信誠コーポレーション、午後零時〜値段のつけられる身体〜
片山京奈(28)は、昼休みの通りを歩いていた。アーケードの天井には、ゆるい湿気が澱んでいる。どこかで焼きそばの匂い。どこかで甘い缶コーヒーを開ける音。
グレーのパンツスーツに白いブラウス。
何の変哲もない、スーパー「ライフ志村」の制服。けれど、体に沿ってわずかに張り付く布地の緊張感が、後ろを歩く男たちの目を離さなかった。
京奈の肩幅は広くはない。けれど骨格が引き締まり、腰の位置が高い。エプロンを外した状態の胸のふくらみと、パンツ越しの臀部のラインは、すれ違う通行人の視線をわずかに遅らせる。
肉屋の店頭でコロッケを揚げる手が止まり、交通誘導員が誘導に失敗しそうになる。
後ろを歩く通行人は、ある程度まで京奈に近づく。が、誰も追い越さない。
駅前のアーケードが開け、信号を渡る。
夏の陽射しが白く、直線的に落ちてくる。パンプスの先が、濡れた歩道に「キッ」と音を立てるたび、思考の角が削れていく。
雑居ビルは、どの街にもあるような、外壁がくすんだ二階建て。一階は美容室。窓には「ヘアカラー受付中」の赤い紙が斜めに貼られていた。
その奥の鉄階段を上がると、ガラスの引き戸に黒いカッティングシートでブラックジョークのような社名。
― 信誠コーポレーション
鍵付きのポストと、誰もいない踊り場の熱気。蝉の声が遠くで跳ねている。ドアノブに触れると、金属が肌に張り付いた。
右手に封筒。左手の指先がわずかに震えていた。見せ物にはならない、無表情で通す。
息を吸って、吐く。指に力を込め、ドアを引いた。音がした。
その瞬間、視線が三つ。空気が一段、重くなるのを感じた。
ドアを開けた瞬間、空気の層が違った。
午後の陽差しに包まれた外界と、この部屋の曇った冷気の間には、見えない膜がある。
空調は効いているはずなのに、温度ではなく“質感”が違う。濁っていて、鈍くて、重たい。
「片山さん、どうぞ」
いつもの支店長が笑って言う。声は明るいのに、言葉が空気を削るように聞こえる。京奈の胸元にかけた白いブラウスが、薄く呼吸する。
その下のグレーのパンツスーツは、朝にアイロンをかけたばかりなのに、湿り気を帯びて体にまとわりつく。
椅子は、部屋の真ん中にぽつんと置かれていた。いつものソファーは壁際に移されて、座面の中央に穴が空いたパイプ製の丸椅子。座面がやや低い。
上座のデスクに二人。支店長と黒縁メガネの若い男。そして、首にミラーレスカメラをぶら下げた無精髭のカメラマン風が後方に控える。誰も何も説明しない。
京奈は封筒を出し、デスクに置く。支店長が受け取って中身を確認するが、その指は数える以上に、京奈の胸と腰を見ている。
「ご苦労さま。でもさ……これ、毎月払っても元金減らないよ?」
初対面の若い男が笑って続ける。
「あと三十八回? 利息合わせてね。実質、元本が減り始めるのは、これ以上延滞しなきゃ来年から」
「それにさ、こういうのって“誠意”も必要なんだよ。金額以上の返すと言う意思表示。分かる?」
意思表示。京奈は、何も答えない。目線だけを正面に固定する。
「ね、座って」支店長が言った。
京奈は、その丸椅子に腰を下ろした。硬い。低い。深く腰が沈む。パンツスーツのヒップラインが強調されるのが、自分でも分かる。
またこれか、六年前を思い出す。
「見るだけ」。
「査定じゃない」。
「エロじゃない」。
言葉はいつも滑らかで、行為はいつも鋭利だ。
「うん、やっぱり思った通りだ」若い男が言う。「この椅子、身体で変形するんだ。パンツの縫い目が張ってるの見える? わかる? あれって、“素材”の証拠だよ」
カメラマンが、背後からほんの少しだけ近づき初めて声を掛ける。
「さっきからずっと思ってた。呼吸の深さが揃ってる。撮られたこと、あるよね?」
沈黙。
「それにこの、スーパーのレジの制服、自分で細かくフィッティングしてるでしょ?」
さらにカメラマンは京奈の背後に近づく。
