ロア 水面の裏にうつるもの
人魚の話。
川で生まれて海に流れて奔放に生きて種の継続のために川に帰る。卵を産む栄養補給にヒトを喰う。喰ったらヒレの色が真紅に変わる。婚姻色。稀にヒトを喰わないのに婚姻色がでることもある。その時は真紅でなくて黄金色。このヒレの人魚を食べると不老長寿を得るという。不死ではないので、普通に死ぬ。
という話
「 最近、宵歩き見ない。」
歳の頃5歳くらいの幼子が、ぽつりとこぼす。
水底の苔のひと房、小エビの小さなハサミの関節まで透けて見えそうな清い水の流れる川辺。幼子は水の流れで丸く磨かれた小石を拾いながら、傍らで周りを警戒している茶色い犬をみた。
「 月吠えは面白い話をしてくれない。」
「 得意ではないな。昔語りは宵歩きの管轄だ。」
「 月吠えにとっては面白い話じゃなくても、あたしが面白いと思ったら面白い話なんだけど。」
「 ほぅ。それもそうか。」
犬は川水がかぶらないくらいの位置にある、平たい岩の上で丸くなった。そして、川上と川下の方角に視線を流し、低い声で唸る。
「 我が眷属に見張りを代わらせた。自分が知っている少しばかりの話をしてやろう。だが、川の風は冷える。こちらにおいで。」
幼子はいわれるがままに、犬の懐に収まった。首筋にしがみつくように小さな両手をまわすと、柔らかく暖かな毛皮にふんわりとくるまれた。
「 宵歩きほどに弁は立たん。が、お前にひと時の楽しみを差し出してやろうか。」
今は昔の物語を。
目が覚めた時、半透明のぷよぷよした膜に包まれていた。充分な隙間もない。腹回りの栄養袋はぱんぱんだからそれを消化すれば隙間も出来るが、このまま膜の内側に入ればいずれは死ぬ。飢えて死ぬ。栄養袋がまだぱんぱんの内にここから出て生きなくては。
ソレはもぞもぞ身じろぎ、膜の拘束から逃れようとあがいた。何度も何度も尾鰭の先で膜を叩き擦り引き伸ばす。やがて膜が薄く伸ばされた所に小さな亀裂がはいって、そのまま外界に流れ落ちる。
人魚の孵化。
ヒトが踏み込むことの無い深い山の中。分水嶺近くの渓流。その渓流をのぞき込むように生えた落葉樹の小枝の先に、人魚の卵は産み付けられていた。孵化した幼魚はそのまま渓流の流れの中に落下する。
ぱしゃん。
卵膜を破り孵化する為の卵歯が水の中でさらりと溶けて消えた。同時に腹回りの栄養袋の中身が吸収され、幼魚の身体はヒトの指爪サイズから手のひらサイズにまで一気に成長する。寸法が小さいと捕食されやすい。栄養袋の中身は親が集めに集めた滋養深い物が詰まっていたのだ。
卵を産むと人魚は寿命を終える。親として子供に与えてやれる最後にして最大の贈り物がこの栄養袋なのだ。
川魚としては中程度の大きさになった人魚の肢体は優美そのもの。滑らかで小さな鱗に保護された下半身は見た目以上に力強く水中をするりと泳いだ。時には水面を尾鰭で叩いてひらり宙を舞う。流れの淀む水底では鰭をぴくとも動かさず、僅かな流れにゆらりたゆたう。
上半身は。まだまだ幼く誰かの庇護欲をかきたてる童女だった。ぱつんと揃えて切られた半透明な氷色の髪、水流に磨かれつやつやした白い肌。幼子らしいふっくらした腕と指。不似合いな鋭い爪。表情の読めない瞳孔の大きな丸すぎる目。ぺちゃな鼻。ナニカで染め上げたような赤いおちょぼ口からのぞいているのは、鋭い牙。
人魚は肉食だった。
水中を泳ぐ小さな川魚を鋭い爪で捕まえ、そのまま齧る。宙を舞っては水面を飛ぶ小鳥を捕え、引き裂く。水底の石の隙間で流れの変わるのを待つ沢蟹をつまみ出し、殻を毟って中身を啜る。
