10、思いがけない優しさ
翌日。
『卒業生を送る会』当日は、朝から霙混じりの雨だった。
学園近くの市民会館を借り切って、普通科、美術科、音楽科の一年から三年までが一同に集う。卒業を間近に控えた三年に優先的に良い席が振り当てられるせいで、二年の私の席は一階の後ろの方だった。
選ばれた十組の演奏者のうち、神崎さんと浩平の演奏は3番目。
スポットライトを浴びている神崎さんは、長い黒髪に淡いピンクのミディ丈のドレスが華やかだった。だけど、私の目はその後ろで、見慣れた制服姿でピアノを弾く浩平の一挙一動をずっと追いかける。
耳は浩平の奏でるピアノの音だけを追いかける。
浩平のピアノの音に包まれる。
流れるように鍵盤を滑る浩平の両の手。遠目でははっきりとは見えないが、いつになく緊張しているであろう表情。
手に取るようにわかった。
浩平のことは誰より理解している自信があった。
なのに、なぜこんなに遠くなってしまったんだろう。
あの時、浩平の気持ちを受け入れていれば、今私は誰より、彼の傍にいる資格があったのだろう。
でも、浩平は幼なじみの私ではなく、友人としての私でもなく、恋人としての私を望むなら、中途半端な気持ちでその手を取ることはできなかった。
浩平以外は全て音楽科の生徒だったが、浩平のピアノの腕は他の演奏者に劣ることはなかった。むしろ伴奏にも関わらず、静かに心に余韻を残す秀でた演奏だった。
フォーマルな服装で演奏した者が多かった中で、逆に制服姿の浩平は人目を引いた。
一目で普通科の生徒と分かる赤地のネクタイ。
演奏が終わって、神崎さんが浩平をたてるように寄り添って、会釈をする。
会場のあちらこちらで「あの普通科の男の子、誰?」という囁きが聞かれた。
* * * * *
「いや~、まいったね。浩平くん、『卒業生を送る会』で、一躍メジャーになって。どこで調べたのか、空手部にも彼目当てのギャラリーが来たりしてたんだよ」
卒業生を送る会から1週間ばかりたったある日。
下足室で靴を履き替えている私に、親友の杏子が声をかけた。
杏子はこれから空手部の部活に、浩平を送る必要のなくなった私は帰宅するところだった。
「そう……」
私は徐々に浩平のいない生活に慣れて来つつあった。
元々、浩平が私のせいで怪我をする前は別々に登校していたのだし、学年が違うのだから学校でも鉢合わせする危険もほとんどなかった。
今では、浩平が私に好きだと告白したのも夢の中の出来事だったかのような気がする。
だけど……。
「まあ、数日のことだったけどね。あれだけいつも同じ女の子が傍にいたら、彼女持ちだと思われても仕方ないけど……でも、実際どうなんだろう。浩平君、本当に付き合っているの?」
「…さあ?」
ふと下足室のガラス張りの扉の向こうに、見慣れた姿を見つけた。
視線がそこに釘付けになり、動けなくなる。
浩平が神崎さんと何か話していた。
『卒業生を送る会』以降、浩平が神崎さんと一緒にいる姿は、たびたび目撃されている。
2人が付き合っているという噂があることは、私も知っていた。
だけど、あの告白の日から、私には浩平に話しかける機会がないのだ。
避けられているのかもしれないなぁと思う。
浩平が私と神崎さんを天秤にかけていたとは思わない。
だけど、神崎さんが長い間浩平を思い続けていたことは、浩平も知っている。
浩平は優しい。
私が浩平の告白を断ったのをきっかけに、浩平が神崎さんの気持ちを拒むの止めたとしても不思議ではない。
噂を嘘だと言ってしまうような自信は、私にはなかった。
歩き出そうとした浩平の腕を神崎さんが引き留める。
振り向く浩平に向かって、神崎さんが笑顔で何か言っている。
浩平の表情は見えないが、嫌がっている雰囲気もない。
浩平を引き留めている反対の手が、浩平の肩に伸びる。
心臓の辺りがヒヤリと痛んだ。
見たくないと俯いたとき、誰かにグッと左手を取られた。
「行こう」
顔を上げると、大沢桐人が無表情で私を見下ろしていた。
