TARGET03:消えた宝石(2)
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忘れようと思えば思うほどそのことを思い出してしまうもので、忘れろと言われて忘れようとするのが、そもそも土台無理な話であった。それでも彼のことを忘れようと努めるのは、偏に彼との約束だからだ。それは互いに契り合ったものではなく、一方的に課せられただけのものだったが、この手にただひとつ残された彼との大事な繋がりだった。
あの日以来、俺は毎日必死で彼を忘れて生きてきた。性に合わないと思っていた清掃員の仕事も、数ヶ月も真面目にこなせば随分と板についた。初めのうちは素性の知れない俺を怪しんでいた上司も、ようやく信頼してくれるようになってきたところだ。
しかし、それも全部、捨ててしまった。地道に積み上げた日々は、いとも簡単に崩れ去った。あいつが現れたせいだ。
先週、仕事中のことだった。その日はホテルの清掃の仕事だった。客室の清掃はホテルのスタッフがやるので、業者が入るのはそれ以外のエリアだ。最上階から順に掃除をしていき、宴会場のあるフロアのトイレの清掃に入ろうとした瞬間だった。
清掃員の制服を着た男が、トイレから出てきたのだ。
ひと目で分かった。あれは同僚ではない。見間違えようもない、あいつの姿だった。あろうことか、見知らぬ小太りの男を引き連れて。
何故彼がここに? などと疑問に思うのは忘れていた。ただあの日の鮮烈な記憶を思い出していた。脳が痺れるような感覚、微睡む意識、相反するように鋭敏になる身体。
もう一度、あの翠色に溺れたいと思った。
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神経質になっているせいなのか、家の中の物の位置が少しずつ変わっている気がする。例えば玄関の革靴。家を出る時に蹴散らしたような気がしていたが、帰った時には綺麗に揃えられていた。例えばソファのクッション。先程まで右側に頭を向けて寝転がっていたはずなのに、どうしてクッションが左側にあるのか。例えば携帯の充電器。いつも二口コンセントの下側に挿しっぱなしだったと思っていたが、今は上側に挿さっている。
気のせいだろうか。気のせいかもしれない。気のせいなはずだ。しかし玄関の鍵は開いていた。誰かに侵入されたとしても不思議ではない。とはいえ家を空けていたのはたかだか二十分程度だ。たったそれだけの時間で何かできるものだろうか。いや、二十分なんて、手慣れた業者にしてみれば充分過ぎる時間かもしれない。いやいや、少し考え過ぎではないか。いや、いや。いや。
堂々巡りの不毛な思考を幾度となく繰り返し、ミドリは唐突にリモコンを手に取った。くだらないテレビ番組でも見て、気を紛らわそうと思ったのだ。
電源を入れると、ニュース番組が画面に映った。
「あ」と声が漏れる。またこのニュースだ。
『本郷電機前社長行方不明からまもなく七年』のテロップが、センセーショナルに打ち出されていた。スタジオには専門家を呼び、事件について解説をしている。
『本郷前社長の行方不明から約七年が経過し、改めて事件への注目が集まっていますが、一体どうしてなん、しょうか』
『はい。行方不明者の生死が七年間明らかにならな、場合、家庭裁判所への申し立てにより普通失踪が認められ、行方不め、は法律上死亡したも、とみな、れます』
なんだ?