美味し、美味し。
ひとつの季節が過ぎるまで、人魚は自分の決めた縄張りたる川の中、全力で生きていた。食べて食べて寝て起きてはまた食べる。孵化した時よりさらに大きくなり、力も強くなった。今では自分の体長と同じくらいの魚でも捕えられるほどに。
魚の身体は川床の石に同化するくらいに薄い灰色の体色から、深い青錆色に変化した。逆にヒトに似た上半身はよりヒトに近い見た目に変わっていた。丸すぎる目は柔らかな一重のまぶたをそなえ、虹彩は砂金色。ぺちゃな鼻は細い鼻梁にやや上向きな鼻筋。綺麗な曲線で形作られている。見事な造作。だが不似合いな鋭い牙はそのままだった。
一つの季節が終わる合図、少しづつ早くなる日暮れのなか、ほろ苦い魚の腸を齧りながら人魚は思い出した。
やばい、行かなきゃ。
周りの景色が紅く色付く頃には、ここを離れなくては。白く染まる頃までぐずぐずしてたら、
死んじゃう。
冷たい水は好き。でも冷たい塊はだめ。耐えられるような身体のつくりではない。
人魚は魚の残りを急いで飲み込むと、座っていた岩の上から鰭元の淵に飛び込んだ。
川下りの手順は本能が教えてくれる。自分の身体より大きな魚を捕え、丁寧に皮を剥ぐ。鋭い爪は柔い皮を破ることなく、綺麗に肉を削ぎとった。その肉はいつかここに帰ってくる為に目玉も残さず平らげた。削いだ皮で上半身を上手に包む。擬態しなくては川を下れない。ここから下は人魚にとって危険しかないのだから。
不老不死。
人魚の肉にはそんな不思議があると、ヒトの世界では言い伝えられている。見つかれば、漁られる。生きたまま千に刻まれ死ねるならまだましだ。生かさず殺さず、そのまま身を削られ続けるとしたら……。
人魚は見も知らぬ同胞の末を想像して、恐ろしさと不条理さに首を振る。
不死なんて、何処から湧いてきた世迷いごとなのよ。馬鹿じゃないの。馬鹿なのね。馬鹿でさえないわ。
それでも、ヒトの住まう地域を通らねば、このままここにいたら冷たい塊に閉じ込められて、結局死ぬ。
人魚はお気に入りの岩棚によじ登り、周りを見渡す。濃さも明度も異なる色に染まったまわりの木々。大きいのも小さいのも生き物たちが等しく喉を潤わせるためやってきた川辺の水飲み場。ご飯がいっぱいいる川の中。
あたしの故郷。あたしの原点。戻ってくるよ。生命を繋ぐために。だから、あたしは行くよ。
魚の姿に擬態したまま、水中に向かって跳ねるように飛び込んだ。そして力強く尾鰭で水をかく。
人魚が飛び込んで出来た小さな水渦に、今年はじめての落葉が落ち、静かに流れて行った。
川幅は少しづつ広くなり、流れも少しづつ緩やかに変わっていく。岸辺の稙相も少しづつ変化していく。ヒトの手を拒むものからヒトの手を上手く利用していく相へと。水の色さえ清廉に澄んだ青から何かを隠すようなくすんだ水鈍色へと変わっていった。
魚の皮っていい保護の色。ひっそり下っていくには丁度いい。
緩い流れに身を任せながら、人魚はおやつがわりの小さな川エビをかじる。このまま下って行き着く先、川の向こうの水の世界まで寄り道せずに行くべきなのか、季節1つを途中で過ごすべきなのか。どちらでもお好きなほうでどうぞと、本能は告げてくる。先まで行けばより安全に成長できる。ご飯も川よりずっと色々あって、しかも美味。川だとご飯には困らないけど、種類は今ひとつ。そして危険。
でも。
