ロア 唄のない奏者
民間伝承的な短い話です。登場人物の名前はほぼ出てきません。
宵歩きのユキヒョウ化の理由は活動報告にのせました。
「 宵歩きは物知り 」
一度も人が足を踏み入れたことなどない、山の奥、緑濃い森の中一本の立ち枯れた巨木があった。大地を掴むように張り出した根はみっしり苔に覆われている。そんな根と根の隙間、居心地良さそうな窪みに、ちんまり身を預けている幼子がいた。歳の頃は二歳か三歳か。子供特有の柔らかな髪は背中半ばまで覆うように長い。色は白。毛先だけ木の実で染めたように紅かった。
そんな幼子が平べったい口調でつぶやく。柘榴石に似た暗い瞳には何の感情ものっていない。
「 んふ。昔話を集めるのも、幻獣魔獣の生態をさぐるのも趣味だからな。人の生態に興味はないが 」
幼子の目線より少し上にある根に、器用な体勢で寝そべっているのはしなやかな身体のネコ科の獣だった。体毛は銀にも見える薄いグレー。そこにもう少し濃いグレーと黒鉄が花のような模様を描いている。
「 宵歩きの話が聞きたい 」
「 どんな話をご所望だ? 」
「 ヒトとヒトじゃないものの話 」
「 ほぅ。お前の将来に役にたつかな? 」
「 知らない。でも、話を聞いて楽しかったら、今のあたしの役には立つ 」
「 それもそうか。私も語り部の練習になるな 」
宵歩きは組んだ前足に顎を乗せ、喉を鳴らすような声で語り始めた。
今は昔の物語り。
木霊が先に樹につくのか、樹が木霊を呼び入れるのか。それは誰にもわからない。ただ樹齢数百年の古木に木霊がいるとは限らないし、まだ双葉の幼木に麗しの木霊がよりそうこともある。
木霊のついた樹木が切り倒されると、一緒に息絶える木霊もいれば他の樹木に移り変わる木霊もいる。そしてごく稀に切り倒された樹木にそのまま寄り添い、加工された木材につく木霊もいるという。
その木材で建てられた家屋は、街中に潜む妖の住処になった。
その木材で造られた橋は、どんな嵐が来ても落ちることがなかった。
その木材で作られた楽器は、たった一人の弾き手にしか弾くことができなかった。
少年がその楽器を見つけたのは偶然だった。
村から村に渡り歩く行商人の両親に育てられた少年は、初めての村に着くとまずそこの土地神の祠に行くことを習慣としていた。
「 土地神さまはその土地の守り神さま。挨拶もしないで、商いしたってうまくいくわけないさ 」
父親は日に焼けて真っ黒な顔で笑う。
「 気持ちが大事だ。俺の握り飯を一つ供えに行ってくれ。お前は歌でも歌って納めてくるといい 」
少年は大きくうなずくと竹皮に包まれた握り飯を懐に納め、村外れにある小さな祠にむかった。握り飯の中身は父親の好物でもある小魚の佃煮。ここに来る前に立ち寄った村の名産品でもある。しょっぱくて飯の共にも酒のあてにもぴったりの逸品だ。
父さんはいつも土地神さまに自分のいっとう好きな物をお供えするんだよなぁ。
少年はくすぐったいくらいの誇らしさを胸にためて、懐の握り飯を小さな手で支える。
僕も自分のいっとう好きな物をお供えしたい。父さんを見習って。……でも。
少年は声がだせなかった。もっと小さい頃に行商に訪れた町でいざこざに巻き込まれて大怪我をおったのだ。身体は回復したが潰された喉が治ることはなかった。喋ろうとしても笹葉が風で煽られるような不快な掠れた音しか漏れ出ない。怪我を負う前は天上の鈴といわれるほどの澄んだ声をしていて、歌うことが好きだったのに。
祠についた。小さいながらも、住人たちが大切にお世話をしているのか、汚れも傷もなく中に座する石仏は磨かれてつるつるしている。石仏の福福しい笑顔に、
つるつるだぁ。
少年も笑顔になる。懐の握り飯を取り出すと石仏の前にそうっと供え、手を合わせる。そして声は出なくても、心の底からの歌を歌う。
この村に入れて貰えて、感謝を。
この村で商いできる、感謝を。
父さんの握り飯を受け取ってくれた、感謝を。
僕の歌を聴いてくださるといいのだけど。声のない、心の中でしか歌えないから、贈り届けられないよな…。でも、僕は心の中ででも歌うことがいっとう好きだから、歌を納めさせてください。
