TARGET01:市長(3)
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運転席に座る相棒が、苛立ったように指先でトントンとハンドルを叩いた。
艶のある黒髪をハーフアップにしたその横顔をよく見ると、額から鼻筋は美しくS字のカーブを描き、唇には柔らかな厚みがあり、びっしりと生えたまつ毛は天に向かって伸びていて、彼女が半端ではない美貌の持ち主であることが分かる。イブニングドレスでも着せて、ほんの少し目蓋に彩りを乗せれば、誰もが心を奪われる艶やかな華を咲かすだろう。しかし、彼女が身を包むのは、さながら就活生のように没個性的な黒スーツであり、化粧っ気もない。そして何より、顔の真ん中に鎮座する飾り気のない楕円形の眼鏡が、彼女の美貌全てを覆い隠していた。
その分厚いレンズを押し上げながら、金剛ダイヤは言った。
「おかしいわね。撒いたと思ったんだけど」
振り返ってみれば、五台ほど後方に黒のクラウンの姿がある。一度は振り切ったはずだが、それにしては捕捉されるのが随分早い。ダイヤの運転する車は極力直進を避け、左右に不規則に方向転換していて、一旦見失ってしまえばそう簡単に探し出せるような動きをしているようには思えなかった。
「そもそも、初めに見つかったのが早過ぎたのよ」彼女の声色は刺々しく鼓膜をつつく。「市長さん。あなた、誰かに行き先教えたりしてないでしょうね?」
ダイヤの問いかけに対して、ワンテンポ遅れて後部座席から返答がある。
「当然です。私が彼との約束を違えるわけがない」
それは今日の標的、テレビでも時折見かける、とある自治体の名物市長の声だ。
彼は話し方こそしっかりしているものの、その声はどこか平坦で、虚ろに聞こえる。これもミドリの虜になってしまった者に共通する症状だった。屍のように感情を失いミドリに服従するその様は、まるで操り人形のようであり、ゾンビのようでもある。そして彼らは、ミドリと肌が触れ合うときだけ息を吹き返したように生き生きとするのだ。
「ただ」と市長は言葉を継ぐ。「近頃何者かから『次期市長選への出馬を取りやめなければ殺す』と脅迫を受けていたので、今日のパーティでは警備に厳戒態勢を取らせていたんです。だからもしかすると、ホテルを出た時からボディガードに尾行されていたのかもしれません」
「せっかくミドリと時間差で出てきてもらったのに。あまり意味なかったわね」
言いながら、ダイヤはまたアクセルを踏んだ。
これでもう何度目になるか。ダイヤは対向車や信号の動きを利用して器用に追っ手を足止めし、その隙に彼らの死角になるはずの通りに滑り込んだ。しかし数十秒も経てば、またしても数台後ろにクラウンの姿が現れる。
こんな街中では派手なカーチェイスなどできもしないため、それ以上のことは起こりはしないが、かと言って追っ手を引き連れたままアジトに帰るわけにも行かず、ダイヤは苛立ちを募らせていた。
ダイヤの動きが読まれている? いや、というよりは。
「まるで発信機でもつけられてるみたいな動きだね」
ミドリが何気なく思いつきを口にすると、ダイヤが途端に顔色を変えた。
「そうか発信機! 厳戒態勢って言ったものね。市長さん、あなた携帯電話とか持ってない?」
「ありますが」
「捨てて」
「はあ」
「窓から携帯を捨てなさい。今すぐ」
「いや、でも。それはさすがに、困りますから」
ちっ、とダイヤが舌を打つ音がした。「ミドリ」
「ノブ君、お願い。捨てて?」
ミドリが言うと、市長は一切の躊躇いも見せずに窓から携帯電話を投げ捨てた。回転しながら放物線を描く長方形に、キラリと最新型のカメラレンズが光る。
「ほんっと気色悪い」ダイヤが悪態をつく。
「やらせたくせに文句言わないでよね」
「なんなのよ、『ノブ君』って」
「市長の名前だよ。『カツノブ』君」
「知ったこっちゃないわ」