映像が乱れ、音声も途切れ途切れになっている。放送事故かと思ったが、アナウンサーが謝罪を挟む気配はなく、淡々と解説は続いていた。
テレビの不調だろうか。
そう思ってミドリはチャンネルを回した。画面に映ったのはお笑い番組だ。去年の漫才の賞レースで一躍人気になったコンビがネタを披露していたが、渾身の突っ込みのところで再びノイズが入り、何が面白かったのか理解できない。不審に思い上から順にボタンを押していくと、どのチャンネルでも同じような症状が現れることが分かった。
やっぱりおかしい。アンテナの故障? だったらいいが。
ミドリには、ある一つの可能性が思い浮かんで、頭から離れなかった。
盗聴器。
ミドリはテレビを消してリビングを飛び出し、寝室のベッドに潜り込んだ。
晩酌でもしようと酒とつまみを買ってきたことなど、すっかり忘れていた。
◇
屋敷には最低限の使用人しか置いていないようで、セキュリティのようなものはほとんど機能していないらしい。ダイヤが名前を名乗ると、その真偽を確かめもせずに中へ通された。もちろんここで名乗ったのは、金剛ダイヤなどというふざけたコードネームではなく、本当の名だ。
部屋数は少なく、客間なんてものはない。日本にいた頃とは比べものにならないくらい、小さくてみすぼらしい家だ。その男は、自室に籠って窓から遠くを見つめていた。
「パパ」
そう発音した自分の声に悪寒が走りそうになるが、なりふり構ってなどいられない。これはこの男に言うことを聞かせるための、呪文のようなものだ。
男はゆっくりと、錆びたロボットのようなぎこちない動きでこちらを振り返った。その磨りガラスのような曇った瞳に覚えがあり、かつて相棒がこの男を担当したという話は本当だったのだなと実感が湧く。
「パパ、ひさしぶり」
二十年以上前に他界した母に瓜二つに育ったこの顔も、この男を口説くのに都合がいいはずだ。
「会いたかったわ」
男はぼんやりとダイヤの顔を眺めると、しばらくしてようやく「ああ、おまえか」と言った。
寝ぼけたような声色からは、かつての明敏ぶりの面影も見られない。心なしか、引き締まっていた体躯もいくらか丸くなっているような気がした。
「どうしてここが?」男が尋ねる。
「どうもこうも。分かってるんじゃないの? パパの誘拐を依頼したの、叔父さんだってこと」
七年前、この男は確かに英明な社長だった。彼の祖父が興し、彼の父が上場企業にまで育てた会社を、彼の代で日本を代表する企業にまで押し上げてみせたその手腕は、並大抵のものではない。
しかしそんな彼にも唯一にして致命的な欠点があった。それは、盲目的に馬鹿息子を溺愛していたことだ。彼は会社の後継者に息子を指名し、周囲からどれだけ説得を受けても頑なに譲らなかった。
叔父はついにそんな兄を見限り、強硬手段に出ることを決めた。兄を世間から抹消し、会社の経営権を奪い取ったのだ。
「叔父さんは教えてくれなかったけど、生真面目なあの人だから、ちゃんと記録が残っていたの。だからあなたを誘拐した組織を見つけるのは、そんなに難しいことじゃなかった」
「まさか、違法組織と取引をしたのか」
「取引なんて容易いものじゃないわ。依頼主とはいえ、部外者に人質の隠し場所を教えることなんてできない。どこから情報が漏れるか分からないからね。だから、部外者じゃなくなるしかなかったの」
すると、男の目が微かに見開かれた。「入ったのか、違法組織に」
「さすがパパ。察しが良いわ」
「今すぐ足を洗いなさい」
「あら、今更父親面? あなたのせいで、私の人生めちゃくちゃだったのに」
「おまえが逮捕されたら、会社にだって悪影響が」
「なんだ。私のことを心配してくれるわけじゃないのね。少し期待したのに」嘘だ。本当は期待なんて微塵もしていない。「結局パパは会社が一番大事なのね。ママを捨てた時と何も変わらない」
口先だけでも否定してみせればいいものを、男はそこで押し黙ってしまった。無理もない。翠色の毒に侵されて腐ってしまった脳味噌では、そこまでの頭は回らないのだろう。
「安心して。この件が終わったら、あんな組織なんかとはさっさと手を切るつもりよ。私、どうしてもパパに会いたくて、そのためだけにこんなことしたんだから」
すると男は僅かに眉を顰め、「なんの用だ」とだけ言った。感動の再会シーンとは程遠い、愛想の欠片もない返答だ。
叔父が彼の命までは奪わなかったのは、せめてもの情けだろう。致命的な欠点はあったにしても、叔父にとっては良き兄であり、良き社長でもあった彼を、叔父は手にかけることができなかった。
しかし、その情けが裏目に出た。一年前、彼の妻が急病で亡くなるという、不測の事態が起きたのだ。
彼の妻は夫に比べれば幾分か冷静で、自分の息子に大企業の社長は務まらないことを理解していた。そして夫の誘拐を企てたのが義弟だという事実を彼女が知る由もなく、もし彼の死亡が明らかになった場合には、彼の持つ株は息子には相続させず、全て売却することに合意していた。しかし相続権の半分を握る配偶者である彼の妻が亡くなってしまった以上、今彼の失踪宣告が成立した場合、自社の株を含む全財産があの息子に相続されることになる。馬鹿息子が筆頭株主となり経営権が奪われてしまう危機が、突如再来したのだ。
「あのねパパ。私、お願いがあって来たの」
ダイヤは男に歩み寄り、媚びるような眼差しで彼を見上げてみせた。
「私をパパの娘にして」