丸い月が川面に映る深夜。人魚は魚の皮から顔を出し、月とその横で小さくまたたく星を眺めた。危険はおかしたくないが、川向こうの世界でしか成長出来ないなら分水嶺付近で生まれる必要なんてなくないか。初めからそっちで生まれていれば、ヒトに見つかる危険も捕まって刻まれる心配もないはず。
川を下るのも必要なことなら、仕方ないし。
人魚は川の中流域、川幅もそこそこ広く水深も深い、安全そうな中洲付近の深く抉れた淵を当面の住まいと決めて居座る事にした。様子見に季節ひとつ分を滞在の区切りと決めて。安全そうなら暖かくなるまでいてもいいし、騒がしそうならもっと下流の汽水域まで下って行ってもいい。
人魚は日中は淵の底、すり鉢状の川底で静かにすごしていた。擬態を解き、川底の荒い砂利石の上に仰向けになって、水の中に差し込む陽光を堪能する。水の外で浴びる陽の光は人魚の肌には刺激が強いが、水の中だと柔らかく暖かい。故郷の水より少しばかり濁ってとろりとしているが、その分水面から差し込む陽光も柔く肌にあたる。
夜になれば、ご飯を求め住処を中心に魚を狩る。鱗が大きく骨も硬いが、脂ものって食べがいがあるのが中流域の魚だった。全部食べきらずに多少肉ののこった骨を中洲の草むらに投げ捨てる。きれいに食べた骨だと見つけたヒトに不審に思われかねない。穴熊でも川獺でもいい。小型の肉食獣が漁った魚だと思わせたい。他の獣たちを隠れ蓑にして、人魚はそこで静かに日をすごしていた。食べて寝て。月光浴を楽しんで。
中洲周りではヒトの姿はほとんどみない。全くいない訳でもないのだが。川には川魚を生計に生きる川漁師もいる。幸い住処の淵は流れが不規則で川舟の操作が難しいのと、売り物になるような魚が集まらないため川漁師達からは捨て置かれていた。中洲もわざわざ川舟を乗り付けるほどのものでなかった。中洲やその淵にまで漁に来るのは、よい漁場を確保出来ない者だけだった。
例えば、親から逃げた子供。
人魚が淵に居座ってしばらくしてから、14.5歳くらいの少年が淵の近くまでやって来るようになった。流れに負けないよう川足袋を履いて、繕いが追いつかないほどのぼろぼろのタモを持って。
少年の近づく気配を感じた人魚は淵底からじっと見る。擬態した人魚と川面の間、中指サイズの小魚が群れで横切る。
あ。これ。味がちょっと濃くて美味しいやつ。小骨が多くて食べにくいけど。
小魚の群れを目で追っていると、ふいにタモが水中に差し込まれた。ぼろいタモでも何匹かは捕らえられ、水外にさらわれていく。小魚の群れは驚いて四方八方に泳ぎ去る。浅瀬の岩陰、深みの岩陰。しばらくは群れずに個々で息を潜めて隠れているだろう。
おやつにしようと思ってたのに。
人魚は恨みがましく、ゆらり淵底から浮かび上がると少年を睨めつける。擬態もしているし、あんなぼろいタモで掬われない自信もある。何よりおやつの恨みはなにものにも勝る。
睨みつける人魚の眼差しと少年の暗い眼差しがぶつかった。
少年には子育ての出来るような親はいなかった。物心つく頃には道端に放り出され、物乞いをさせられる。小さくがりがりの幼児を哀れんだ人からもらった小銭は全て奪い取られ、代わりにほっぺたを張り飛ばされる。
稼ぎがたりねぇ。もっと金を持ってこい。
八つの歳まで言われるがまま、物乞いかっぱらい何でもやった。真っ当に働いて口を養うことなど、誰も教えてくれなかった。八つをすぎる頃には得た金を少しずつちょろまかして貯めることを覚え、十の歳に生まれ故郷から逃げ出した。行くあてなどない。でも生きるならましてや死ぬならこの町以外がいい。
