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ロア 葛の葉

うらみ葛の葉。狐といえば九尾だけど、葛の葉だって狐界のヒロインだよね。


「 宵歩きには、また会いたい人っているの? 」


五つの幼女が紅く色付いた落ち葉を拾いながら、傍らで毛繕いする小さな灰色の猫に声を掛ける。


「 ん? そうだな。いるといえばいるし、居ないといえば居ないな。」

「 どっち? 」

「 会えば話も合うし、おもしろい。だが、会わなければ会わないでも特に困らんな。そういう相手ならいたよ。」


宵歩きは毛繕いをやめて座り直す。しまい忘れた小さな舌先が口元からちょろりはみ出ている。


葛の葉狐。私はあんたの意思を尊重した。だから今、幸せなのか違うのかは私の感知する所ではない。ただ、泣いてなければいいなとは思ってるよ。


幼い見守り児は紅い葉っぱの軸を摘んでくるくるまわしている。落ちたばかりの葉っぱはまだ水気が残っていて、幼子の力では崩れることもない。


「 ふぅん。」

「 おやおや。私にだって知り合いくらいはいるよ。今日の昔語りは休息日にしてもいいんだよ。」

「 だめ。聞く。月吠えの昔語りは何か凄く切なかった。宵歩きのがいい。」


月吠えに勝った。宵歩きはにんまり。


「 ならば、月吠えの昔語りとは違う切ない昔語りをしてやろう。」


葛の葉狐の話を。彼女が体験した幸不幸あざなう縄のような出来事を。



その子狐二頭は他の狐と少しばかりかわっていた。他の子狐は収穫寸前の稲穂のような豊かな色をしているのに、姉狐は闇より深い黒狐だったし、妹狐は新雪より明るい白狐だった。そしてお互いの胸元にはひと房だけ姉妹の色の飾り毛があった。


活発で物怖じせずに初めてのことでも挑戦していく姉狐と、慎重に用心深く行動する妹狐はとても仲が良かった。


「 あんたは私の大事で大切な妹。この黒い飾り毛がある限り、私はあんたを絶対守るからね。」


萩花ハギノカ葛葉クズノハの胸元の飾り毛を優しく舐める。葛葉も姉狐の白い飾り毛を舐め返し、


「 あたしも姉さまが大事。どんな姿になってもそれはかわらないの。」


二人で一つだった。母狐も他の兄弟狐でさえもその間に入ることはできなかった。

母狐の乳を飲む時もふたりでかわりばんこ。

地に落ちていた松ぼっくりで遊ぶ時もふたりきり。

お腹もいっぱい、遊び疲れて眠る時もふたりでひとかたまり。


新緑の小枝、こぼれ落ちる木漏れ日の下。柔らかな下生えの草むらのなかで並んで座る萩花と葛葉は、尻尾の輪郭や胸元のぽわぽわしたうぶ毛にいたるまで、瓜二つだった。まるでお互いがじぶんの欠けたものを補い合っているように。


それ以上でもそれ以下でも無く。ふたつでひとつ。


母狐は緩いため息をついて、ひとかたまりになって寄り添うふたりを見つめる。乳飲み子を育てていた頃より随分と薄くなってきた母性本能でも、ふたりの行く末は予想できた。


だがしかし。ようやく狩りの仕方、天敵からの逃れ方を覚え始めた頃、萩花はひとり巣立っていった。唐突に。葛葉にさえ黙って。前日には葛葉と一緒にノネズミを狩っていたのに。あまりにも早い、早すぎる巣立ちに葛葉は混乱する。いつも通りふたりでかたまって眠っていたはずなのに、目が覚めたら一人ぼっちだった。


「 姉さま、姉さま、どうしてあたしを置いていったの、どうして、どうしてっ。」


お気に入りの木の根方、冷たくて甘い水飲み場の小川。姉狐の姿を必死で探し回り、葛葉は泣き叫ぶ。

その泣き声に母狐は消えそうな母性本能をかき集め、他の子狐を呼び集めた。最後の言い渡しのために。


「 よくお聞き。小さい子たち。母は次の季節のために準備しなくてはなりません。お前たちもここを離れる準備をしなければなりません。もう少し猶予を与えようと思っていましたが、最初の巣立ち仔が現れたので時期がきたようです。準備が整うまでの間、ノネズミ程度の獲物を捕らえるのは許しましょう。」


琥珀の瞳には子狐への愛情より、自分の縄張りを侵す侵入者への警戒心が強くあらわれていた。


「 これからお前たちはいくつかの選択をすることになるでしょう。巣立ち後の行く先、伴侶の選別。そして女子おなごならば子離れの判断。私は自分の持つ必要な知識全てをお前たちに与えました。お前たちが最適な判断をし、生命を繋いでいくことを信じています。」


葛葉以外の兄弟狐たちは母の言葉を素直に受け入れ、己の思う道に走り出す。予想外に早い巣立ち宣告に不安げな足音もある。ひとりでもやっていけると認められたと自信に満ちた足音もある。母狐は満足そうに豊かな尾をゆっくり振って、今年育てた子供たちへの最後の餞を送った。