大きな交差点に差しかかり、ダイヤは直進を選んだ。クラウンとの間にいた車が次々と左右に折れ、再び追っ手がぴたりと背後につく。
「ねえ市長さん。あなた、殺害予告を受けても出馬を取りやめなかったんでしょ?」
「無論です。我々政治家が暴力に屈するのは、即ち民主主義の死を意味しますから」
「ならどうして私たちには従うのかしら。多分私たち、あなたを脅迫したのと同じ人の差し金なんだけど」
「それは違います。私は今、私の自由意志でここにいるのですよ」
「どうして」
市長はやや恥じらうようにしながら、しかし淀みなく言った。
「彼を、愛してるから」
「ちょっとダイヤちゃん!」
市長の決め台詞を邪魔して申し訳なく思うが、状況はそれどころではなくなっていた。
「あいつら、銃持ってるんだけど!」
クラウンの助手席にいる黒スーツの男が、拳銃をこちらに向けて構えているのだ。市長の携帯電話が捨てられたのに気づいて、強硬手段に出ることにしたのだろうか。こちらは市長を乗せている以上、ボディガードである彼らがあまり危険な行為に及ぶとも思えないが、タイヤの一つでも撃たれたらたまったものじゃない。
「あら。政治家の手下が暴力を振るってもいいわけ?」
「目には目を、暴力には暴力を、ですよ」平然と市長は言う。
「喋ってないで早く撒いて!」
「そっちこそ、喋ってると舌噛むわよ」
その瞬間、振り落とされそうなほどの強い遠心力がかかり、ミドリは右に薙ぎ倒された。ダイヤにぶつかるすんでのところでシートベルトに抱き止められ、勢いをあまらせた上顎が舌にエナメル質のギロチンを落とす。
「いってえ! 舌噛んだ!」
「本当に噛むことあるかしら」
ダイヤの急ハンドルにより、幹線道路を走っていたはずの車は直角に左折し、いつの間にか閑静な住宅街に侵入していた。車間距離をギリギリまで詰めてきていた追っ手のクラウンは曲がり切ることができなかったらしく、その姿はなくなっている。
住宅街なだけあって、標識に掲げられている制限速度は三〇キロだ。ダイヤは律儀にそれを守ってトロトロと速度を落とす。
「ちょっとダイヤちゃん? 何のんびりしてんの」やきもきしながらミドリは言った。
しかしダイヤは余裕の表情だ。「だって危ないじゃない。暗いし、道狭いし」
「せっかく撒いたのに、早く行かないとまた見つかっちゃうよ」
そう言ったそばからだ。一区画先の交差点に不意に光が差したかと思えば、右から左に例のクラウンが走り抜けた。
「ほらあ!」
「あの様子だと、こっちの位置は把握できてないみたいね。やっぱり携帯を捨てたのがよかったのかしら」
「いやいや、絶対今ので気づかれたって!」
住宅街に人気はなく、交通量は無に近い。その気になれば車の一台くらいエンジン音を頼りに探し出せそうなくらい静かだった。追っ手に見つかるのも時間の問題だ。
窓を開けてみればほら。微かに聞こえるエンジンの音。それはすぐに遠ざかって消えてゆき、また背後から迫り来る。
まさか、もう追いつかれた?
いや、違う。後方から聞こえるのは、もっと小型の駆体、恐らく二輪のエンジン音だ。なーんだ、近隣住民のご帰宅か。
そう思ったのも束の間、エンジン音がミドリたちの乗った車を追い抜く瞬間、運転席の窓に映ったその姿に、ミドリの背筋は凍った。
ある種、追っ手に見つかるよりもまずいかもしれない。それはミドリたち無法者の天敵とも言える相手、白バイだった。
白馬に跨がる王子様の如く純白の二輪車に乗った制服警察官は、ダイヤに何やら合図をして車を止めさせた。
パワーウィンドウを下げるダイヤに対して、警察官は「ご協力ありがとうございます」と儀礼的に頭を下げ、免許証の提示を要求する。
ダイヤは素直に警察官に従い、免許証を彼に手渡した。それを改めながら、「金剛さんですね」と警察官が言い、ミドリは思わず、えっ、と声を上げそうになる。
ダイヤちゃん、偽名の免許証渡したの?
