに飛び出した。
* * * * *
人混みを縫うようにすり抜け、ただ必死で駆けていた。
頭の中はただ混乱して、取り留めのないことが渦巻いていた。
だけど、確か宗師さんは言っていた。
橘桐人は絵を描く以外不器用な人だったけど、優しくて誠実な人だったと。
それは大沢桐人の人物像とは合致しない。
大沢桐人は万事そつのない、不器用さとは無縁の人だ。
同じ名前で、同じように絵を志していて、同じようにモデルを請われて。
一致する点だけに飛びついて、一致しない点には目をつぶって、私は大沢桐人が夢の人だと思い込もうとしていたのかもしれない。
そうして、きっと彼を傷つけた。
浩平を傷つけてしまったように。
「早希さん!!」
突然右腕を捕まれ、引き留められた。
息を切らした千佳ちゃんが、泣きそうな顔をして私を見つめていた。
「早希さん。酷いよ! どうして桐ちゃんに…あんなこと、言うの?」
「え?」
「あれは桐ちゃんの絵じゃないなんて……どうしてあんなこと、言ったの? 桐ちゃんは本当に一生懸命描いていたんだよ!」
「ち…違う。あれはそんな意味じゃなくって」
橘桐人の絵じゃないという意味で、こぼれ落ちてしまった言葉だった。
だけど、千佳ちゃんにそれをどう説明したらいいんだろう。
通りを行く人々が、チラチラ私たちに視線を向けながら、通り過ぎる。
通りの真ん中で、なに喧嘩してるんだって思われてるんだろう。
明らかに通行の邪魔になってるし。
「千佳ちゃん、あっちで…もっと静かなところで話そ?」
私の提案に千佳ちゃんは素直に付いてきた。
私たちは本通りから人通りの少ない脇道にどんどん入っていく。
「いつも早希さんが持ってる桐ちゃんのスケッチブック。前に早希ちゃんが席を外したときにこっそり見たことがあるの…。どのページも早希さんでいっぱいで……。どのページも桐ちゃんの気持ちが溢れていて……。ねえ、早希さん。桐ちゃんの気持ちを傷つけたりしないで。お願いだから……」
「あ、あのスケッチブックは桐人くんのじゃなくて……」
「ちゃんと表紙に『桐人』って名前が書いてあったもん」
千佳ちゃんは完全に勘違いをしているようだった。
でも、どうやって誤解を解いたら良いんだろう。
どんな言葉を連ねたら、夢物語のような橘桐人のことを理解してもらえるんだろう。
千佳ちゃんに思い違いをされたまま、別れたくない。
だけど、適切な言葉が何一つ思い浮かばなかった。
「ねえ、早希さん。桐ちゃん一時すごく荒れていたのに、やっと落ち着いてきたの。笑ってくれるようになったの。きっと早希さんのおかげだよね。……だから、私、早希さんだったら良いって。桐ちゃんの彼女さんになってくれたらなぁって。ホントに……」
その時。
背後から、聞き覚えのない若い男の声が、一生懸命話している千佳ちゃんの言葉を遮った。
「桐ちゃんって大沢桐人のことだよな? おまえ、ヤツが時々行ってた画廊喫茶のガキだろ?」
「ふーん…で、あんたがヤツの彼女って訳?」
人を小馬鹿にしたような、悪意のある声にゾッとして振り返る。
以前見かけたことがあった不良っぽい男の子が三人、ニヤニヤ笑いながら道を塞ぐように立っていた。
そして、お互いに目配せをすると、舐めるようにジロジロ眺めた。
私のことを見下すような、横柄な態度で。
「ちょうど良かった。桐人のヤツ、散々俺らの世話になっていながら、最近メールも無視しやがってさ。俺ら、頭にきているんだよね。あんた、あいつの彼女なら、ちょっと責任とってもらおうかな―――」