TARGET01:市長(1)
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翠色に光る瞳に囚われたあの瞬間から、それは始まってしまっていたのかもしれない。
濡れているかのように艶のある黒髪、滑らかな浅黒い肌、紅を引いたかのように血色の良い唇に、隙間からちらちらと覗く桃色の舌。その全てに目を奪われ、私は身動きを取ることができない。
「ね、いいでしょ?」
艶かしく動く舌先から、短く問いが放たれた。私の唇の上を、愛おしそうに男の指が這う。
はいもいいえも言えぬまま、私は目蓋を下ろした。
柔らかい熱が私の唇を塞ぐ。
◇
「あなた、あのおっさんとも寝たわけ?」
パーティ会場のホテルを抜け出して国道を北へ上る道中、金剛ダイヤは助手席で寛ぐ男に向かって問いかけた。対向車のヘッドライトを浴びて、その瞳が翠色に光る。一度囚われれば二度と逃れることはできないと言われる、翠色の瞳だ。
「そりゃあね。そういう仕事でしょ」
男は平然と答えるが、そういう仕事、というのはあまりにも語弊がある。彼は何も、セックスワーカーではない。いや、仕事で性行為をしているという意味ではセックスワーカーとも呼べるのかもしれないが、少なくとも性的なサービスの提供を目的とした仕事ではないのだ。
「それにしたって。あんなおっさんによく手が出る」
「俺は森羅万象老若男女、全てに愛されてる男だからね。それに応えるのが俺の使命だ」
「森羅万象って」
老若男女はともかく、だ。柔らかな笑みを浮かべる男に対して、ダイヤは軽蔑の目を向けた。
「ところで、この後の段取りは抜かりないわよね?」
「もちろん」と男は軽やかに頷く。「一時間後に駅前のショッピングモールの駐車場で待ち合わせ、でしょ」
「ちゃんと来るんでしょうね」
「当たり前でしょ。俺に愛されて逆らえる人なんていないよ」
飄々としたこの男の態度は信頼感とは程遠いところにあるが、悍ましいことに、彼の言うことにきっと間違いはない。
この男と一度情交を結べば最後、その者はまるで魂を奪われてしまったかのように彼の操り人形となる。それがこの男、翠玉ミドリの持つ特異体質だった。
「ほんと、エメラルドゴキブリバチみたい」
「エメ、なんて?」ミドリは眉を顰めて聞き返す。
「エメラルドゴキブリバチ。知らないの? あなたの名前の由来だと思ったんだけど」
「知らないよ。エメラルドなの、ゴキブリなの、蜂なの」
「蜂ね。エメラルド色の、綺麗な蜂」
「ゴキブリは?」
「ゴキブリの体内に卵を寄生させるのよ。蜂の毒に侵されたゴキブリは意のままに操られて蜂の巣へ帰り、生きたまま卵のゆりかごとなって、最後は幼虫に腹を食い破られて死ぬの」
「うげえ。何その気色悪い蜂」
「そう? あなたも似たようなものだと思うけど」
「今俺のこと気色悪いって言った?」
「どうかしらね」とダイヤは嘯く。
「あのさ。兄貴は多分、そこまで考えて名前つけてないよ。どうせ『目が翠色だから』とか、そんなところだ。あの人馬鹿だから、そんな虫のこともきっと知らない」
ミドリの言う兄貴とは、ダイヤたちの会社の副社長のことだ。暴力団のような風習で目上の組員を『兄貴』と呼ばされているというわけではなく、単にミドリが副社長のことを実の兄のように慕ってそう呼んでいるらしい。『金剛ダイヤ』も『翠玉ミドリ』も、社員のコードネームは全て副社長が名付けたものだった。
「なんだ。上手いネーミングだと思ったのに」
交差点を右折すると、不意に街が明るくなる。ショッピングモールのある繁華街へ侵入したのだ。
ダイヤはウィンカーを出し、慎重にブレーキを踏みながら左に幅寄せした。目一杯にハンドルを切り、目的地の地下駐車場へと車を潜らせる。
◇
本来ならば人目につくのは好ましくないのだが、甘い物が食べたい、などというミドリの我儘により、車を降りてフードコートにやって来た。
さっさと済ませてよね、というダイヤの小言も柳に風といった様子で、ミドリは優柔不断な視線をあちらこちらに散らしている。
「まあまあ、固いこと言わない。一時間もあるんだから」
「あと四十分だけどね」
「ひと仕事終えるとどっと疲れるんだからさあ。少しくらいゆっくりさせてよ」
