TARGET02:ご令嬢(2)
■
ミドリがサングラスを外す暇もなく、敷地内への侵入は鮮やかに行われた。ダイヤが宅配業者を装って標的の邸宅に電話を入れて、今晩配達予定の荷物があった旨、事故の影響で到着が遅れている旨、生ものであるから今日中に届けたい旨を伝えてあったため、大手宅配業者のラッピングを施した軽ワゴンはあっさりと門の警備を通過することができたのだ。
サッカーでもできそうなくらいに広い駐車場には、一台の値段で一般的なサラリーマンの年収を軽く超えるであろう高級車が何台も駐まっており、やはりサッカーをするのはやめておいた方がよさそうだと思う。その一角に駐めるには場違いな軽ワゴンの運転席で、ダイヤは薄っぺらい一枚の紙と睨み合っていた。
「これ、計画書って言えるのかしら」険しい目つきで彼女は言う。「上の空の電話メモ、あるいはおばあちゃんの秘伝レシピ、だわ」
「どういうこと?」
「それくらい要点しか書いてなくて、その肝心の要点すらも解読不能ってこと」
すかさずミドリは「ほらあ」と大袈裟に言ってみせた。
「やっぱり人様の案件を引き継ぐとろくなことにならないんだよ。安請け合いするからそうなるんだ」
「幸いなのは、標的の名前と顔写真だけは分かるってことね。それから大まかだけど間取りも」
ミドリの指摘を気にも留めないダイヤの態度が面白くなく、ふうん、と言いながら彼女の手から計画書を奪い取った。そこに並ぶ情報に目を通す。
標的の名は花京院麗子、十七歳。資産家として有名な花京院家のご令嬢であり、たった一人の娘らしい。依頼者の情報もその目的も、『計画書』という呼び名は分不相応なこの紙切れには載っていないが、湯水の如く身代金を搾り取れるであろう名家のご令嬢とあらば、誰から狙われてもおかしくはなかった。
計画書をダイヤに突き戻すと、ペラリ、と紙が翻る音がした。ダイヤは黙ってそれを受け取る。
「副社長にはああ言ったけどさ」
「なんの話よ」
「ダイヤちゃんは確かに腕は良いと思う。それは認めるよ。それに、俺との相性だって悪くない」
「それはどうも」
「でもやっぱり俺たちは、所詮は『餅つきの関係』なんだよね。分かる?」
「さっぱり分からないわ」分からないというよりは、どうでもいい、と言いたげな顔に見える。
「ダイヤちゃんがつき手で俺が合いの手。一見息がぴったり合ってるように見えても、リスクを負ってるのは俺一人だけってこと」
「よく言うわね。一人じゃ何もできないくせに」
「俺にできないことがあるとでも?」
「運転」
「それは仕方ない。免許がないんだから」
「取りなさいよ」
「戸籍もないんだよ」
「どうして」
「捨て子だからね」そう言うと、ダイヤの目が少し丸くなった。「出生届を出す前に捨てられたみたいでさ。その後も施設を転々としてて、気づいたら親父に拾われてたってわけ」
「そういう事情なら、戸籍くらいそう難しくなく作れるんじゃないかしら」
「まあね。でも色々と面倒でさ。身の回りの世話は全部親父たちがしてくれてるし、なくても困らないから。って、そうじゃなくて」
気づけばすっかり話が逸れていた。さすがにここで雑談をしている時間はない。今は餅つきの話だ。
ミドリはサングラスを外し、ダッシュボードの上に置いた。足元の荷物から宅配業者の制服のキャップを取り出すと、それを目深に被る。
「要するにさ。こういうのは全部俺に任せとけばいいってこと」
■
この屋敷には巨人の一族でも住んでいるのだろうか。なんてくだらない想像を巡らせたくなるほど無駄に背の高いドアの横に取りつけられたチャイムのボタンを押すと、リンゴーン、と心なしかゴージャスな音が鳴った。
インターホンでミドリが名乗ると、すぐに巨人サイズのドアが開く。そこに現れたのは、ごく一般的なサイズ感、むしろやや小柄と言ってもいいくらいの初老の男だ。タキシードなどという堅苦しい正装をしているところを見ると、この屋敷こそが彼の職場であり、つまるところ彼は使用人の類いなのだろう。少しの警戒心も見せない人当たりの良さそうな顔で、彼はミドリを出迎えた。
「どうも。夜分遅くにすみません」小道具として持ってきた段ボール箱を強調するように掲げながら、ミドリは挨拶をした。
「これはこれは。遅くまでご苦労様です」と使用人も応じる。
「花京院麗子様宛てのお荷物です」
「はい。こちらでお預かりいたします」と使用人が手を伸ばそうとしたところで、「いえ」とミドリは制止する。
「重いですから。麗子様のお部屋までお運びしますよ」
「そこまでしていただくわけには」使用人は戸惑うような顔をする。「それでしたら、玄関に置いて」
彼が言おうとした瞬間、ミドリはキャップの鍔を上げた。使用人と真正面から目が合い、彼の瞳からみるみる光が失われていく。
「麗子様のお部屋までお運びします」
ミドリがもう一度言うと、「では、ご案内します」と使用人は背を向けた。その動きは緩慢で、どこかゾンビめいて見える。重いですから、と説明したはずの段ボール箱は、ミドリの小脇に軽々と抱えられていた。
ドアを潜ると、鏡面のように磨き上げられた大理石張りの玄関ホールが現れた。サッカーとまでは言わないものの、卓球くらいならできそうな広さがある。
使用人に促されるがまま、あまり宅配員らしいとは言えない私物の革靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。階段で二階へ上がり長い廊下を進むと、こんな夜遅くにも仕事があるのか、途中何人かの他の使用人たちとすれ違った。皆一瞬、ミドリの顔に不審そうな視線を送ってくるが、その瞳を真っ直ぐに見つめ返してやると、彼らはその場に立ち尽くして動かなくなる。
多分本当は、ミドリが人を支配するのに性行為なんて必要ないのだ。この呪われた翠色の瞳で相手の目を見つめる、それだけで充分なのだろう。それでも彼らと身体を重ねるのは、魂を囚われわけも分からぬままミドリを求める彼らがいじらしくて、たったひとつ残った憐れなその欲望に応えてやりたくなるからだった。
部屋の数を数えるのは途中で諦めた。ミドリを先導する使用人が何枚目かのドアの前で立ち止まり、コンコン、とノックをした。
返事はない。もう眠っているのだろうか。
使用人を押し退け、断りもなく部屋に入ると、豪奢な天蓋つきのベッドが真っ先に目に入る。後ろ手でドアを閉め、そのカーテンの中で眠る者に歩み寄る。
そこにいるのはまだ十七歳の少女だ。
彼女のこの先の人生を憐れみながら、微かに吐息を漏らすその唇に、ミドリの唇を重ねた。