流れて二年ほどがたち、ある川沿いの村にたどり着いた。道端に蹲っている老婆に何気なしに声をかけた結果、老婆の頼みで小魚を掬いに川までやってきたのだ。川漁師達も外道を掬うなら邪魔にならないようになと、ぼろいタモを渡してくれた。
あそこの婆の佃煮はめっぽう美味いからな。たくさん持っていってやれや。で、出来た佃煮をちぃっとわけてくれ。
何度か川に向かったことで顔見知りになった川漁師達は、真っ黒に焼けた笑顔で笑い合う。真っ当な仕事で食い扶持を稼いでいる男達の笑顔は、少年の心の底にずしりとのしかかった。小魚を漁って老婆に渡し続けたなら、その重い何かは真っ当に生きるための重しになるのだろうか。
老婆は少女の頃から一人で小魚を掬い、処理をして甘辛い小魚の佃煮を炊いて生計を立てていた。男衆のような力仕事は出来ない。自分だけで出来る術を探し探して、川漁師でさえも見捨てる小魚を食べやすいように工夫したのがこの佃煮だった。今ではたまに行商人も買っていくほどのものにまでなっていた。
だが歳を重ね腰も曲がり、足も萎えて小魚を掬うことがむずかしくなってきた。そんな時に老婆は少年と出会ったのだ。とりあえず手が動くうちは佃煮を作る。あとはそこから考えよう。老婆は少年に小魚を掬ってきて欲しいと頼み、僅かながら駄賃も手渡した。それは老婆にとってはいつもと変わらない、日常のひとコマでもあった。だか、老婆の掌で温まった小銭を少年は強く握りしめる。憐憫でも強奪でもない、仕事の対価としての小銭は額面以上の価値が少年にはあった。
だから。少しでもたくさんの小魚を掬う。ある昼下がり、そのために差し込んだタモのその先に。不思議な魚がいた。自分の半分もない体長に魚とは思えない表情豊かな━怒りの眼差し。
「 お前、ほんとに魚なのか? 」
少年は思わず声を掛ける。
「 ! 」
掛けられた声にキレかけていた感情が反転する。
やばいやばいやばい。バレた。バレた。何でバレた?逃げなきゃ。捕まって刻まれる前に、ここから逃げなきゃ。
人魚はあらかじめ決めていた逃げ道を全力で泳ぎ下る。水の抵抗、川底の小石。肌を擦る。擬態用の魚皮も擦れる。擦れてちぎれ、本来の姿が見え始める。まだ成長しきらない少女の上半身が。
「 人魚だっ。」
川漁師の誰かが目撃し、大声で他の川漁師仲間に伝える。人魚一匹捕まえれば、10年は村が潤う。肉も骨さえもおそろしく高値で取引され、頭はきちんと祀れば水害から地域を守ってくれる。棄てる部位などありはしない。
人魚は不老不死の素だから。
川舟が一斉に声のした方向に船首をむける。川下側にいた舟でさえ。その時の川漁師達の操舵術は、神ががってさえいた。村を豊かにして連れ合い、子供、老いた親、全てがなんの心配もなく日々暮らせるように、今、人魚を捕らえる。
「 網を使えっ。」
「 おうっ。」
「 銛は使うなっ。」
「 おうっ。」
傷をつけたら、価値が下がる。
価値が下がったら、実入りが減る。
実入りが減ったら━川漁師達の思いは一つ。
たかが10年、されど10年。10年でも村に活気がでれば、その間に村の礎を硬く締められる。
川漁師達の執念は人魚の行路を阻んだ。
何度も何度も投げ込まれる網に行く手を阻まれ、巧みに浅瀬まで誘導される。白い上半身は川の中でもよく目立ち、年季のはいった川漁師の目から逃げられない。
そして、ついに。