兄弟たちが巣立っても葛葉はその場から動けないでいた。


ここを離れたら、萩花と二度と会えない。


自分が消えてしまうより強い恐怖。


「 母さま、私はここにいたい…。姉さまをここで待ちたい。」

「 私の縄張りを奪うか? ここにいるというのはそういうことですよ。」


ちいさく唸りながら母だった狐が言う。

人の立ち入らぬ深山、獲物は豊富にいるとはいえ、雌狐が二頭同じ縄張りを共有するのはありえない。この場所が欲しいと言われれば、戦って排除するのみ。

少し頭を下げて牙を剥く。


どこか遠くで狼の遠吠えがした。


「 …この場所を明け渡すつもりはありません。もし萩花と会いたいのならば、もう少し人里の近くに行きなさい。再会出来る可能性は低いでしょうが。」

「 何故?」

「 萩花は一度猟に来た猟師を見ています。それ以来人に興味を示していましたから、おそらく人里の近くに縄張りを張るでしょう。それに。」


狐はむきだした牙を納め、感情のない琥珀の瞳で葛葉を見据える。


「 私は縁あって常なる狐より少しばかり長く生きています。だからこそ感じるのですよ。萩花との縁を切り、ただの白狐シラコとして生を全うするなら山を越えて、ここよりもさらに緑濃い深山に縄張りを持ちなさい。萩花と生涯表裏の対として生きる覚悟があるのなら、山を下り人里近くで注意深くまわりの様子を観察し、萩花の消息を追うがよいでしょう。私としては前者を勧めますが。」


小さく溜息。


「 我が腹から産まれた女子(オナゴ)ならば少しでも多くの子を生し、九尾の一族を増やさねばならないのですが、表裏の対たる貴女たちには別の成すべきことがあるのかもしれませんね。」


落日に照らされるススキ原のような枯れ色と茜色の混ざった毛並みの狐が、静謐な眼差しで葛葉を正面から見据える。

葛葉はほろほろと泣きながらかすかに頷く。


「 あたしは姉さまを探しに人里近くへ下ります。今までありがとうございました。母さまの、馬酔木アシビさまの娘に産まれて幸せでした。」

「 息災で。貴女が人里近くに下るまでは、大神(オオカミ)さまの眷族が守ってくださるでしょう。」


熊や鷹、猪などから。

だが、ヒトからは守ってはもらえまい。大神さまには大神さまの使命があるときく。人里近くまで下りたならあとは己の才覚で生き延びて、萩花を探すしかない。用心深い葛葉ならば成し遂げられるかもしれないが、狩られて毛皮を剥がれる可能性のほうが高いだろう。人の世では白い毛皮はそれだけで価値がある。


頼りない足取りでゆっくりと深山を離れていく葛葉の後ろ姿に、馬酔木は小さく一声吠える。


さようなら、慈しみ育てた仔。


そして馬酔木は色濃く覆い茂った木々の影へと消えていった。



葛葉の白い毛皮は陽の下でも闇の中でも目立つ。陽に当たれば目にしみるほどに白く輝き、闇の中でも希少な宝玉のように白く浮き上がる。明け方の薄紫色、夕暮れの茜色だけが白い毛皮を優しく覆い隠してくれた。


「 薄明薄暮性ってあたしの為にある言葉よね。」


人里近く、でも人目につかない場所を探し探して、葛葉は溜息をつく。

里山と深山の境界線は曖昧だ。里山の恵みを求めて獣は下るし、深山の恵みを探して猟師は上る。葛葉は注意深く観察して、その薄い境界線上に自分の縄張りを張った。人に見つかり追われた時のために幾つものねぐらを用意し、幾つもの逃げ道も確保した。


すべては萩花の行方を探すため。


先の見えない探索でも萩花に再会するためなら何ほどの苦労もない。希望だけが重く深く葛葉の全てになっていた。


幾つかの季節がすぎ、若狐となった葛葉は少しずつ慎重に縄張りを広げていく。そんな中、里山近くで見たこともない生き物を見掛けることが続いた。


熊でも猪でもない、不思議な獣。山に住むものには似つかわしくない柔らかそうな毛並みは、どんな風景にも隠れるように溶け込む薄い灰茶色をしていた。体長は自分より一回り小さいながらもしなやかで無駄のない足さばき。下生えの雑草を足音さえ立てずに歩き、里山を下って行った。


誰だろ?


一方的な邂逅が何度か続くうちに相手への興味が膨らんでいく。初めは木陰に隠れてやり過ごしていたが、里に下っていく後ろ姿を見送るようになるまでさほどの時間はかからなかった。


いく度目かの見送り時。その獣はふっと足を止め、迷うことなく葛葉を流し見た。金と翠のまだらな虹彩は間違いなく、木陰に隠れた葛葉に視点を合わせてきた。


「 山の奥に住まう狐が、何故こんな里山にいる? しかもまだ子育てもしたことのない若狐が?」


低くよく響く声。


自分より小さくとも、この獣は侮ってはならない相手だ。とっさに誤魔化さない方がいいと判断した葛葉は、青葉を打つ小雨より小さな声で応える。


「 片割れたる姉狐の行方を探して降りてきました。」

「 ふむ。馬酔木狐の仔か。黒狐(クロコ)がいなくなったことは聞かされていたが、白狐(シラコ)が里山まで降りてきたとは知らなんだな。」


獣はゆっくりと葛葉の傍まで近付いてきた。足音はない。踏めば必ず葉ずれの音をたててしまう笹でさえ、さやとも音を鳴らさない。

葛葉の前まで来ると、なんの躊躇いもなく獣は腰を落とした。


「 私のことは対馬(ツシマ)と呼ぶといい。お前は?」

「 葛葉と。」

「 葛葉か。お前、山の奥に帰らないのか?」

「 … 姉狐の消息を知るまでは帰れません。」

「 そうか。ならば人には気をつけるようにな。馬酔木狐の一族が人に捕らわれるのは好ましくない。だが…」


少しの躊躇い。


「 おまえの姉狐の行方は人が知っている。用心深く、狩人の言動を見張るがいいよ。行方がわかったら深追いせずに山に帰れ。おまえに人里は合わない。」

「 姉さまに会いたいのです。」


対馬の何処か見透かしたような言葉に、葛葉はほろほろと涙を零す。母狐と別れて以来、誰とも話をしなかった。兄弟狐は葛葉とはまるで違う道に進んで行った。心の内に留めていた想いが言葉として流れ出ると止めようがなくなり─涙と溢れる。

