11、新しい居場所
それから、大沢桐人は週に2度、3度と、学校帰りに千佳ちゃんの店に誘うようになった。
断る理由もなく、むしろ放課後浩平と神崎さんが一緒にいる姿を見たくなくて、むしろ私は喜んで大沢桐人の誘いに応じた。
身を切るような寒さの屋外から暖かい店内に入るとホッとする。
優しい照明に、静かに流れる一昔前のポップス。
駅に近くても、大通りから外れているせいか、いつ行っても混み合っているということはなく、落ち着いた印象の店内。
効果的に白い壁に飾られた絵画は買い手が付いたり、画家が他の作品と入れ替えたりで、時々新しい作品と入れ替わっているようで、じっくり眺めていると知らない間に時間が流れた。
大沢桐人の絵を始め数点の作品は非売品のようで、ずっと指定席をキープしているようだった。
まるで隠れ家のような居心地の良い空間。
そして、千佳ちゃんの人懐っこい笑顔。
千佳ちゃんは中学1年生で、私とは4つの年の差があったけど、素直で明るい千佳ちゃんと私はすぐに仲良くなった。
一人っ子の私に、同じく一人っ子の千佳ちゃん。
私は妹が出来たような気持ちだったし、千佳ちゃんも私を姉のように慕ってくれるのが嬉しかった。
千佳ちゃんに請われて携帯のメアドも教えあった
お店に行かない日は千佳ちゃんからメールが来る。返事をするのも楽しかった。
大沢桐人は月・水・金曜のクラブ活動(美術部)に真面目に出ているようなので、帰宅部の私は何度か一人で店に行ったりもした。
千佳ちゃんは大沢桐人がいてもいなくても、気軽に話しかけてくれる。
千佳ちゃんは父子家庭の一人っ子。
幼い頃にお母さんがなくなってすぐ、千佳ちゃんのお父さんは学校から帰ってきた娘が寂しい思いをしないよう脱サラして、今の画廊カフェを始めたらしい。
カウンター越しに見るマスター(千佳ちゃんのお父さん)は身体は大きいが、カフェ・エプロンが似合って、いつもニコニコしていて、とても穏やかな雰囲気の人。
千佳ちゃんのお母さんが亡くなるまでは有名商社の第一線の営業マンだったそうだけど、ホントかなぁなどと思ってしまうくらい。
千佳ちゃんの中学校はカフェから近いらしく、千佳ちゃんは放課後のクラブ活動が終わると、まっすぐ店に帰ってくる。そして、用事がない限り、お父さんの手伝いをすることが多いようだ。
お店が空いているときは、本を読んだり、宿題をしていた私の前の席にちょこりと座り、一緒にたわいないおしゃべりをした。
二人で色々話しているうちに、クラブ活動を終えた大沢桐人が合流するということも何度かあった。
はきはきして可愛い千佳ちゃんは、すっかり看板娘、常連客のアイドルだ。
マスターが千佳ちゃんを見る目はとても優しくて、すごく娘を大事に思っているのがわかる。
お母さんがいなくても、その分お父さんが十分な愛情を注ぐと、子供は素直な優しい子に育つって実例みたい。千佳ちゃんって。
そんな無邪気で裏表のない千佳ちゃんだから、鈍感な私でもすぐに気が付いた。
千佳ちゃんの想いがどこにあるか。
* * *
その日。
大沢桐人と千佳ちゃんの店に行くと、珍しくマスターがオーダーを取りに来た。
「あれ? いつもの元気娘はどうしたの、マスター?」と大沢桐人が尋ねると、マスターはクスリと笑って、カウンターの隅を指さした。
千佳ちゃんがカウンターテーブルにノートや教科書を出して、うんうんと唸っていた。
「ひょっとして勉強してんの? へえ、珍しい」
「明日から学年末考査らしくってね。土壇場まで追いつめられてるみたいだね」
マスターがオーダーを取ってカウンターの奥に引っ込むと、大沢桐人は「ちょっとごめん」と断って、カウンターに座る千佳ちゃんの後ろに回り、手元をのぞき込んだ。
「………このXの値、マイナスが抜けてる」
「えっ!?……あ、ホントだ…」
指差された箇所を見て、千佳ちゃんが慌てて消しゴムで消し、正しい答えを書き込んでいる。
「ほら、ここも」
「ご、ごめんなさい…」
それから、千佳ちゃんはハッとしたように振り返って「桐ちゃん!?」と素っ頓狂な声を出した。
「で、どこで煮詰まってる訳?」
「や…ここからどうやって解いていけば良いのかわからなくなっちゃって……」
「このXに、こちらの答えを代入すれば良いんだろ?」
「?…なんで?」
「おい、テスト明日からなんだろ? なんか基本的なところで既に躓いてるようだけど?」