尾鰭に網が絡まり、人魚は川舟の上に引き上げられた。激しく暴れたせいで下半身の細かな鱗が剥がれて飛び散る。
「 意外とちいさいもんだな。」
「 おれのかかあの半分くらいしかねぇ。人魚っていうから人間並かと思うとったわ。」
ようやく捕らえた人魚を前に、川舟が集まってくる。極上の獲物だ。流石の川漁師達も興奮して、油断した。いつの間にか、人魚を乗せた川舟に少年が乗り込んでいた。川漁師を手伝うふりをして。
アレは俺のもんだ。俺が見つけたんだ。
ひとしきり暴れたあと、疲労からか動かなくなる人魚。だが、少年にはわかっていた。隙を狙っていると。油断するのを待っているのだと。殴られ搾取されるばかりだった幼少期の頃を思い出す。阿呆のふりをして大人しく稼いだ金をわたしていた。でも油断させて、逃げたんだ。
こいつもおんなじだ。死にかけのふりをして逃げる隙を狙ってやがる。
少年の中にあった重しはいつの間にか川藻よりも軽くなっていった。いつか流れて消えるだろう。
少年の薄ら暗い決意に、単純で善良な川漁師達は気付かない。人魚を括る縄を少年から受け取り、人魚が逃げないように見張り番をすると言えば、頼むと笑う、善良な川漁師達。人魚の売り先を相談しあう川漁師達の目を盗み、少年は括った縄にいくつもの切れ目をいれる。目立たないよう小さくいくつも。
「 死にたくないなら何とかして逃げな。俺もこのまま川下に逃げる。恩を感じたんなら、川下で会おう。」
足元に転がる人魚に、小さく声をかける。そして、
「 俺、厠にいきたくなった。ちょっと離れてもいいかい? 」
「 おうよ。引っ括ってあるし、もう虫の息だ。逃げんやろしな。」
少年はその場を静かに離れ、距離を充分とってから走り出した。川下にむかって。人魚と再会できるかは賭けだ。負けても失うものは無い。だが、勝てば。大金が手に入る。川漁師達があれほど夢中になって捕まえようとしていたのだ。高値がつく獲物に間違いない。
少年は勝った。
高揚する気持ちをおさえながら、夜通し川沿いの道を歩き続ける。空の端から色が抜けるように明るくなり、夜が明けた。朝日の最初の一光が川面を照らし、水の流れがそれを受け止める。きらきらひかる水面を何かが跳ねた。
人魚だ。無事に逃げおおせたな。
少年は人目につかないよう、厚く茂った草むらをくぐって川辺に降りた。人魚も何かあれば翻って逃げられるだけの距離を保ち、川中から少年を見つめる。
「 何で逃がした。」
予想外の美しい声。高く細い声は深山の渓流のせせらぎに似ていた。
人の言葉が喋れるんか。
少年は驚いたが、出来るだけ優しく聞こえるように静かに答える。ここが踏ん張りどころ。人魚から信用されなければ、金を掴めない。
「 キレイなのに刻まれるのは可哀想だから。」
人魚の尾鰭がぱしゃんと揺れる。揺れた尾鰭は朝日を受けて黄金色に輝いた。
「 さっきみたいに魚のフリは出来る? お前が海まで逃げるなら、陸から俺が守ってやるよ。」
「 ……うん。少し待って。」
少しの躊躇いのあと、人魚は頷いて水中に滑り込んだ。出来るだけ大きな魚を捕らえ、出来るだけ急いで擬態用の皮を上半身に纏う。肉も目玉も喰わない。捨てていく。だってこの場所は帰る場所じゃないから。
網や川底の小石で擦れた尾鰭がひりひりする。薄い傷がいくつもついていて染みるように痛む。打撲で鬱血した所はそのうちにくすんだ黄色に変色しそうだ。
身支度を整えた人魚はぱしゃんと水音をたてて、少年に合図を送る。
そうして、二人は水の中と外、線引きされながらも海までの道行の同行者となった。