対馬はもっふりしたしっぽの先を軽く揺らし、


「 泣くだけ泣いたら自分一人での立ち方を考えよ。忠告はした。」


ゆっくりと立ち上がる。しっぽ毛に枯れ笹が一枚からまっていた。それを苛立たげに振り落とす。小さな舌打ちとともに枯れ笹は落ちた。


「 ─ が、なかなか気持ちの整理がつかんのはわかる。私は暫くこのあたりを拠点にするつもりだ。また会おうな。その時は敬語は使うなよ。」


対馬はそのまま振り返りもせず、音も立てずに立ち去った。

葛葉は見送ることもなく、ただほろほろと泣き続けてる。萩花に会いたい。慟哭する心を必死に押しとどめ、ただほろほろと泣き続ける。


そうして涙も枯れ尽くすと、対馬に言われた通り今まで以上に人里近くまで降りてみることにした。もちろん用心に用心を重ねて。そうすると里から深山にわけいる猟師だけでなく、里山を巡る山菜採りの動向まで見張ることができた。人の動く情報は今までより手に入る。だが、成果はない。それでも折れることなく、ノネズミやウサギを狩り木の実を齧りながら萩花の消息を探る。


時々、ふらりと対馬が現れることもあった。他愛もない話。それは葛葉にはちいさな安らぎと癒しをもたらした。それは対馬も同じなのか、最初の頃のような何処か突き放した物言いから気安い戯れ言まで言うようになった。


境界線で葛葉はただの狐としてそれ以上でもそれ以下でも無い1年をすごした。


たまに訪れる対馬をもてなそうと、よい香りのする枝で寝床を作ったり。


「 まさかここに××があるとはっ。」


葉っぱの上でころころのたうつ対馬。聞き取れない言葉があったが、葛葉は喜ぶ対馬をみて自分も嬉しくなって、同じようにころころ転げる。


川を遡ってくる魚を捕まえたら、二人でかじりあったり。対馬は背中側の締まった肉が好みだった。


「 私は脂の乗った腹肉が好き。」

「 太るぞ。筋肉喰え。」

「 魚の卵には栄養があるんです。それに冷たい粒が降ってくる前に腹肉と卵で丸くならなきゃダメなんです。」


太るの大事。ふんすと鼻息で応える葛葉に、対馬は目を細め笑う。

ほんの少しだけ萩花を遠くにして、葛葉も笑う。


だが。禍福は糾う。





里山と山の境界線、その里山寄りにある狩り場小屋で、猟師たちは狩りの準備をしたり取れた獲物の腑分けをするが、そんな時によく過去の獲物の話をしていた。

山のヌシのような熊を狩りとった話。

百薬ともいわれる燕鳥を群れごと撃ち取った話。


闇夜よりも漆黒の子狐を生け捕った話。


「 あれはタナボタだったな。白狐を見たって話を聞きつけて急いで山の奥まで行った甲斐があった。」

「 白かと思ったら罠にかかってたのが炭みたいな黒いのだったんだもんな。」

「 どっちにしても珍しいもんだ。まぁ、えらく暴れるからぶん殴ってやったがなぁ。」

「 死にかけでも都の好事家が結構な金で買い取ってくれて助かったぜ。あれで女房に新しい上着も買ってやれたしな。」

「 俺はあの金でたっけえ薬が買えたぞ。おかげで子供の命が拾えたわな。」


罠?

ぶん殴る?

死にかけ?


姉さまを?


私の姉さまを?


私の大切な姉さまを?


たまたま。本当にたまたま何時もの見回りで猟師小屋の傍に忍び寄った葛葉。ずっと空き家のままだったので、駄目元で巡回の道筋に入れていただけだった。そんな期待していなかった猟師小屋でまさかの猟師たちの自慢話を聞いてしまう。

それも最悪な、萩花の消息を。


目の前が真っ赤に染まる。

首筋、背中、全ての体毛が逆立つ。

耳は後ろに倒れ、白い牙が剥き出しになる。


獣を狩ることを生業にしている相手に対して、さほど大きくも太くもない牙しか持たない自分。返り討ちにあって皮を剥がれるだけだとしても、萩花の身を損なった相手は、許せない。


猟師小屋へ突撃しようと、前足にぐっと力を込めたその時。


「 やめよ。」


足音もなく、ふっと対馬が現れた。翠に金の瞳が静かに葛葉を見つめる。


─あいつらが、私の大切な姉さまをっ。


血走った眼差しで対馬にさえも喰らいかかろうとする葛葉。しかしその前に背後に強い圧を受け、そのまま昏倒した。


「 すまないな。さすがは狼王(ロボ)。制圧が上手い。」

「 死なせるわけにはいかんからな。奥地に運ぼう。」


僅かにしがみついていた意識で辛うじてそんな会話を聞き取り、葛葉は完全に意識を失った。



目が覚めた時。目の前にはカラスがいた。萩花と見紛うばかりの漆黒の烏。


「 起きたか。とりあえず伝言を伝える。〈 姉狐の行方は知れた。ならば山の奥に帰れ。〉」

「 ─ いやっ。あいつら、ぜんぶ、ころすっ。」

「 ふん。お前にできるかよ。」


感情の削ぎ落とされた黒瞳が葛葉をみつめる。


「 対馬殿には恩義がある。だからこんな役回りも引き受けたが、お前を説得する筋はない。だが、白狐(シラコ)を死なせては後味も良くないな。」


烏は翼を振るうと、葛葉の目線より少し上の枝に飛び移った。


「 ここはあの掘建小屋からずっと離れている。お前の故郷からは山の峰を幾つも越えたところだ。俺の眷属たる大鷲がお前を運んだ。お前がここより更に奥の深山に縄張りを張り、子をなし、馬酔木狐の血を繋ぐことを対馬殿は望んでいる。姉狐の行方は知れたのだ。お前自身を生きろ。」