突然のことに、私は「え!?」と間抜けな声を発したまま、後の言葉が続けられない。
彼は杏子に「じゃあ、早希を借りるね」と告げると、私の手を掴んだまま足早に下足室を出、校門に向かった。
私は転げるように後をついていくのに必死で、後ろを振り返る余裕など無かった。
ましてや浩平がそんな私に気がついて、じっと私達を見ているなんて、気づくはずもなかった。
「この後、何か予定はあるの?」と問われる。
このまままっすぐ家に帰りたくはない。
浩平と神崎さんの親密な様子を思い出しながら、一人きりの家で、鬱々と過ごしたくはなかった。
「……別にないけど」と私が答えると、「じゃあ、僕に付き合って」と小さく微笑んだ。
校門を出たところで、大沢桐人は一旦私の左手を放すと、今度は左手を差し出して、私の右手を取った。
大沢桐人が車道側、私が歩道側を、さっきよりゆっくりした歩調で歩く。
そんな態度に、さりげない労りを感じて、少し気持ちが優しくなる。
ずっと大沢桐人と手を繋いでいることに、我ながらびっくりしていたが、振りほどく気にもならなかった。
ただ、前を歩く大沢桐人の足下を見つめながら、黙々と後を付いて歩いた。
そのまま、近くのバス停からバスに乗り、約15分。
一番後ろの席に2人で並んで座ったとき、ようやく大沢桐人が口を開いた。
「…あいつ、早希に何か言ってきた?」
ハッとして大沢桐人の顔を見ると、彼はじっと私の瞳を覗き込んでいた。
「ひょっとして、告白でもされた?」
何も言っていないのに、彼は私の表情を見て何か納得したようだった。
「で、早希は断ったわけだ」と言う大沢桐人の言葉に、小さな声で「…なんで…?」と呟く。
浩平に告られたことは杏子しか知らない。
杏子も誰かに話したりはしないだろう。
なのに、なぜ彼にはわかるのだろう。
自分で発したかどうかも気づかないくらい小さな声だったが、それでも彼に届いたようだった。
「そりゃ、わかるさ。2人の…不自然な様子を見ていたら、何かあったんだろうなって事くらい」
と苦笑いをする。
「あいつが他の女と付き合うのが、そんなにショック?」
そう聞かれても、私は言葉を返すことができなかった。
浩平は私にとって、親友であり、弟だった。
なのに、彼女がいると考えただけで、こんなに切なくなるなんて、私っておかしいのかも。
浩平にあんな辛そうな顔をさせた私には、もう何の資格もないのに。
大沢桐人はそんな私の顔をじっと見つめて、それから急に真面目な顔になり、
「…そんな顔するなよ」と言って、頬にそっと手を伸ばした。
「そんな顔って?」
「…なんか、泣きそうな顔してる」
良心が咎めると大沢桐人は言った、
僕の思ったとおりに事が運んでいる訳なんだけど、と小さくため息をつく。
「早希がそんな顔すると、思った以上に堪えるな。…これは予想外だった」
* * *
終点の駅前でバスを降り、連れだって大通りを歩いた。
人の波に流されていると、ぐっと手を引っ張られた。
すぐ脇を自転車が通り過ぎる。
「ぼうっとしすぎ」
そう呟くと、大沢桐人は視線を合わさず、私の手を引いて歩き出す。
何気なく横を見ると、ショーウインドウに映る大沢桐人に手を引かれた自分の姿。
ずっと浩平と神崎さんの睦まじい姿が、頭の中から離れない。
なのに、今違う男の人と手を繋いで駅前通りを歩いてる私。
なんだかすごく不思議に思えた。
「あ、まずい」
突然。大沢桐人は小さく呻くと、私の手を引いて、ビルの間の細い路地に歩を進める。
左折するとき、チラリと大沢桐人が見ていた方角に目を向けると、いかにも不良っぽい感じで制服を着崩した男の子が三人、歩道の端でニヤニヤ笑いながら何か声高に話しているのが見えた。
「友達?」と聞く私に、「まさか」と応える。
「でも、まあ、ある意味似た者同士かもしれないな。僕もヤツらも居場所がないって点では。中学生の頃からつい最近まで、一緒に連んでた。結構やばいこともしたかも」
「そう……」
やばいこと?