目を閉じ、無心に感謝の歌を供える少年。その前の祠の背後、祠を守護するようにはえていた木々の葉が風にそよぎ、数枚の若葉が祠の屋根に落ちる。歌の奉納が終わり目を開けた少年は、きれいに清掃されていたはずの祠の若葉にまみれた屋根を見て慌てて葉を拾った。
枯葉じゃなくてまだ若い葉っぱなのに、なんで落ちたのかな。でもきれい。持って帰ってもいいかなぁ。
少年は拾った若葉数枚を懐にいれ、残りを祠の後ろの木々の根元に戻した。何かを手にする時は必要なだけにしておくんだぞ。そうすれば巡り巡って、また必要になった時に俺たちの前にきてくれるからな。そんな父親のいいつけのままに。
そして。
見つける。
木の根元、半ば土に埋もれた古い楽器を。弦は失われ、本体もぼろぼろだが、たしかにそれは音を奏でる器だった。自分の手には少しばかり大きなその楽器を少年は手に取る。大きいのに、なぜかしっくりと手に馴染んだ。
貰ってもいいのかな。
無くした声のかわりに。あれだけの大怪我も声以外は完治した。このぼろぼろの楽器もきれいにしたら素敵な音を鳴らしてくれるかもしれない。僕の声のかわりに、土地神さまに歌を納めるお手伝いをしてくれるかもしれない。祠の後ろ、守り樹の前で少年は今にも壊れそうな楽器をそっと抱きしめた。
「 おやおや。行商人とこの坊主がそんなとこでなにしてるんだ 」
通りすがった老爺が、声をかけてきた。頭髪は白いが背筋は伸びて体格もがっしりしている。着ているものも清潔で継ぎもない。村のなかでも裕福な家の者なのだろう。少年は楽器を差し出し、手振りで落ちていたことを伝えた。楽器を目にして老爺は厳つい顔を少しほころばせる。
「 榊さまのところに落ちとったんか? ずいぶんぼろぼろだな。だが榊さまが守ってらっしゃったんかもしれん。坊主、それを持って俺についてくるといい」
と微笑んだ。少年が躊躇っていると、笑みを大きくしてさらにいう。
「 行商人とこの坊主がしゃべれんのは聞いてる。無体はせんよ。その胡弓を何とかしてやらな、な 。俺の家に胡弓に張れる弦がある。本体を磨く道具もある。出来るだけの手当をしてやるからついておいで 」
少年はての中の楽器を見つめてからうなずいた。きれいになるなら、また音が奏でられるなら、この楽器にとってはいっとう喜ばしいことにちがいないから。
老爺はこの村で木材を加工して日用品を作っているのだといった。若い頃は村を出て宮大工をしていたが、怪我をして指が思うように動かなくなったのをきっかけに、村に戻ってきたのだと。
「 奉納楽器の修繕もしたからな。指がたいして動かなくてもそれくらいはできるぞ。何より榊さまが守ってらっしゃったものならできる限りの手当てをせんと、バチが当たるわ 」
老爺の自宅は予想通りの立派な家屋だった。瓦葺の屋根に広い土間、奥に幾つの座敷があるのか少年には想像もつかない。さらに敷地内には作業場らしき小屋までいくつかあった。作業場の横には立派な材木がきっちり組んである。老爺は家内の者に行商人まで状況を知らせに行かせ、そのまま楽器の手当のため作業小屋の一つにはいっていった。
小刀や小さなカンナ、膠に漆、いくつかの道具を揃えると吉方に備えられた棚に向き合う。素焼きの花器に活けられているのは、少年の懐にしまいこまれた若葉と同じ葉のついた枝一本。老爺は棚と枝に一礼すると、棚の前に胡座をかいて少年から楽器を受け取った。そして作業を始める。
少年はじっと老爺の手が繰り出す手業をみつめていた。
息を吹き返した胡弓の胴面にはおそろしく精密な彫刻がなされていた。土に埋もれていた年月もその彫刻には何の影響も与えなかったようだ。老爺のいう、守られていた、は正しく真実だったのだろう。
流れるように動いていた手が止まる。
「 坊主。お前は選ばれたのかもしれんな。あの祠はこの村に悪い風が吹き込まないように守ってくださっているんだ。だから村人は祠の手入れを欠かさない。榊さまに気持ちよく過ごしていただくために、な。あの守り樹の根方にこんなものが埋もれていれば、必ず誰が気付く。誰も気づかなんだということは、坊主に見つけさせたかったんだろうよ。」
僕に?