ばさり。


漆黒の翼をひろげ、烏は飛び立つ。揃えた二本の足の間、三本めの足は赤子のコブシほどの大きさの虹色に輝く宝玉をしっかり握りしめていた。


烏が飛び去るのを茫然と見送る葛葉。

きっともう対馬には会えないのだ。

萩花も死んでしまっているのだろう。

故郷への帰り道もわからない。

仇もうてない。


生きる気力が流れて消えていく。


葛葉はそのまま柔らかな下生えの草の上に、ゆっくり倒れ伏した。




「 母さまぁ。みてみて、すごくキレイなお花見つけたよ。」


まっすぐな髪をぱっつん切りそろえた子供が、小さな花を数本握りしめて振りかざす。細い花弁が幾重にも重なってまるで小鞠のよう。色は鮮やかな黄色。


「 そんなにぎゅっと握ったら、お花が可哀想よ。でもお花をありがとうね、伊織。」


母親が子供から小さな花束を受け取る。幸せな横顔。

子供─伊織も母親の柔らかい微笑みを受けてあどけない笑顔を向ける。

母子の穏やかな情景。

その背後に一人の男が近づいてきた。

里山の端、鄙びた村には相応しくない線の細い秀麗な男。肩先までの長さの黒髪を結わうでもなくそのまま後ろに流し、野良仕事など無縁のような上等な衣を身につけていた。


「 しの、伊織。ここにいたのかい。」

「 父さまっ」


伊織は転がるように男の膝に飛びつく。


「 相馬さま。ご用はお済みですか?」

「 ああ。都落ちした俺に、いつまでつきまとうつもりなのか。全く、迷惑この上なしだ。」


相馬は伊織をひょいと抱き上げる。見た目からは予想できない膂力。そのまま息子の小さな身体を肩に担ぐ。肩車された伊織は、両親よりも高くなった視線に目を輝かせて前を、山に向かって傾き始めた太陽を見つめた。


カラスが数羽、山のねぐらへと飛んで帰っていく。


「 カラスもお家。僕たちもお家に帰ろ。」

「 そうね。夕餉にしましょ。伊織がくれたお花もお水に生けてあげなくては。」

「 ああ。蒲公英か。これの根は煎じて飲むと目覚ましになって美味いんだぞ。」


相馬は愛しげにしのの瞳を見下ろす。

しのも底に熱を籠らせた柔らかい眼差しで受け止める。


どこにでもありそうな幸せなひとつの家族がそこにあった。


茸の汁と川魚の焼き物、青菜の浅漬けの夕餉を済ませる頃にはすっかり日も暮れて、家族の住まう小屋は薄闇に覆われる。半刻もしないうちに鼻先も見えない暗闇に沈むだろう。今宵、月は現れない。星の瞬きだけだ。そんな夜。

まだ幼い伊織は寝ぐずりながら、相馬に抱かれてしのの子守唄を聞く。


「 ─ 寝たな?」

「 はい。今日は下の沢でたくさん遊びましたから。疲れてしまったのでしょう。」

「 ふふ。いつもより早くころりと寝落ちるはずだな。」

「 相馬さまの腕の中は何より安心できるところですもの。」

「 褒めるな。しのに褒められると何でも出来そうになる。危ないわ。」

「 伊織は勘の良い子です。昼間は少し不安そうにしていましたが、相馬さまに肩車して頂いてずいぶん落ち着きましたわ。ご用の件はよい落とし所に落ち着いたのでしょうか。」

「 ああ。心配かけたくなくて、しのには詳しい話ができなんだな。都者の持ってきた都行きの話は無くなった。今更私が行ったとて、怪異を祓う手立てはない。」


しのの手を借りて立ち上がる。伊織はすでにぐっすり眠り込んでいて、少し揺らしたくらいでは起きそうもない。相馬は愛息子のあどけない顔を愛おし気にみつめる。ぷっくりした頬、長いまつ毛、外遊びが好きな男児らしい日に焼けた肌。

しのが手早く寝具を整え、相馬は伊織を静かに横たえた。

灯篭の灯りが子供の健やかな眠りを邪魔しないように、遮るように衝立を置く。


「 数年前から都では何やら得体の知れないモノが無差別に貴人を襲っているという。それを祓えと言ってきたが、そもそも都の守護陣を管理していた我が一族を不要の長物と都払いさせておいて、今更何を言うんだか。」


相馬は薄い唇の端を僅かに上げる。人畜無害な柔らかな顔立ちがいっきに酷薄なものに変わった。相馬の一族は人ならざるものたちから都を守る守護を生業とする一族だった。武力ではなく、呪力で。相馬の母の代までは。


「 俺は二度と都には入らぬ。もしも俺が都に立ち入ったなら、僅かに残った守護陣が全て消滅するように(マジナイ)をかけてある─ そう言ったら諦めてくれたよ。」

「 まぁ…」

「 守護陣はいらぬ、都を襲うものあらば武力にて処置致す。あの時警護の長はそう言って、わが一族の長だった母を切り捨てたのだ。自分のケツは自分で拭いて貰わねば、切られた母も浮かばれまい。盲信する武力だけでなんとかすればいいさ。」