そう言えば杏子が、大沢桐人には何かダークな噂がチラホラあるとか言ってたっけ。
何かわからないけど、今彼がそんな過去と縁を切りたいと思ってるなら良かった。
「……僕の両親って、金を十分に与えておけば、それでちゃんと親の責任を果たしていると錯覚しているような人達でね……僕は家にいても面白くなかったし、ヤツらは遊びたくても金がなかったし。で、ちょうど需要と供給がピッタリ一致してしまったんだよね」
私は何と言葉を返したら良いのかわからず、呆然と大沢桐人の顔を見上げた。
彼も私の視線に気づいたようで、自嘲気味に少し笑うと、私の顔を覗き込む。
「もっとも今はそれもバカらしくなって、ヤツらとは縁を切りたいと思ってね、最近はずっと会ってない……だって、早希と一緒にいた方が楽しいからね」
最後の一文は、大沢桐人が私の耳元に囁くように顔を近づけたので、みるみる頬が熱くなった。
そんな私の反応を見て、彼がクスリと笑う。
一体どこまで本気で言っているのかわからない。
私にそっくりだという琴音さんも、橘桐人にこんな風にからかわれたりしたんだろうか。
こんな風に翻弄されたりしたんだろうかと、ふと思った。
大沢桐人に連れて行かれたのは裏通りに面した小さなカフェだった。
「画廊喫茶なんだ、ここ。結構僕のお気に入りの店」
なるほど、壁にはたくさんの絵が掛けられている。
4人席が10席余りのこぢんまりとした店内には窓がない。
木の香りのするような屋内。柔らかい間接照明。
落ち着いた調度品。
静かに流れる一昔前のポップス。
「あ~~っ!! 絵のモデルの人だぁ!」
ぼーっと店内を眺めていると、甲高い女の子の声に我に返った。
髪をツインテールにした女の子が、セーラー服の上にベージュのカフェエプロンをして、ニコニコしながら、私の顔を覗き込んでいた。
大沢桐人が少し眉を顰めて、女の子に声をかける。
「おい。中坊がまたバイト?」
「バイトじゃない! 家業の手伝いだよ。まあ、今月、ちょっとケータイの請求が多くて親に叱られたから。……その分、自主的にこうやって働いて返してるんだけど、ね」
「じゃあ、ちゃんと仕事しろよ。いきなり『絵のモデルの人だ!』じゃないだろ? 客には最初に何と言うんだよ」
女の子はウッと黙り込むと、姿勢を正して、「いらっしゃいませ」と私に頭を下げた。
そして、私と大沢桐人の前に水が入ったグラスを置き、メニューを差し出す。
「この子、この店のオーナーの娘なんだ。まあ、ガキだから、ちょっと失礼なところも多目に見てやって」
メニューを私に渡しながら、大沢桐人が苦笑いをする。
彼は、結構女の子の前ではクールなイメージがある。
なのに、いつもに比べて、すっごく態度が柔らかくない?
「ガキってなによぅ」とプンスカ怒っている女の子が可愛くて、思わず笑みが漏れる。
2人はかなり昔からの知り合いって印象を受ける。
こんな素直で愛らしい子が相手だと、さすがにかなり捻くれている彼も素直にならざるを得ないのかもしれない。
その時、大沢桐人の携帯が軽快なメロディーを奏でた。
取り出した携帯のディスプレイをチラリと見て、彼の眉間に軽い皺が寄る。
「あ、早希悪いけど、ちょっと席外すよ。僕、ブレンド注文しておいて」
大沢桐人の姿が見えなくなると、女の子は俄然生き生きと好奇心いっぱいという感じで話しかけてきた。
「桐ちゃんの彼女さんですか? 初めまして。私、鈴原千佳です」
「…は?」
彼女さん?