運転免許証の偽造なんて、警察の手にかかれば一発でばれてしまう。だからこういうときに限っては本物の免許証を使うのがミドリたちの常識だった。
もう駄目だ。ダイヤは確実にこの場で捕まるだろう。免許証の偽造は案外罪が重く、同伴者のミドリにだって任意同行がかかる可能性が高い。この際ダイヤのことは諦めても構わない。せめてどうにか自分だけでも逃れる手段はあるだろうか。いや、無理だ、ない。逃げようとすればするほど、余計に怪しまれるのが落ちだ。
どぎまぎしながらも状況を見守ることしかできないミドリだったが、そんなミドリの心配をよそに、意外にも職務質問は淡々と行われる。
「ご職業は?」
「会社員です」
「ご住所はこのあたりではないですね。ここで何を?」
「実は、その。気のせいかもしれないんですけど」
とそこでダイヤは言い淀んだ。が、その口調はどこか芝居がかって聞こえる。
「どうかされましたか」
「後ろの車に、跡をつけられてる気がしたんです。だから怖くなって、脇道に逃げ込んで」
しかし警察官は見事に彼女の演技に騙され、正義感を滲ませた表情で大袈裟に頷いてみせた。
「それは災難でしたね。その車の特徴は?」
「黒い車体で。多分、クラウンだったと思います」
「黒のクラウン、ですね。分かりました、警察の方でも注意しておきます。この辺りでは不審者も目撃されているようですから、お気をつけて」
そう言って警察官は再び頭を下げて、あっさりと去っていった。
その姿が見えなくなるのを見届けてから、はぁー、とミドリは腹の底から息を吐いた。
「危なかったあ」
「別に、大したことないでしょ」
「いやいやいや!」涼しげな顔で言うダイヤに、ミドリは詰め寄る。「あのさダイヤちゃん、本物の免許証持ち歩いてないの?」
「どうして?」
「警察官には本物を見せなきゃ。今回は何故だか運良くばれなかったけど、照会されたら偽造かどうかなんて百パーセント分かっちゃうんだから。そんなの常識でしょ? しっかりしてよ」
事の大きさが伝わったのかどうか。語気を荒くするミドリにやや眉を顰めながら、ダイヤは「そうね」とだけ言って頷いた。そのあまりの反応の薄さに、ミドリはがっくりと肩を落とさざるを得ない。
想定外のトラブルが立て続けに起こり、時間は既に計画より三十分以上押している。さっさと市長をアジトに届けて、家に帰って寝たいところだった。いや、その前にシャワーも浴び直したいな。夕飯は、さっきのクレープってことでいいや。
そんなことをぼんやりと考えていると、ダイヤがシフトレバーに手をかける動作が暗い車内に克明に浮かび上がった。何者かに正面から照らし出されたのだと分かり顔を上げると、光り輝く二つの目玉がこちらを睨んでいた。
「あっ」
強い光に紛れ、車体まではよく見えない。が、ライトを反射する中央のエンブレムだけは、どうにか見て取ることができた。
「クラウンだ」
眩い目玉はみるみるうちに大きくなり、正面衝突も厭わないような勢い迫ってきていた。ダイヤは素早く車を切り返し、クラウンに背を向けて発進する。
「ダイヤちゃん! もっとスピード出して!」
「制限速度ギリギリ。これが限界よ」
「そんなのどうでもいいって!」
「駄目よ。お巡りさんが来ちゃうもの」
「言ってる場合じゃないでしょ!」
その時だった。
まるで光の矢のように、白い影が窓の外を駆け抜けていった。
振り返るとそこには、クラウンに立ち塞がる白バイ警察官、いや、白馬の王子様の姿があった。