相馬の母はその目の前で切り捨てられた。あの時の白い衣が鮮血で染る様は今でも相馬の脳裏に焼き付いている。自分の血で重くなり着崩れそうになった衣を潔く脱ぎ捨てた母は、式神を遣い、そのまま一族全員を都人の知らぬ山奥の集落に落ちさせた。


『 これくらいでは死なぬわ、ボケじじいがっ。』


自分を切り裂いた武官の長に啖呵を切る。


『 お前の血が居着く限り、我が血を継ぐものは都に踏み込まぬ。』


最後の力を込めて一族全員を都落ちさせた母は、そのまま姿を消した。生死も不明。だからまだ幼かった相馬が族長となった。


母を奪った都は相馬にとって憎悪すべき象徴だった。


しのと出会い、伊織が生まれ、家族ができるとその憎悪は相馬の根幹となった。子供を遺して消えた母の無念を想うと、赦しなど問題外。怪異に呑まれてしまえばいい。


慈悲もない酷薄な眼差しで都のある方角を流し見る相馬。しのにはその横顔に、別の生き物の影が重なって見えた。



許さないっ。

姉さまを傷つけたお前たち。

絶対許さないっ。



蜂蜜色の瞳は憎悪で血走り、真っ白な体毛は憤怒で逆だっている。─今にも何かの喉元に喰らいつこうとする白い狐の姿が二重映しで相馬と重なる。


あれは、誰?


愛する夫の横顔より憎悪に狂う狐の姿のほうが厚みを増してくる。相馬を見失うまいとその腕を強く握りしめる。その小さな圧に気が付いた相馬は酷薄な表情をするりと消し、愛する妻の手を握って柔らかく微笑んだ。


白い狐の姿が霧散する。


しのの意識もそれを追うようにとぎれる。


「 ─? しの?」


くったりと床にくず折れる妻の身体を慌てて抱きとめる相馬。血の気のない頬を軽く叩き、覚醒を促すが目覚めない。


「 何が、起きた?」


とりあえず力の抜けた身体を抱き上げると、伊織の隣に横たえ寝具で包み込んだ。そのままその枕元に腰を据える。眉間に皺を寄せて、きつく目を閉ざす妻の顔を優しい手つきでそうっと撫で、乱れた髪も整える。

衝立で遮られた灯火が2人の周りに薄い灯りを添えていた。


「 思い出したのかい? しの。」


相馬は淋しく呟く。



しのはこの隠れ里の出自ではなかった。ある日、里の外れで行き倒れていた娘だった。しかも全ての記憶を無くして。たまたま山菜採りに出ていた相馬が見つけ、里長として面倒を見、恋に落ちた。


記憶を取り戻したら去っていくだろう娘に相馬はしの─篠芽(シノノメ)と借名をつけ、慈しみ、子をなした。できるならば、子が鎹となり離れないよう願って。


そうして5年がすぎた今。しのの記憶が戻る気配さえない今。このまま仲良く肩を並べて歳を重ねていけるかもと夢が太く育ち始めていたのに。


「 このままお前の横で眠ったとして、もし目が覚めてお前が居なくなっていたら、俺はどうなるのだろう。」


かたく目を閉ざしたしの。その柔らかい頬をなで、手櫛で整えた髪をひと房を指に絡めくちづける。


「 俺の前から去らねばならぬのなら、せめてきちんと別れの挨拶はさせてくれ。母のような別れは─切ない。望みを繋いでしまう。」


繋いだ望みはいつしか変質し、本当の呪いに変わるかもしれない。


指に絡まるしのの髪が、寝所の薄明かりの中でほのかに光る。髪の色は全ての色彩を拒否するほど白い。出会った時は身の丈ほどの長さだった。里で生活するため邪魔にならないよう腰の長さにまで切りそろえてあったはずが、今再び身の丈よりも長く寝具の上を流れていた。


「 やはり、人ならぬものだったのだな。」


邂逅の時。誰にも踏み荒らされていない新雪の上。長い白髪以外身にまとわず伏せていた美しい娘。里者の反対を押し切り傍に置いた。そして生まれた伊織は相馬以上の呪力をその身に備えていた。だから里者はしのと伊織を受け入れたのだ。里のための里の()として。


「 誰が何を言おうと、お前は俺の妻だし伊織は大切な息子だよ。子がなせるくらいだ。お前が人外だとしても大したことでは無い。」


相馬がぽつりとつぶやくと、目を閉じ口も閉ざしたまのしのの声が寝所に静かに流れた。


『 相馬さま。』

「 しの?」

『 そう言ってくださってありがとうございます。しのはここで過ごした日々が幸せで愛しくてなりません。けれど人とは暮らせません。』

「 …なぜ?」

『 ヒトに、殺されました。私の半身が。ヒトと暮らせばその恨みが膨れ上がり、私は血に狂うでしょう。相馬さまのことは心より愛しく恋しく想っております。離れれば恋しくて狂うかもしれません。けれど傍にいればいつか必ず貴方を害する。だからお別れなのです。伊織を殺めたくない。伊織に怖がられたくない。貴方を傷つけたくないっ。だから、ここを去ることを許してください。』

「 …しの、しの。わかったよ。人外のものは基本嘘はつかぬ。お前の気持ちはわかった。でもね、しの。」


二度と呼べない名前。相馬は何度も口にした。


「 それでも俺の妻はお前だけだ、しの。」

『 相馬さま…』


表情なく、ただ眠っているだけのようなしの。だが、聞こえる声は間違いなく泣いていた。


『 伊織はまだちいさいのです。成長しても分かるように、そして私のような化生にもわかるように、印だけ付けさせてください。いつか、伊織がその身に持つ力を使いこなす手助けにもなりましょう。』