呆れたように言うと、大沢桐人は千佳ちゃんの隣のスツールに座り、問題を覗き込んだ。
突然近くなった距離に、千佳ちゃんは頬を染めて顔を仰け反らすと、チラリと私の顔を見て焦ったように声を上げた。
「いいって、桐ちゃん! 彼女、放っておいたらダメだって! 私、一人でできる。大丈夫だから!」
真っ赤になってオタオタ慌てている千佳ちゃん。
かわいいなぁ。
私が一人でこの店に来ている時も、千佳ちゃんは色々話しかけてくる。
人懐っこい子だなぁと思っていたけど、特に大沢桐人の話を嬉しそうに一生懸命聞いている様子を見たら、いくら疎い私でも分かってしまった。
千佳ちゃんは大沢桐人が好きなんだって。
なのに千佳ちゃんはそんな気持ちを隠して、初対面で「桐ちゃんをよろしくお願いします、ね?」と言ったように、本気で私と大沢桐人の仲を取り持とうと考えているようだった。
大沢桐人が案外和菓子とか甘いものが好きであること。
セロリと納豆が苦手なこと。
音楽はジャンルを問わず、流行のポップスでも、クラシックでも何でもOKなこと。
ご両親は留守がちで、通いのお手伝いさんが桐人兄弟の世話をしていること。
お兄さんは都内の医科大生で、桐人とは仲が悪いこと。
最近絵を描くようになってからは、千佳ちゃんの店にも再びよく来てくれるようになったこと。
そして、近頃では随分表情も明るく柔らかくなったこと。
―――全て千佳ちゃんが教えてくれた大沢桐人情報だ。
別に付き合ってるわけではないって、千佳ちゃんには何度も言ってる。
だけど、「きっと桐ちゃんは早希さんが大好きなんだと思う。早希さんも桐ちゃんのこと、好きになってあげて」なんて、健気な表情で言われると何も言えなくなってしまう。
独りぼっちで帰宅しても、自分ではどうしようもないことをグルグル考えるだけだったろう。
少なくとも、大沢桐人は私に放課後の居場所を与えてくれた。
そして、私が本当に琴音さんの生まれ変わりだったら。
大沢桐人が橘桐人の生まれ変わりだったら。
きっと二人がいることは、すごく自然で幸せなことなんだろう。
たとえ、今はそれほど強い気持ちを持っている訳でなかったとしても。
宗師さんの話では、橘桐人が琴音さんに一目惚れして、いつしかその強い想いに応えるように琴音さんも橘桐人を愛するようになったという事だった。
だったら、こうして時を重ねていけば、私もいつか大沢桐人が本当に好きになるのかもしれない。
私たちの高校も来週から学年末テストが始まる。
大沢桐人が千佳ちゃんの勉強を見ている間、私も少し勉強をしておこう。
私は二人より少し離れたテーブル席に座ると、隣の椅子に持っていたスケッチブックと鞄を置き、リーダーの教科書を取り出した。
スケッチブックは言わずとしれた橘桐人のスケッチブックだ。
浩平に返さなければと持ち歩いているが、もう返すことは半分諦めた。
たぶんお互いに避けているのだと思う。
たまに遠く姿を見かけるが、言葉を交わすこともない。
大沢桐人を心から好きになれたら、大沢桐人しか見えなくなれたら、きっと心も軽くなる。
浩平と神崎さんが二人でいるのを見ても、笑っていられるようになるのだと思った。
そうしたら、このスケッチブックも必要ではなくなるのだろう。
日本史のノートを眺めていたら、テーブルの上に注文したミルクティーがコトリと置かれた。
「すまないね」
顔を上げると、マスターが申し訳なさそうな表情をしていた。
ふと大沢桐人を見ると、彼は千佳ちゃんの手元を覗き込みながら、何やら話しかけている。
シャープペンシルのお尻の部分で、千佳ちゃんの頭を叩いたりしているが、その表情は穏やかで優しい。
まるで日頃の彼とは別人のようだ。
千佳ちゃんって癒し系だもんね。
あの大沢桐人も千佳ちゃんの前だと構えたところがなくなって、リラックスしてしまうんだろうなぁ。
さすが千佳ちゃん。
概して学校での大沢桐人は、誰に対しても冷たく、人を見下しているかのような印象を受ける。
その中で、自分に対する彼の態度は、俺様には違いないが、特別な「柔らかさ」や「親切」を感じることが時々あった。
絵のモデルを頼まれ、自分に絡む大沢桐人の態度を見て、彼にとって、自分の存在が特別なのだと漠然と思いこんでいた。
だけど、あんなも穏やかで優しい笑顔を向けられた事ってあったっけ?
