社の噂
満月が夜空に浮かぶ刻、狛犬は闇に紛れて命を頂く。この地域にある神社ではそんな噂がある。小さい頃に、誰かから聴いたもの。もしくは聴かされたもの。好奇心からか愚心からかはっきりと掴めないが、僕を突き動かすものはなんとも恥ずかしがり屋である。どうにも姿を著そうとしないが、僕を動かす力だけは確かに存在する。今夜、友人と二人でその神社まで参拝に行くことにした。学校からの帰り道、重い鞄を持って向かう。大学受験という、退屈から逃れたかったのかもしれない。
気が滅入るような石段を登った先に、その神社の鳥居はやっと顔を見せる。その道は数多の木が両脇を埋め尽くし、地面には参拝者を迎え入れるように落葉のカーペットが敷かれている。秋が丁度折り返す時期であり、暗闇に紛れて分かりづらいがカーペットを赤や黄色で模様替えを施したようだ。その一つ一つを踏み締める度にカサカサと音を立てて、静寂に色を添える。鳥居の方に登るにつれて、段々と世界が色付いていく。街の外れの方にあり、人通りはおろか車が前を通ることすら珍しい。耳に入るのは僕達が生きる音と叢を抜けてくる虫の唄声、風が世界を揺らす音だ。とりわけ唄声は四方八方から、僕達を囲む籠だ。
階段を登るたび、心臓が大きく動くのがわかった。頭の方まで脈動を感じて、少し頭痛がくる。重い足をなんとか動かし、漸く鳥居の方に辿り着く。空では雲が所々で巣を作って、星達を取り込む。石で作られた滑らかな鳥居は、少し苔むして緑がかっている。満月は見上げる程の位置まで昇っており、鳥居の奥で鎮座しているのがはっきりと見えた。辺りに街灯などはなく、満月が唯一光を携えて僕達の事を待ち構えている。
「ここだね。今日は満月だし、ここの狛犬が動き出すらしいよ。まぁ噂にすぎないけどね。」
一緒に詣にきた友人の声が耳に入る。静かな境内で、その声は想像以上に大きく響いた。空気はこれでもかと鼓膜に触れてくる。
「見てみないと分からないさ。」
怯えるような、少し震えた声。風に混ざって彼の方に飛ばされていく。秋風はその震えに気がつくこともなく友人の方に向かって声を運んでいった。何かに納得したような顔つきで此方を見つめてくる。その目には怯えはなく、ただ好奇心と興味のみで構成された、輝く瞳が燃えている。友人は僕よりも身体を二つ分程前に置いて、ゆっくりと歩みを進めた。リードで繋がれたようにして、その後ろを着いていった。
そのまま前にある黒い服の裾を見つめると、自然と想起されるものがあった。なんでも、恐怖心が少し恋しくなる時期がしばしば僕に襲い掛かる。恐怖という感情は残っているのに、ただ妙にそれに酔いたくなるのだ。心臓を締め付けられる痛みは、再会した友のような安堵を僕に与えてくれる。ただ、平生から異物を好む訳ではない。恐怖が心にあると、なんとも居心地の悪い。だが、時々その居心地の悪さが、愛おしくなってしまう。
砂利がザッと擦れる音が一定のリズムで鳴る。石は一つ一つ生きているようにして、僕の足元に転がっている。夜になって、綺麗に整備されたはずの道には所々落葉が見られた。奥に向かうほど、紅と黄のグラデーションがより鮮明になっているのが分かる。月明かりに照らされて、先程よりも随分と色味が此方まで伝わってくる。落葉が風に飛ばされるのが目に映った。境内を照らす月明かりを頼りに、着実に社の方へと向かって進んでいく。
遠くの方で、ガサガサっと物音が聞こえた。後ろからだ。
「今の…何…?」