ひと息置き、


『 しのの大切なかたは相馬さま。忘れないでね。』

「 俺の妻はお前だけだよ。しの。伊織のことは心配するな。お前との子だ。しっかり育てる。……達者で暮らしてくれ。」

『 相馬さま…。どうか、息災で。』


しのの白髪が静かに波打ち、あわあわとした柔らかな光を放つ。光はしのの身体を包み込み、解けるように消えた。しのの身体ごと。その消える瞬間に1頭の白い狐の姿がしのと重なる。しなやかでほっそりした美しい白狐。


「 狐の化生だったのだな。我が呪力ともっとも相性のよい化生か…。伊織の呪力の高さもむべなるかな。」


しのの残した衣を手に取り、相馬はひとつぶ涙を零す。朝になれば、突然いなくなった母親の事を伊織に説明しなくてはならない。だが今、このひと時だけは父親ではなく、愛するものと今生の別れを嘆きたい。


すやすやと眠る伊織。そのまろい額の中央に小指の爪先ほどの小さな黒子が浮かんでいた。さらにその黒子の上にさらに小さな黒子がみっつ連なって浮かび上がる。まるで足跡のように。



篠芽━葛葉はただひたすら山の奥に向かって走った。笹のよく研がれた刃のような葉も獣道に散らばる尖った小石も、足を止める軛にはならない。一度足を止めたら、戻ってしまう。全てを忘れ、暖かい腕に庇護して貰っていたあの場所に。


戻って、伊織にも相馬にも里者にも全てに白牙をむけるだろう。


記憶が戻った今、ヒトは仇でしかない。


でも。里で暮らした記憶は相馬を恋しがる。


離れるしかない。出来るだけ遠くに。二度とは会わなくても済むように。


幾日も飲まず食わず走り通し、ついに体力尽きて葛葉は柔らかい下草に倒れ伏した。滑らかな毛は汚れもつれている。荒く息をつきながら目を閉じた。


三足の烏に忠告され絶望したあと、人化した。人化と引き替えのように記憶を失った。何が自分の身に起きたのか理解は出来ないが、事実として受け入れざるを得ない。


「 でも、幸せ、だった、それは、ほんと。」


掠れた声で小さくつぶやく。


素性もわからないのに、相馬は自分を守り包み込んでくれた。伊織は自分が守り包み込みたかった。


それでも、萩花はヒトに殺されたのだ。半身が殴り殺された憤怒で相馬と伊織の姿でさえ赤く揺らいでしまう。


「 このまま、今度、こそ、」


母の言葉は何一つ守れなかった。対馬の言う通りに深山で狐の伴侶を得て、この身の血を繋いでいけばよかった。何一つ出来なかった。未練ばかりだが、自分の生命に未練はない。


そこに。


「 山の奥に住まう狐が、何故こんな里山にいる? 」


泣きたくなるほど懐かしい声。懐かしい台詞。


「 対馬さま。」

「 様、は要らんよ。」


灰色の猫。里で過ごした年月の記憶が対馬が猫だと教える。中身はともかく。


「 …はい。」

「 もう少し体力回復したら、もっと奥の深山に向かおうか。ヒトに会わずに済むほどの奥に、な。」


対馬はもっふりした豊かな尻尾をぴんと立てて立ち上がる。相変わらずかさりとも足音をたてずに、近くの茂みに向かって歩きだす。


「 仲間に差し入れを持ってこさせた。それを喰え。脂も乗って旨いぞ。」


対馬のなんでもない一言に、葛葉はほろほろと泣き崩れながらちいさく頷いた。



それから数年は禍福なく穏やかな日々が続いた。人の入り込めない深い山々の懐で、普通の狐のように野ウサギを狩り川魚を漁る。たまに訪れる対馬やその眷族らしき狼やイタチと何でもない雑談を交わしたり。


不思議なことに眷族たちは普通の獣とはどこか違っていた。言葉に変換できない何か。強いてあげれば、〈 匂い 〉。

対馬に尋ねると、灰茶の小柄な猫は少しだけ目を細めて葛葉を見つめてきた。


「 そういうお前も姉狐以外の兄弟たちとは〈 匂い 〉が違うんだよ。馬酔木狐は何度も人魚の肉を啄んだからな、彼女の血族には時折お前と姉狐のような稀獣が現れるんだ。」

「 人魚? 」

「 ああ。不老長寿の役割をこの界から与えられた生き物だよ。ヒトでなく、野の獣に不老長寿を根付かせ、大地を守らせようとしているんだろうな。」


そういう対馬からはそんな〈 匂い 〉はしない。

小柄な猫は少しだけ顎をあげ、枝葉を透かして青い空を見上げる。


「 私は語り部になりたいんだ。本来語り部は物事の考察はしない。ただあるがままを見、聞き、集める。そうして集めたいくつかの話しを纏め、交わらせて物事を語り継ぐ者なんだ、が。」


金と翠が混ざりあった瞳を葛葉に向けた。微かに苦笑しながら。


「 私は語り部としてはまだまだ未熟だな。人魚の話を集めるうちにそれらの繋がりについて気になりだしてしまってな。それこそ人魚自体が現れないような話まで聞き込んだ。馬酔木狐については以前から語られていた。その祖は九尾狐だと言われているが、九尾狐自体の目撃談はない。私は九尾狐が過去の存在なのか、未来に生まれいづる存在なのか知りたかった。だが、お前と姉狐を知り、九尾狐が何者なのか分かったよ。」