時には人魚が捕らえた魚を少年が道端で売りさばいて路銀を稼いだり。少年が身なりのいい老人から財布をスリとったり。遊郭そばの割掘を深夜に通った時には、人魚が見つかりそうになって慌てて逃げ出した。
誰もいない時には小さな声でたわいも無い話を楽しんだりもした。陸の話を聞きたがる人魚。水の話を面白がる少年。
恐らく二人にとっては初めての体験だったのだ。誰かと会話を楽しむなんて。人魚は生まれてからずっと一人で生きていたし。少年にとっての会話とは相手の顔色を伺うための添えものだった。
少しずつ近付く距離。だが二人の間には線引きがあった。陸と水。少年の奥底にある欲。人魚の中にあるヒトへの嫌悪。
それが表に現れた時が、終わりの始まりだった。
「 上の方で人魚が見つかったとよ。」
朝市に出る許可を貰い、魚を売るための準備をしていた少年の横で、泥の着いた葉物を並べていた農民達が噂話をしていた。少年は素知らぬ顔で耳だけ向ける。
「 まぁ、直ぐににげられたが。」
「 勿体ねぇなァ。」
がはがは笑う。
「 とっとと〆ちまえばよかったになぁ。どうせ喰うんだろ。生かしとく意味があるんか? 」
「 人魚だぞ。腐った肉でも恐ろしいほどの値がつくんだ。生け捕ったなら、どんだけのお宝に化けるか。」
「 それでもよ、逃げられちまったら元も子もねぇよ。」
「 ちげぇねぇ。しかし肉をひとかけでも喰えば、不老不死。いいねぇ。」
葉っぱの裏に隠れていた虫を摘み上げ、投げ捨てる。
「 そういえば、海辺の偉い方のとこの姫さんが危ねぇらしいな。」
「 おぉ。お可哀想にな。足の先から腐れ落ちる奇病だってなぁ。人魚が捕まっとったらよかったになぁ。」
なるほど。
人魚の売り先はそこだな。
少年はにっこり笑って人魚が捕らえた魚を売り始めた。
人魚は。尾鰭にうっすら浮き上がってきた金の筋を見つけて動揺していた。人間が無責任にいい伝えているのは戯言だ。人魚の肉を食べても不老にはならない。成長速度が少しばかり遅くなるだけ。逆に人魚の方こそ人間を喰わねばならない。本能が教えるのだ。
人間の血肉だけが人魚の卵に必要な栄養素なのだと。だから卵を産む準備が整った人魚は尾鰭に色が着く。人魚が川を下るのは魚ではなく人間を狩るため。
ちょうどいいのが傍にいるなんて、幸運すぎ。あの子なら食べちゃってもだぁれも気付かないし。
人魚はどうやって少年を川にひきずりこもうか、楽しい想像に浮かれる。川底の砂は故郷の渓流の砂より細かい。それが肌に当たる感触が気持ちよくて、浮かれ気分を抑えるように、尾鰭をぱたぱた靡かせた。生まれた時には普通の川魚と同じような、薄く平べったい水を掻き泳ぐためだけの作りの尾鰭だった。それがいつの間にか陸に住む尾長鶏の尾羽根に似た、幾重にも重なる柔らかく薄いものに変化していた。重なり合う鰭の色味は黄金色。
あの子を食べたらそのまま下って行こ。大きな水の世界でもっとたくさんご飯食べて、しっかり栄養つけたら一気に川を登って、大切な卵を産まなきゃ。
それが人魚の全て。
指先の鋭い爪をぺろりと舐めた。
魚を全部売りさばき、少年は上機嫌で川から離れた小道を歩く。懐には魚を商った金以外に、以前老婆から貰った駄賃の小銭があった。野菜を売っていた男から金物屋の場所を教えて貰い、その小銭で小刀を買う。本当は生かしたまま売り飛ばすほうがいい稼ぎになるのだろうが、それで失敗しては元も子も無い。警戒される前にかたをつけるほうが成功率が高い。何か理由をつけて傍により、一息に刃を入れよう。首筋か、心臓か。