逃げるようにして友人の横にピッタリと張り付く。ただ、怖い物見たさである。何があるかは分からないが、そっと後ろを振り向いた。足先から、ゆっくりと体を捻り始める。葉が擦れて、黄色が地面に滲むのがよく分かった。首の方までしっかりと後ろを向く。そうすると、二匹の犬が、少しこんもりと溜まった落葉で戯れていた。この辺りではあまり見かけないが、飼い犬が逃げたのだろうか。
「なんだよー。驚かせるなって。」
友人も、僕に合わせて振り向いていたようだ。揶揄われて、そのまま前へと進む。すごく閑静な所で、人の声一つない。もう数十メートル程進むと、社の方へと着く。さらに少し歩みを進めると、鳥居の方から、ザーッと、何かが動く音。同じように聞こえる。どうせまた犬だろう。二度目は驚かないぞと、振り向くことはしなかった。獣らしい香りがすーっと鼻を刺す。僕の心は、一度振られた相手にはもう興味を持つつもりはなさそうだ。周りの木々は珍しい夜の客人に燥いでいて、葉がゆらゆらと揺れている。風がやたらと強く吹いていた。紅い木の葉がぽつぽつ降っている。秋風のせいで、肌寒くなってくる。
虫は、何かを知らせるように先程よりも強く強く鳴いている。この神社には時々しか来ないが、いつもよりも参道が伸びている気がした。寒気が背中にそっと触れる。無性に鳥肌が立つ。ごうごう…と一瞬突風が襲った。周りの石は少し転がり、落葉は宙を舞っている。少したじろいだが、せっかく此処まで来たのだから前に進むしかなかった。
秋風は、僕達の後ろで遊んでいるのがわかった。ようやく、本殿の方まで辿り着く。此処には、左右に狛犬が鎮座している…。はずだった。そこに2匹いる筈の石の狛犬は、何故か見当たらない。台座の後ろに落ちている訳でもなく、完全に姿を消している。雲に隠された訳でもなく、待てばその姿が現れるようなことは、あり得ない。
「帰ろう…。」
ぽつりと心の内が漏れる。息を吐くように。止めようとも思わなかった。もっとも自然な選択。友人も、かなり怯えている様子で、そのまま引き返そうとする。振り返ると、比べ物にならない程の音が轟いている。帰り道には、鳥居を塞ぐように落葉が荒れ狂っており、引き下がることは、如何やら許されなかった。
「進むしかないよ。」
友人の目には、もうその輝きは残っていなかった。闇の中と同化して、見える筈の目が見えない。だが寧ろ、今なら分かる気がする。僕を突き動かしたものが。満月は、相変わらず夜空でぽつんと浮かんでいる。本殿の方に向かっても、特に何も見当たらなかった。賽銭箱が寂しそうにしている。
そのまま、奥の方から何か物音がした。箒…?何かを掃くような音。人が居るのか…?本殿の裏辺りから、異質な雰囲気を放った巫女が現れる。何か、石のような無機質な感じがする。目には、星々が反射していた。
「あらあら。こんな時間に珍しい。」
甘い声をしていた。非常におっとりとした語り口調で、緊張が解ける。大仏に語りかけるような気持ちで、僕の中に隠れていた一握りの勇気は一歩前へと踏み出す。
「あの、彼処にあった狛犬は…?」
「あら、戻すの忘れてたわ。少し汚れていたから、本殿で掃除してたのよ。」
心の中にあった錘は、漸く消え始めた。僕の中の恐怖心は、もう十分だったと元の位置に帰っていく。噂は噂に過ぎなかった。舞っていた落葉も、きっと偶然強い風が吹いただけだ。二人で目を合わせて、笑みが溢れる。
「ところで貴方達、ここまでの参道で2回目は振り返らなかったのね。」
空気は明らかにその重さに耐えかねて、今にと割れそうになっている。満月は相変わらず空から僕達を見下ろす。周りの木々は、いつの間にか真紅に染まり始めていた。




