1、私にそっくりな少女
「ねえ、浩平。本当にこの蔵の中に、目当ての楽譜ってあるの?」
薄暗い屋内に、見渡す限り整然と積み上げられた木箱の山を見上げ、私、川瀬早希はふうっとため息をついた。
学校帰りに母親に言付かった届け物のため、立ち寄った橘浩平の家。
その蔵でゴソゴソ捜し物をしている彼に気が付いたのが運の尽きだった。
もう、かれこれ小一時間、一緒に探しているが見つからないのだ。
制服の上にはコートもはおり、首にはマフラーも巻いてはいるが、さすがに1月半ばのこの季節に、暖房のない屋内の作業はこたえる。
「姉貴がここにあるはずだって言ってたんだけど。あの人の言うことだから、俺もちょっと自信ないし。早希はいいよ、ここ寒いだろ。俺一人でもう少し探してみるからさ」
幼なじみの腐れ縁。
浩平と私の関係を一言で言うとそうなる。
お互いの親同士が友達同士で、家も近かったせいもあって、物心ついたときから、一つ違いの姉弟のように過ごしていた。
私が通う高校に浩平も一年遅れで入学し、今もその関係は幼い頃と変わらない。
一人っ子の私にとって、浩平は口は悪いが困ったときには頼りになる「兄」のようでもあり、何となく放っておけない「弟」のようでもあり、何でも気軽に話せる気心の知れた「親友」のような存在でもあった。
「制服、埃だらけになるぞ」
脚立の上から浩平の言葉が降ってくる。
「どうせ、もう埃だらけだもん。もうちょっと付き合ってあげるわよ」
と、私は苦笑いで答える。いつものごとく、乗りかかった船だ。
浩平の家は、彼のお父さんが10何代目とかいういわゆる旧家で、蔵の大きさも半端じゃない。
最近納められたようなプラスチックの衣装ケースに収まった物もあるが、大部分は大小様々な大きさの古びた木箱や長持、行李といったものだ。
中には彼の家の歴史を証明するような、年代物の掛け軸やら陶器やらが、納められているらしい。
鑑定に出せばびっくりするような高値がつくものもあるそうだ。
そんな古い蔵だから、ほこりの量も半端じゃない。
浩平のお母さんが、時々は中の物を虫干ししたり、掃除したりもしているようだが、主婦一人の力では手がつけられないような箇所もたくさんあるのだ。
「その楽譜って、なければ困るんでしょう?」
「う~ん、なければ買いに行かなくちゃいけないかなぁ。『卒業生を送る会』で、ピアノの伴奏頼まれちゃってさ。気が進まないんだけど、断り切れなくて……」
「『卒業生を送る会』って……例年音楽科の生徒しか出演してないやつでしょう? すごいじゃない、浩平。普通科の生徒が演奏を依頼されたなんて話聞いたことないよ」
「演奏じゃなくて伴奏。音楽科でバイオリン弾いてるヤツに頼まれたんだよ。そいつ、同じ中学校だったヤツで、拝み倒されてさ……」
浩平がピアノを始めたのは幼稚園の頃。
教室に通い始めた私を見て、浩平は「僕も一緒に習う」と言ってきかなかったらしい。
幼い頃の浩平は、いつも私の後を追っていたから。
だが、浩平にはピアノの才能があったのだろう。私と違い彼はメキメキ上手くなった。その上達の早さは先生がびっくりするほどだった。
私は中学校で運動部に入ったのを機に、ピアノはやめてしまったが、その頃から浩平は新しく電車で小一時間かけ、某音大の教授の元にも通うようになっていた。
だから、浩平が私と同じ高校を受けると聞いた時、てっきり浩平は音楽科を受けるものと思っていたくらいだ。
「でも、浩平のピアノが聴けるなんて嬉しいかも。浩平のピアノ、私大好きだもん」
「…おまえ、そんな恥ずかしいセリフ、よく平気で言えるよな」
「そお? だって本当にそう思ってるんだもん。私、浩平のファンだから」
脚立の上を見上げながら笑いかけると、浩平がフッと目をそらして呟いた。
「…危なっかしいよな。早希は」
「? どういうこと?」
「……誰に対しても全然無意識で、期待させるようなこと言うだろ? いつも」
「期待って?」
「……高校2年にもなって、ホント天然!」
むっ、何よ、それ?!