不老不死なんていらねぇ。どうせ真っ当にはなれねぇんだ。面白可笑しく生きるだけの金が手に入ればいい。
老婆からの駄賃は小刀となり、小刀は少年の重しを完全に切り崩した。
相手に対して隙を見せなくなったからか、二人とも一手を打てないまま表面上は今まで通りの日々を送っていた。
凍える季節の到来を告げる蒼く無表情な満月の夜。魚を商って得た金で、少年は中綿の入った暖かな上着を手に入れていた。継ぎはあるものの暖かい。吐く息が白くなるこれからは重宝するだろう。それを着込んで川辺にしゃがむ。
「 たまにはその魚の頭を取って、顔をみせてくれよ。」
「 危険なこと言う。」
人魚は呆れたように尾鰭で水面を叩く。ぱしゃんと水音がして、少しだけ少年の近くに寄る。魚の皮から頭をだす。肩先より長く伸びた氷色の髪がこぼれ、水面に流れ落ちる。細い首。華奢な鎖骨。
心臓にするか。
少年はにっこり笑って人魚をみる。
首を狙って顔に傷をつけたら価値が落ちるかもしれねぇな。
かじかんだ手を暖めるふりで、懐の小刀の柄をぐっと握りしめた。
知らぬ様子で人魚は岸辺にゆるゆると泳ぎ寄る。いつの間にか擬態用の皮は脱ぎ捨てられて、むき出しの上体があらわになっていた。
「 ! 」
「 どうした? 」
人魚の動きが止まり、細い眉がゆがむ。少年は、気づかれたかと柄を握る手の力を緩めた。が。
「 石。石で手を切った。痛い。」
人魚は少年に手のひらを差し出した。赤い血。意外と深い傷なのか手のひらは赤く染まり、手首から肘に幾筋か流れ川に落ちていく。
「 しょうがねえなぁ。血止めするからこっちに来なよ。」
手首を掴んで、そのまま心臓を突くか。
心配そうな表情で少年は人魚に手を差し出す。
「 舐めてくれたら血は止まるよ。」
人魚は唇を弓なりにして煽るように嗤う。
少年は怪しまれないよう少し呆れた表情で、差しのべられた人魚の手首を掴み、傷口に顔を寄せた。ぺろりと舐める。甘い匂いと血の味に一瞬目眩がしたが、
小刀を人魚の左胸に突き刺し、ひねった。
ばちゃん
尾鰭が大きく弾き上がる。少年ががっちり手首を掴んでいるため、離れられない。流血を最小量で済ませるためか、少年は小刀を抜かずさらに奥へとねじこむ。人魚の抵抗は尾鰭の激しい動きだけだった。それも少しずつ弱まっていき、ついにはぐったり動かなくなった。
漁られた魚のように、人魚は表情なく少年を見る。
「 何で? 」
「 何でって、金になるから、かな。」
「 そっか。でも、あんた、あたしの血を舐めたから、ニンゲンじゃなくなるよ。」
「 どういうことだよ?」
「 人魚の血は不老不死って言うじゃない。腐肉でもそうなんだから。生き血だよ? 効果満点。」
少年に掴まれたままの手首。傷ついた手のひらを誘うように動かす。ほんの少しでいい。不老不死という言葉に興味をもたせられたら。
「 不老不死がなんだよ。面白可笑しく生きれねぇならそんなもん呪いじゃねぇかよ。」
「 不死なら何度でも楽しい遊びができるよね。何度でもやり直せるし、上手に生きればこの世の全てが手に入る。それに。」
踏ん張りどころ。
「 人魚から直に生き血を得たものは、そうじゃないものより偉いのよ。」
「 偉い?」
「 そ。より純粋な生き血だもの。同じ不老不死でも一番偉いよ。」
少年の瞳に迷いの色が混じりだす。生まれた時から殴られ侮られていた。それが、ひっくり返せる?