よく考えれば、別に私は大沢桐人から「好き」という言葉をもらった訳でもなかったと、ふと思った。
そんなことを冷静に考えている自分が、なんだか不思議だけど。
「いいえ。うちの高校も来週からテストだから、テスト勉強が出来て、ちょうど良いです」
マスターには不自然にならないよう、にこりと笑って、そう答えた。
30分後。大沢桐人は千佳ちゃんにいくつか千佳ちゃんに課題を出して、私の向かいの席に腰を下ろした。
「試験勉強?」という問いに「まあね」と答える。
「ふ~ん、やっぱり普通科と美術科じゃ、試験範囲も違うみたいだね」
私のノートを覗き込む大沢桐人に、ふと思いついて言葉をかけた。
「そう言えば、千佳ちゃんといるときの桐人くんって、雰囲気が変わるね」
「そう?」
「うん。何かトゲトゲしているところがなくて、穏やかで丸い感じ」
「何、それ?」
「良い感じって…一応褒めているんだけど」
大沢桐人は一瞬キュッと眉間に皺を寄せたが、やがてニヤリと笑うと私の顔を覗き込んだ。
「早希、ひょっとして妬いてるの?」
「別にそう言う訳じゃないよ」
「ふ~ん。……それは残念」
それから大沢桐人は私のノートを取り上げ、ぱらぱらページを捲りながら、ボソリと呟いた。
「……あいつは僕にとって、妹みたいなもんだから。それ以上でもそれ以下でもない」
「でも……」
「…去年の今頃は千佳のヤツ、ランドセル背負っていたんだよ。信じられるか? そんな子供相手に特別な感情を持つなんてあり得ないから」
「そ、そんな言い方って…!」
大沢桐人の声が大きい事にドキリとして、咄嗟に千佳ちゃんに視線を向けた。
案の定、千佳ちゃんはこちらを見ていて、一瞬クシュッと顔を歪ませた。
くるりと背を向けると、テーブルの勉強道具を手に店舗の奥にある「Staff Only」と書かれた扉の向こうに姿を消した。扉の向こう側は住居スペースになっているらしい。
千佳ちゃん、傷ついた顔をしていた。
私は大沢桐人の無神経さにカッとして、声を荒げた。
「桐人くん!千佳ちゃんに聞こえたみたいだよ!……泣きそうな顔をして行っちゃったよ」
「いいんだ。わざとあいつに聞こえるように言ったんだから」
「どうして、そんなこと!」
「あいつは……傷つけたくないんだ。だったら、最初からいらぬ期待は持たさない方が良い」
大沢桐人は気が付いていたんだ。千佳ちゃんの気持ちに。
彼はいつものポーカーフェイスに戻っている。
何を考えているか推測できない無表情な顔。
学校で見かける彼がいつも浮かべている表情。
そして、先ほど千佳ちゃんに勉強を教えていた時と、正反対の表情。
私はそれ以上は何も言わなかった。
千佳ちゃんはかわいそうだと思ったけれど、その時の私はまだ、大沢桐人は橘桐人の生まれ変わりかもしれない、―――即ち私の運命の人なのかもしれないなんて信じていたから……。
少なくとも浩平を傷つけて居場所の無くなった私に、彼は居場所を与えてくれたのだ。