「……来月は空手の試合もあるし。俺、個人戦だけじゃなくて団体戦の方でも選手登録されてるから、練習出なかったら、先輩にどやされるだろうな」
「え? じゃあ、断っちゃうの?…」
浩平は小学生の頃から空手を習い始め、こちらも相当な腕前なのだ。
彼の部屋のクローゼットには、かなりの数のトロフィーや盾が眠っている。
空手との両立は、ピアノの先生には渋い顔をされているようだが、頑としてしてやめようとしない。
試合中の浩平の活躍は、応援にかり出された幼なじみとしては鼻は高いが、やはり私はピアノを弾いている浩平の方がステキだと思うのに、な……。
少し、がっかり。
私はちらりと浩平に視線を走らせ、目を伏せた。
捜索中の棚には目当ての物は無かったようで、浩平は脚立から下りてきた。
そして、私に視線を向け、はぁっとため息をついた。
「…でも、断れないよなぁ。期待されてるんじゃ。まあ、なるようになるか」
「え!?」
「正直、まだ迷ってたんだけど、そんなガッカリしたような顔されちゃうと、な?」
「?」
「ファンは大事にしないといけないよな、うん」
浩平はそこで話を打ち切り、新しい棚の捜索を再開すべく脚立を私の側に移動させた。
ひょっとして、私に気を使ってくれたのかな。
よし、ここは素直にお礼を言っておこう。
「…ありがとう」
「…別に早希から言われたからってわけでないから。さっきも言ってたように断りにくい状況で……相手、かなり押しの強いヤツでさ。とにかく、マジで楽譜探さなくちゃな。もし見つかったら、楽譜代、浮いた金、山分けしようぜ。何か奢ってやるよ」
「えっ? 本当? じゃあ、私も真剣に探す!」
今まで真剣じゃなかったのかよ…という言葉を聞き流しながら、私は浩平を制して脚立に上がりまだ手をつけていない棚の捜索に取りかかった。
プンと黴くさいすえた紙の臭いが、幼い頃の記憶を揺り動かす。
「……この蔵に入るのも久しぶり。懐かしいな。小さい頃は、よく二人で冒険と称して、ここに潜り込んでは叱られたよね。私のこと、お姉ちゃんって呼んだりして、あの頃の浩平、可愛かったよねぇ」
私に脚立を取られた浩平は、少し離れた棚に並ぶ古い行李を引っ張り出し、中をチェックしようとしていた。
過去の思い出に浸る私を軽く一瞥し、ぶっきらぼうに浩平が答える。
「年上って言っても、生年月日、一週間しか違わないじゃん。いつまでも姉貴面するなよな」
「私は3月26日生まれ、浩平は4月2日生まれ。一週間違いでも、一学年違うんだもん。ホントなら私のこと、『川瀬先輩』って呼ばなきゃいけないんじゃない?」
最近特に浩平は年下扱いされることを嫌う。
それは感じているのだが、ついついからかってしまうのだ。
「……年上だって言うなら、幼稚園の頃ならともかく、ちょっとは女らしくしたら? 一緒に探してくれるのは嬉しいけど、制服のスカートのまま脚立に上るなって。目のやり場に困るし。俺だって男なんだからさ」
「大丈夫よ。中にはちゃんと体操服の短パンはいてるもん」
「…それって中坊の言葉じゃん。高2のくせに、早希はホント色気の欠片もないよな」
『色気の欠片もない』と言われ、カチンときた。
売り言葉に買い言葉。
「ちゃんとステキな男性の前なら、私だって女らしくなるもん」
浩平もいつもの調子で言い返してくるに違いない。
そう思って身構えていたのに、浩平はなぜか傷ついたような瞳で、「そっか」と私を一瞬見つめると、くるりと背を向け、黙々と楽譜探しに没頭しだした。
怒ってる? どうして?