「 わたしと姉さま?」

「 私の相棒は不思議な物語りが好きでな。よく私にも語り聞かせてくれたんだが、そんな相棒が言っていたんだ。陰と陽が分かたれず纏まると完全体になる、でも完全体になるとそこで終わってしまうから完全体にならないようにあえて隙間をつくって陰陽わかれるんだってね。お前と姉狐はふたつでひとつ。でも別々の存在なんだよ。陰陽体。」


言葉を止め、ちいさく息をつく。


「 私が聞き取った物語りの殆どの陰陽体は、完全体にならず次世代へと消えていった。だが、お前と姉狐は思わぬ形で完全体に近い存在を生み出したようだ。」

「 ? 」

「 お前の運命は禍福をあざなってきた。最後を福で締めたいならこのまま奥に行き、人魚の肉を食め。禍で終わらせて構わないなら東野に行くがいい。」

「 東野?」

「 ああ。山から剥がされ、都を追われたモノが()()にたどり着いた荒地だ。」


「 …!」


「 私としてはこのままお前をこの最奥の深山に取り込んでおきたいところだが、お前の希望も聞きたい。その為には知り得た情報は伝えねばな。」


言い淀む。


「 お前の姉狐は巣立ち直後に猟師に捕えられ、都に売られたな。」

「 ─はい。」

「 殴り殺されたかと思っていたが、生き延びていたよ。だが、売られた先が不味かった。正統な術師一族の血統から転げ堕ちた野心家で、半端な呪力を持っていたんだ。」

「 姉さまは……」


萩花を襲った鬼禍に葛葉は身震いする。そして相馬の一族のことを思い出す。都の守護の一族。まさか、その一族のはずれ者が萩花を?


「 ソレは姉狐が唯の狐では無いことに気付くとおのれの呪力で縛り上げ、自分の欲望を満たすために使役していた。」

「 姉さまは、まだ、そこに?」


萩花の信頼出来る消息を知り、その身の苦境を知り、葛葉は震える声で対馬に詰め寄る。大切な姉狐の身を縛り上げる不届き者。そこから助け出し、このヒトが足を踏み入れられない深い山々の懐でふたりひっそりと暮らせたなら。─だが。先程、対馬は言わなかったか。〈 東野に行くがいい 〉と。


「 姉狐の意思ではないにしろ、都をざわつかせたんだ。討伐隊がでた。つい最近のことだよ。姉狐は東野に封じ込まれた。」

「 ふう、じ… 」


姉さまが生きていた。

姉さまが封じ込まれた。


葛葉の瞳から光が抜け落ちる。対馬は静かな口調で話をつづけた。


「 都近郊を根城にしている八咫烏の眷族が知らせてきた。姉狐を縛り上げていた軛者はそのどさくさでゆく方知れずだ。おそらくは消されたんだろうな。陰陽体を悪しき技に使うものは居なくなった。だから、私はお前の意思に従うよ。このまま深山の更に奥で静かに暮らすか、姉狐の傍に行くのか。お前が決めたらいい。」


葛葉の答えは決まっていた。


萩花がいるところが自分の居場所。それは生まれた時からの決め事なのだから。

相馬を思うと胸の奥にある暖かい重しが呼吸を止めに来る。だが、彼等の髪一筋でも損ないたくないから、会ってはならない。だから。優しく自分(しの)を見つめてくれる彼の眼差しから目を逸らし、葛葉は対馬に告げた。



『 馬鹿だね、あんた。』


懐かしい萩花の第一声は呆れた声だった。


『 せっかくニンゲンのこない山の奥にいたのに、こんな所にくるなんて。馬鹿。』

「 姉さまに会いたかったの。姉さまと子供の時みたいに団子寝したかったの。駄目? 」

『 駄目じゃないけど、無理。』


根の強い雑草ですらまばらに生えるしかない不毛の荒地。ごつごつとした岩がいくつも転がり、時折吹く風に舞う土埃以外に動くものはない。


そんな荒れた景色の中、ひときわ異彩を放つ黒い岩。人間の大人一抱えできるくらいの大きさのその岩は、封じられた萩花が変化したものだった。


「 無理じゃない。無理なんて言わないで。」


葛葉は黒い岩にそっとよりそう。


『 あはは。あたしの上に乗っかっての日向ぼっこで手を打って。今のあたしにはあんたをあっためる毛皮も何も無い。─色々あったんだよ。あんたもだろうけど。』


萩花はからりと笑う。自分の身に起きたことへの恨み言など微塵もない。なぜなら。葛葉を自分なりの力で守った結果だから。

あの日、珍しく一人でノウサギを追いかけていたら、希少な白い狐を生け捕ろうと罠を仕掛けている猟師の姿を目にした。だから、自らその罠に飛び込んだ。後ろ足をぎちぎちと絞る激しい痛み。それでもその痛みを葛葉が味わわなくてよかった。

そして今。岩になり、静かにゆっくり寿命をすり減らす予定が、葛葉が来てくれた。こんなに幸せな事があるのか。


あの小童のやり方に物申したい気もするが、葛葉に会えたのなら禍も福もチャラになる。


『 初めは優しかったんだよね。殴られた怪我も治してくれたし。だから言われるがままに獲物を狩ってた。どうせ山にも戻れないし。』


まるで天気の話をするように、萩花は感情を添えずにそれまでの事を話した。


『 その内にだんだん自分の意思と行動が合わなくなってきて、やばいなって思って。このまま道具として使い潰されるのもごめんだから、なんて言ったらいいかな、自分の意識の一部をアイツの手の届かない所に隠したの。いつか逃げ出す時のために。その内、何も自分で判断出来なくなって、で、討伐されちゃった。』