大きく目を見開く少年を横目で流し見て、老爺はさらに続ける。
「 声の出ない坊主を榊さまが憐れんでくださったのかもしれん。声の代わりに楽を奉じろ、とな。あるいは、」
見たこともない架空の生き物を彫り込んだらしい彫刻を、職人らしい古い傷跡さえ残る骨太な指先で優しくなでながら、老爺は少年を見つめる。今度は正面からしっかりと視線を合わせて。
「 俺は宮大工をしていた時に、たった一度だけ不思議な物を見た。木で拵えた小刀だ。柄も刀身も木。聞くと、ふた抱えもある大きな樹の真ん中の芯を削り出して作られたものだと言われたよ。色々な奉納刀も見てきたが、未だかつてあの木刀ほど神気に満ちた刀は見たことがない。この胡弓にはそれに近い何かがありそうだ。そして、な。」
少年に胡弓をさしだす。
「 木刀は自分の所有者は自ら決めるそうだ。奉納されていた社の神主がそう言って、木刀を客人扱いしておった。この胡弓も自分の弾き手としてお前を選んだのかもしれんな。榊さまもそれを認めて、坊主の掌にそれを落としてくださったんじゃなかろうか。」
少年は恐る恐る胡弓を手に取った。吸い付くようにしっくり馴染む。ぴんと張られた弦が何かを誘いかけてくるが、まだ怖くて弾いてやることができない。でももう手放せない。僕の代わりに、僕と一緒に歌を歌ってくれるんだから。
「 弦の張り方を教えてやろう。己の手で世話をし、絆を深めるがいいぞ。」
少年はその日から父親の村での商いが終わる日まで、老爺の作業小屋に通い、胡弓の弦の張り方や手当のやり方を学んだ。その間、父親の手伝いには老爺が使い走りの小僧を幾人か用意してくれたので、少年は安心して老爺の手業を学ぶことができた。
「 坊主。お前はただしゃべれんだけだ。その手は、人だけじゃないたくさんの生命あるものに癒しを贈る事が出来るんだぞ。忘れるな。」
最後の日、老爺は弦を巻いた束とひと瓶の漆を少年に手渡す。
「 そして、な。胡弓の音を生計の道にするなよ。飛ぶ鳥がさえずりを飯のたねにするか? 歌で飯を食う人ももちろんいる。そのお人にとっては、それが仕事なんだからな。だからやりたくなくてもやんなきゃならねぇこともでてくる。だけどなぁ。この胡弓はお前を弾き手として選んだんだ。胡弓の意に沿わぬ事をしちゃならん。」
生計の道にすれば、必然したくないことも出てくる。だから父親の跡を継いでもいい、自分の足でしゃんと立った上で、胡弓と楽を楽しめ。
老爺─師匠の言葉に少年は深く頷く。手の中には見違えるほどしっかり手入れされた胡弓があった。胴面の彫刻も磨かれてしっとりした艶を放っている。しなやかな体躯にもっふりした三本の尻尾。細く鋭い鉤爪まで細かく丁重に彫り込まれた幻獣の飾り彫刻。その木彫りの瞳にはどこか満足気な気配が漂う。
みつけた。あたしたちの弾き手。
後年。唄をつけていないにもかかわらず聴くものすべてに、暖かな木漏れ日や爽やかな風を感じさせる胡弓の演者が現れたという。彼は演奏で金銭を得ることはしなかった。だから誰でも彼の演奏を聴くことができたのだ。空を飛ぶ鳥でも、地を走る獣でも。水中を泳ぐ魚でさえも。
「 楽しめたかい?」
宵歩きは目を細めて、幼女を見る。
「 不思議な感じがする。」
「 だろう。登場人物が皆気持ちのいい者ばかりの話だからね。」
そんな話だから選んだんだ、そう言いたげな宵歩きを幼女は深紅の瞳で見上げる。話の続きはないのかとの無言の問いかけに。
「 弾き手が身罷ったあと、なぜだか胡弓も消えた。だから胡弓と少年の話はこれでおしまい。」
宵歩きは大きな欠伸をひとつして話を締めくくった。
どっとはらい。
囲炉裏端で草履や猫ちぐらを編みながら、持ち回りでするような民話が好きだったり。
そして私は音痴。