いつもの冗談なのに。
自分だって私のこと、『色気の欠片もない』なんて言ったくせに。
うろたえて、泳いだ視線の先に映ったもの……。
「…あっ、ひょっとしたらあれじゃない?」
棚の上に楽譜のような冊子を認めた私は、脚立の上で背伸びをした。
……届かない。
仕方がないので、その下に積まれている物も、まとめて引っ張り出そうとした時だった。
「おい、ダメだ、早希。そんな下から引っ張ったりしたら――――」
浩平の止める声がしたが、私が力任せに引き抜いた方が早かった。
とたんに上に積んであった物が、ものの見事に崩れてきた。
それらは見事に私の上に降ってきて、私は脚立の上でバランスを崩す。
「!?」
完全に後ろに重心が傾き、脚立から足が離れた。
そのまま背中から床にたたきつけられる筈だったのだが・・・。
棚の上のものがバサバサッと床に落ち、辺りは埃がもうもうと立ちこめる。
「おいっ、大丈夫か?」
身体の下から声がした。
浩平がとっさに庇ってくれたため、私は彼の上に軟着陸することになったのだ。
「うん、大丈夫……ありがと」
私の返事にホッとしたような空気が伝わってくる。
びっくりした。
落ちていく間、グイと引っ張られた腕が少し痛い。
すごい力。浩平ってやっぱり男の子なんだ。
脚立から落ちたショックより、そんな当たり前なことに気づいたことがショックだった。
小さい頃からずっと浩平の事は私が守ってあげなくちゃいけないように思っていた。実の弟に接するように。なのに、いつの間に立場が逆転してたんだろう。
その上、今浩平の上にすっぽり収まっているようなこのシチュエーション。
一体どうやって取り繕えばいいの!?
変に緊張して、体を固くしたその刹那、
「・・・重っ!」
浩平の声。
「って、ちょっと失礼ね!!」
浩平の上から、怒って飛び上がる私に「ホント、相変わらずそそっかしいよな」といつもの毒舌。
いつもと変わらない浩平。なんだかホッとする。
だが、立ち上がろうとしたその瞬間、浩平は「いっ…」と呟き、再びストンと尻餅をついた。
「どうしたの?」
「う……ん、立てない。ちょっと足…挫いたみたい」
「嘘!?……」
とたんに私はオロオロしてしまう。
「そんなたいしたケガじゃない、そんな顔するなって」
と浩平は私の頭を軽く叩いて、気を逸らすように辺りを見回した。
「しかし、思いっきり散らかしてくれたよなぁ。……あれ? それって……」
私は浩平が指さした方向に目を向けた。
思ったとおり、棚の上にあったものは楽譜だったようで、辺りには何冊かの楽譜やら冊子、ノートなどが散らばっていた。
だが、浩平が指していたのは、中ほどのページを開いた状態の1冊のスケッチブックだった。
何気なく拾おうとして、ふと、手が止まる。
スケッチブックに描かれていたのは、若い女性だった。
眩しそうな表情を浮かべ、宙に手を差し伸べている。
描いた人物はかなりの画力の持ち主らしい。
鉛筆のデッサン画にも関わらず、その女性が浮かべている、はにかんだような微笑みには、見るものを惹きつける力があった。
この絵を描いた人物は、きっとモデルの女性に恋をしていたに違いない。
そんな優しさに溢れた描き方だった。
しかし、何より驚いたのは、その女性の造作だった。
少し気の強そうな二重の瞳。
若干太めの眉にかかる黒い髪。
頬にわずかに浮かぶ片えくぼ……。
……この人って……
「なんか、早希にそっくりじゃない?」
隣からスケッチブックを覗き込んでいる浩平が呟いた。
私が肩くらいの長さに髪を切りそろえているのに対し、スケッチブックの女性は真っ直ぐなロングヘアだった。
それ以外は、本当に私そっくりの肖像画。
だけど、私の筈はない。
なぜなら、スケッチブックの隅っこには荒々しい文字でこんな殴り書きがあったから。
『琴音 おまえをあきらめない―――』