都で起きていた異変。相馬が巻き込まれそうになっていた。やはりあれは萩花のことだったのか。

葛葉は硬く冷たい岩にすりりと身を寄せる。


『 でもねぇ。隠していたあたしの欠片を見つけて解放した小童がいたのよ。あたしをあたしとして取り戻してくれた上で調伏してきた。』


─「 これは僕の八つ当たりだよ。僕と父上から何より大切な人を奪った世界に。でも貴女が始めに助けてくれたから、父上は出会えて僕は生まれた。だから死なせない。でも生かしておけない。」


小童は邪気なく笑って、萩花(あたし)の前に立つ。まだ十にもならない子供のまろい額には足跡のような小さな黒子があった。



葛葉の子供。


すぐに解った。この子供を生み出すために自分たちは生まれたのだと。葛葉が慈しむ慈母であるなら自分は親離れを促す壁。(おや)を超えねばこの先の試練も乗り越えられまい。人と稀獣の間の子供なのだから。

子供の父親は葛葉に己の呪力を伝えなかったようだ。だから葛葉は呪力について疎い。だが、萩花は使役されていた為それなりに知識があった。


『 お好きにどうぞ。』


子供─伊織にむかって妖艶に嗤ってみせる。


子供ながら伊織の呪力は相馬を凌ぐ。萩花も黒狐として他の狐も及ばない戦闘力を持っていたため、二人の闘いは三日三晩続いた。続いて─萩花はその身を硬く禍々しい岩に変えられた。


「 僕たちは都に入らない。だから貴女がこんな東の外れの荒地までおびき寄せられてくれて助かったよ。」

『 あんたの父親は何してるのよ。子供をこんなに働かせて。』

「 教えない。」


風が吹き、伊織の少し硬い真っ直ぐな髪が乱れる。額の黒子が露わになった。


「 ともかくこれで僕は一人前と認められる。母上の事を四の五のほざく奴らを黙らせられる。物理的にもね。」


にっこり笑う伊織の笑顔は相馬のあの酷薄な微笑に瓜二つだった。そして人化した時の萩花にも。


「 だから、伯母上にはお礼を。この辺り一帯に人が入り込めない陣を張ります。ここでどうぞ寿命が尽きるまでのんびりしていてくださいね。この結界は僕が死ぬまで有効です。弾くのは人だけなので、そのうち野の獣が話し相手になってくれるでしょう。」

『 まぁありがたいこと。それならあの子が来てくれたらいいのだけど。』

「 …母上の所在は不明なんです。父上は探しませんし、僕の力ではまだまだ。」


年相応のしょんぼりした顔で伊織は少しだけ俯く。萩花はできるだけ優しい、葛葉の口調を真似るように言葉をかける。


『 背の君と子供では受け入れ方も違うのよ。貴方は貴方の心に正直にね。ずっと待ってもいいし探し回ってもいい。でもね。』


一息つく。


『 結果、会えなかっても、恨むんじゃないわよ。』

「 ─! 解ってます、それくらい。ではお元気で。」

『 あんたもね。』


黒い岩に背を向け、少年は荒れ野をさる。


残された萩花は、荒れ野でも都でもかわらない澄んだ青空に意識をむけた。

意識の端を横切る黒い鳥の影。

あの鳥のように、萩花(あたし)は。


自由だ。


身体は動かなくとも、心は縛られていない。


自由なんだ。



萩花の話しを聴き終わり、葛葉はほろほろ泣きながらごつごつとした岩肌を舐める。毛繕いするかのように。舌先が切れて血が滲む。


『 辞めなって。』

「 だって、だって。」

『 あんたに会えた。あんたの子供にも会えた。あんたに子供が立派に育ってることも伝えられた。全方位万々歳じゃん。毛繕いも泣くのも辞めなよ。』

「 だって、だって。」

『 こうしてまたたまに来てくれたらそれでいいから。』


乾いた風が砂を巻き上げ岩肌を擦りあげる。いつかは野の獣もやって来るだろうが、数年はかかるはず。そんな所に葛葉を縛りたくない。萩花は葛葉に山に帰るよう促した。が。


葛葉の白く滑らかな毛皮が燐光を発する。


「 姉さま。もう離れたくないの。」



そして。





「 葛葉狐は禍福どちらを掴んだの?」


手にした葉っぱは少しだけしんなり俯いている。子供の体温と指の圧力には勝てなかったようだ。


「 さぁね。あの泣き虫狐は意外と頑固狐だから禍のままでは終わらんだろうな。」


宵歩きは目を細めて幼子を見る。


いつかこの子も連理の枝を見つけるだろう。その枝は理不尽に折り取られるかもしれない。それでも最後に禍福を選ぶのは自分なのだと、忘れないでいて欲しい。


東野に続く晴れやかな青空に目を向け、彼の地に眠る葛葉を想った。





苔さえ生えない黒く禍々しいその岩にはひび割れのような白い模様が一筋だけ走っていた。そしてその岩の傍らには白い小さな花。目にしみる程の白い小さな花弁の根元は光を飲み込む漆黒だった。


「 ずっとずっと傍にいるの。生命のかたちが変わっても。」



ありがとうございました。


猫と犬と烏の三者面談とか、絵面だけ想像するとメルヘン。でも話してる内容はちょいブラックかもしれません。特に烏は萩花を哀れに思っていたので、葛葉に対してはキツいです。そして萩花を縛っていたおっさんのことを相馬にリークしたのもこの烏です。






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