「まだ仕事中ですけど」
「何にしよっかなあ。ダイヤちゃん何食べたい?」
「私はいらないってば」
そんな無駄口を叩きながらフードコートを二周し、ようやくミドリはクレープ屋の前で足を止めた。
店内の明るい照明に照らされると、ミドリの瞳の宝石のような輝きが一層際立つ。普段彼の目は昼夜屋内外問わずサングラスの陰に隠れているため、その物珍しさについ目を奪われてしまいそうになる。
「何、俺の顔になんか付いてる?」ダイヤの視線に気づいたミドリが尋ねる。
「翠色の目玉が二つ」
そう答えた途端、ミドリは「やべっ」と叫んで胸腰尻、と自分の身体をあちこちまさぐり、結局最初に確かめたはずの胸ポケットからサングラスを取り出した。もたつきながらそれをかけると、「もう、早く言ってよ」と彼は不平を言う。
「何、気づいてなかったの?」まさかかけ忘れていたのだとは。
「こんな目、わざと晒して歩いたりしないよ」
「どうして隠すのよ」
「あのさ。ダイヤちゃんだって何度も見てるでしょ、この目の持つ魔力を。俺は無差別に被害者を増やす趣味はないの」
彼の特異な体質は、恐らくその翠色の瞳に根源がある。彼と目を合わせた途端にたちまち心を奪われ、自らその身を捧げてしまう者たちの姿を、確かにダイヤも何度も目にしてきた。しかし。
「でも私には効かないじゃない、その目。無差別ってことはないんじゃないの?」
現にダイヤは、今の今まで彼の目を見ていたのだ。
「そりゃあ、効果に多少の個人差はあるよ。大抵は一瞬で落ちるけど、頑張って抵抗する人も稀にいる。でもダイヤちゃんの場合は多分、眼鏡をかけてるからだ」
そう言ってミドリはダイヤの顔に指を向けた。普段はへらへらとしている彼が厳しい目つきをしている。
「ガラスや鏡越しなら効かない場合もなくはないけど、俺の目を直に見て無事でいられる人なんていないよ。だからダイヤちゃんも油断しないでほしい」
その語気の強さに気圧され、ダイヤは「もう、分かったわよ」と肩をすくめるほかなかった。
ようやく順番が回ってきて、ミドリはやたらごちゃごちゃと装飾のついた名前のクレープを注文した。冷蔵庫のフルーツを片っ端から全部乗せたみたいなそのメニューが作られるのを見守る傍らで、ダイヤは特に飲みたくもないホットコーヒーを注文する。会計を済ませ二人の注文が揃うと、手近に空いていた席に向かい合わせに腰かけた。
「でも、そういうことならやっぱり私はあまり心配いらないわね。私が眼鏡を外すことなんて、寝るときくらいしかないから」
「またそうやって」
「だって私、裸眼じゃ何も見えないもの」
「でもさ」分厚いクレープを頬張りながら、ミドリは言う。「ダイヤちゃんは、絶対コンタクトにした方がいいよ。眼鏡外すと美人なんだから」
「眼鏡かけてたら美人じゃないみたいに」
「さっきダイヤちゃんは俺の名前のこと上手いネーミングだって言ってたけど、俺はむしろダイヤちゃんの名前の方が上手くできてると思うんだよね」
「一体なんの話よ」
「ほら。ダイヤモンドってたしか、炭素でできてるんでしょ?」
「炭素でできてるというか、炭素そのものね」
「そして炭素は、地球上で最もありふれた元素のひとつだ」
「そうね」
鉛筆の芯に使われる黒鉛も炭素だし、二酸化炭素や炭水化物にも炭素が含まれている。が、それがどうした。
「ダイヤちゃんは眼鏡をかけてるとどこにでもいそうな地味な女の子にしか見えないけど、眼鏡を外すと途端に絶世の美女に化ける。炭素なんていうありふれた元素でできた宝石であるダイヤモンドの名前にぴったりだよ。兄貴もなかなか、センスが良い」
自信たっぷりに言うミドリに、不覚にも感心してしまいそうになる。一見地味だが美しく化ける素質を持っているからダイヤモンド。なるほど悪くない説だ。しかし。
「あなた、副社長は馬鹿だとか言ってたじゃない。炭素がどうのとか、馬鹿がそこまで考えるかしら」
「馬鹿は馬鹿でも宝石馬鹿なんだよ、兄貴は。その証拠に、兄貴がつけた名前は全部宝石が由来でしょ。きっとそれくらいは考えてる」
「だとしても、センスが良いとは思わないわ。『金剛ダイヤ』なんて、『頭痛が痛い』みたいな名前」
「そこは馬鹿だから仕方ないよ」