いや、それは間違いだから。ちゃんと訂正しておかなきゃ。
「私、川瀬早希です。桐人くんとは同じ学校だけど、彼女じゃないよ」
「え? そうなんですか? でも、桐ちゃんの絵の人物ってあなたですよね?」
きょとんとした不思議そうな顔で私を見ている。
「それは…そうなんだけど…」
「桐ちゃん、最近土・日も家で描いてるんです。この前の土曜日にここに寄ったとき、キャンバス持っていたから、無理矢理見せてもらったんです。早希さんを見て、一目でわかりました」
にっこり笑う顔が可愛いなぁって思う。
桐人君が中坊って言ってたから、中学生だよね。
「珍しく人物画だったからびっくりしたけど…、私、すごく嬉しくて。桐ちゃん、才能あるのに、…このところずっと絵は描いてなくて、なんだかフラフラばっかしてたから……あたし、すごく心配してたんです。でも、この頃、桐ちゃん、変わってきて……きっと早希さんのお陰ですね」
「……いや、それは違うと思うけど」
即座に否定する。
なのに。
「桐ちゃん、友達をここに連れてきたの、早希さんが初めてなんですよ。……これからも…桐ちゃんをよろしくお願いします、ね?」
千佳ちゃんがペコリと頭を下げるものだから、つられて私もペコリと挨拶する。
頭を下げてから、「いや、この反応はおかしいよね」とハッとする。
でも、千佳ちゃんはニコニコするばかりで。
素直で全然邪気がないから、私も思わず笑みを返してしまう。
「あ、そう言えば、ここのギャラリー、桐ちゃんの絵もあるんですよ?」
彼女が指さした絵。
それは真っ赤に染まった町並みだった。
建物の朱と真っ黒な影。大胆な構図。力強いタッチ。
席を立って、絵に近づいてじっくり見てみる。
何気なく彼はもっと優しい色合いの絵を描くと思い込んでいた。
橘桐人の絵が繊細で、優しい印象だったから。
だから、凄く驚いた。
「ね、上手でしょう? 桐ちゃんが中3の時、描いた作品なんですよ。うち、画廊喫茶なんてやってるから、私のお父さん、絵を見る目はあるんだけど、とても中学生の絵に見えないってべた褒めだったんです」
後ろから千佳ちゃんの嬉しそうな声がした。
確かに中学生の絵には見えない。「そうだね、上手だね」と頷いて振り返る。
その時、携帯を片手に、こちらに戻ってくる大沢桐人が目に入った。
ちょっとムスッとした顔をしている。
千佳ちゃんもその様子に気づいたようで、慌てて元の席に戻る。
「……で、ご注文は?」と小さな声で、私に尋ねる。
だけど、大沢桐人は耳ざとく、早希ちゃんの声を聞きつけたようだ。
「…って、千佳、まさかまだ注文取ってないわけ? 職務怠慢でオーナーに言いつけるぞ」
「ご、ごめんなさいっ!…」
「どうせ、早希にいらないこと吹き込んでたんだろう?」
「いらないことなんて言ってないよぅ。桐ちゃんのこと、褒めてたんだもん――」
大沢桐人の突っ込みに、おたおたする千佳ちゃんが微笑ましくて、クスリと笑ってしまう。
彼が本気で怒っていると信じて必死で宥めようと頑張っている様子に、悪いと思いながら口元が緩むのを止められない。
そんな私をチラリと見て、彼がちょっと柔らかい表情をする。
「まあ、許してやるか。……千佳の特技に免じて」
「…私の特技?」
不思議そうな顔をする千佳ちゃんに、ちょっと意地悪な顔で彼が答える。
「そう。本人はごく真面目にやってるつもりなのに、なぜか周りを笑いの渦に巻き込んでしまうというおまえの特技」
「――――なによ~~~、それっ!!!」
真っ赤になって怒っている千佳ちゃんが可愛くて。
大沢桐人と一緒にプッと吹きだしてしまった。
ちゃんと笑えていることに、改めてホッとしている自分がいる。
大沢桐人が「やっと笑った」と、照れたように呟く。
「じゃ、千佳、ちゃんとオーダーとって。俺はブレンド。で、早希は?」
ちょっと考えて、早希ちゃんにメニューを返しながら、注文する。
「……私はミルクティーで…」
本当はクリームソーダが好きなんだけど、子供みたいだし。
大沢桐人の前では、恥ずかしい。
そう言えば、女友達と一緒の時も、ちょっと見栄を張ってコーヒーとかミルクティーとかを注文することが多いかも。
―――浩平の前だったら、全然平気なんだけど。
そう思って、はっとした。
結局、何かにつけて思い出すのは浩平のことだ……。
今更ながら気付いた事実に、私は小さく溜息をついた。