「 あたしを売り飛ばすより、自分で食べちゃったほうがいいと思うよ。」
小首を傾げて、食べて、と誘う。
小刀を握る手の力が少し抜け、手首を握る手には力が入る。そのまま手を引き、人魚の首筋に喰らいつく─喰らいつこうとする。
「 ! がはっ! 」
人魚の鋭い爪が少年の胸を抉った。
「 あははっ。あはっ。残念っ。」
爪をぐりぐりと肉にめり込ませながら、人魚は高笑う。
「 人魚の血肉が不老不死なんて、ニンゲンの戯言よ。強いていえば、不老長寿くらい。不死になんかならない。」
少年の胸から爪を引き抜き、爪に巻きちぎれた肉を舐める。
「 あんたもせっかく長寿を得たのに、死んじゃう。残念。生き延びても、長寿を寿げない。ざぁぁんねんっ。」
「 て、てめ、ぇ。」
人魚の鋭い爪は少年の心臓に達していた。
「 ま、あたしも長くは生きられないから、おあいこ。」
川辺りに膝をつき崩れ倒れた少年から離れ、水中に沈む。見上げれば満月。水面の裏から見るのは初めてかもしれない。空中ではくっきりした輪郭も、水面の裏からみればゆらゆらと揺れて見える。泣きながら見たときのように。
人魚の身体は水のなかで解けて消える氷のように、少しずつ小さくなっていった。幾重にも連なった鰭も水に同化して消えていく。
最後に残ったのは小さな小さな鬱金色の小魚だった。小さな腹はふっくらしている。卵がひとつ。少年を煽って生き血を舐めさせたのも、心臓の肉を口にしたのも、全てはこの卵のため。尾鰭の色が婚姻色に変化したのは、胎内の卵が成熟したから。生まれてからずっとひたすら食べ続けていたのは、卵を育てる為。孵化したあとに必要なものは、今、食べた。ヒトの血と肉。肝や心臓ならなお良し。力の強い子が生まれるだろう。
行こ。
大好きな故郷へ。凍てつく季節はすぐ目の前。無事にたどり着いて卵を産むまで、勝算はとても低い。それでも、行かない選択肢はない。
小魚は小さな尾鰭で力いっぱい水を掻き、川上へと泳ぎ始めた。
「 少年は死んだの?」
大きな犬の懐、幼女は尋ねる。
「 さぁな。以前、老いた沼亀から聞いた昔話だ。甲羅干し中の与太話だし、奴らは水にまつわる話しかせんよ。人魚を刺したヒトの行く末などに意識はもたん。」
「 ふぅん。人魚が無事に卵を産めてたらいいな。」
少し剛い犬の毛に顔を埋める幼女。その白い髪を犬はそっと舐める。この子には全ての生命を慈しむ性根を持って欲しい。人間も含めて、全ての生命に。
連れ合いをヒトに殺された自分としては、業腹なことなんだがな。
午後の柔らかな陽射しの下、うとうとし始めた幼女の髪をほっぺたを優しく舐めながら、月吠えは人魚の最期を思った。
人魚は故郷の渓流に還りついた。旅立った時にはまだ青葉も多かった深山の渓流。今は白く彩度のない世界だった。辛うじて閉ざされていない流れに被さる枝。ほんの少しの葉がしがみついている。小魚となった人魚は水の中から何度も何度も飛び上がる。枝へ、葉裏へ。卵にとって少しでも安全で快適な揺りかごを探して腹を擦り付ける。
鬱金色の身体は無茶な跳躍と落下でぼろぼろになっていく。それでも、このたったひとつの愛しい卵のために、何百何千と飛び上がる。
一枚の葉が、風もないのに柔くゆれ、ついに卵は着床した。
小魚は安堵して受け身も取れずに着水。
息絶えた。
その小さな身体に多くの生き物達があつまる。そしてほんのひとかけの肉を口にして去っていく。
不老長寿。
人魚の肉は人魚を育てた渓流に住む生き物たちへ、その恵みを分け与えて消えていった。
連綿と続く、生命の循環の一部を人魚は確かに担って逝ったのだ。
人魚と少年の純愛か殺りあいか、最後までぶれぶれ。でも不老不死というキーワードがあるなら、こうなるかな。
最後の月吠えと子どものやり取りの後の一幕は、映画のエンドロールを意識しました。でも、出演。人魚、少年、川漁師、って、やっぱり固有名詞でてないやん(泣)