「こんなラインが、吊るしの制服で出るもんか」
そう言うとカメラマンは手元の資料に目を落とす。
「そうか、名前見て思い出した、高木さんのとこの“ケーナ”だったっけ?」
「高木プロダクションのモデル件フィルムメーカーだったよね。」
「高木さんの撮る絵が急に垢抜けたのは、高木巨匠作じゃ無く、ケーナ作だって業界じゃみんな知ってたぜ。」
カメラマンは若い男の方を向き
「HMCのPVのシリーズ知ってるだろ?」
と問いかける。
そして呟く。
「急に消えたと思ったらこんな所に」
京奈の肩が、わずかに動いた。
若い男は口をあんぐり開けている。
支店長が低く、優しく言う。
「へえ。エンドロールにクレジットも出してもらえないような世界で、修行とはいえよくやってきたね。」
「でもさ」
彼は一転冷たく続けた。
「利子返済出来なきゃ、こっちの言うこと聞くしか無い。過去に例外は、一度も無い」
その言葉が京奈の胸に落ちた時、内側で何かが微かに折れた。パキ、と音がしそうなほど静かな壊れ方だった。
『なんで、逃げなかったんだろう』
『なんで、来たんだろう』
そう考えても遅い。
もう視線が、身体中を覆っている。
そうだ。これは、撮られる側の空気だ。
撮る者と、撮られる者の間にある“透明な差”。私は今、その差に巻き込まれてる。
けれど。
『だったら私は、“見せ方”を知ってる』
京奈は、ゆっくりと立ち上がった。部屋の空気が揺れる。
パンツスーツの布が椅子から剥がれる。
金属の擦れた音が、指先を通じて体内まで届く。
「帰ります」
支店長が呼び止める。
「ちょっと待って、まだ撮らないって。脱がせるわけじゃない。あんたがこの空気を“作ってる”んだよ。天然ものだよ。価値がある」
その声を背に受けたまま、京奈はドアに手をかけた。
カメラマンの声が、京奈の背中に響いた。
「完成されてる。あれはもう、“映像”だよ。歩き方、座り方、黙ってるその姿勢、衣装。あれは、すでに切り取られてる」
「部屋の全てが彼女の頭の中で常に再生されている。」
京奈のドアを開ける手が止まる。
「この部屋の今の10分間のドラマ、これこそあのケーナの作品だ。もしカメラが回っていれば一体いくらの値がつくか…」
京奈は振り返らず、ドアを閉めた。風が通り、蝉の声がどこかで鳴いていた。
京奈は、駅までの道をまっすぐに歩いた。
お尻がまだ、あの椅子の感触を覚えていた。吸い付くようなフェイクレザー、薄く汗を吸ったスーツの裏地、視線。
そして、言葉。
「過去に例外は、一度も無い。」
電車の音。信号の点滅。アーケードのざわめき。それらのすべてが、自分の“値札”を告げているように感じられた。
彼女はそれを振り払うように、歩いた。
同日 深夜、ツバメ亭・二階の部屋
六畳の部屋の中央に、MacBookが置かれている。畳の上には、冷蔵庫から出した麦茶と、ほぐれかけたおにぎり。
そして、あのカメラ。
DJI Pocket 3。
ジンバルを起動すると、くるりとレンズが回転し水平を保つ。京奈の手の中で、機械は冷たく、正確だった。その中に、自分のすべてが詰まっていると、なぜか思えた。
この数週間、日曜の朝。湯楽の里の洗い場。誰もいない開館直後の時間。
京奈は自らの身体を、鏡越しに、湯気の中で、泡の中で、繰り返し撮影していた。
淡い光の中で、シャワーに濡れる背中。
泡立てたシャンプーを首筋に滑らせる手。タオルで拭き取る前の、柔らかく沈んだ臀部。
鏡の曇り。湯気。静けさ。
そこには、他人の視線も、強制もなかった。ただ、自分の意志と、演出と、沈黙だけ。
それを、京奈は編集していった。
Final Cut Pro のタイムラインに、自分の体を並べる。クロスディゾルブ。スロー。背景音を切り、湯気の音だけを残す。鏡に映る肌の色温度を微調整。
肌を修正しない。影を削らない。ありのままの“ケーナ”の絵を、レイヤーに並べる。
BGMはシングルトーンのピアノ音を控え目に。画面に文字も入れない。エンドロールは大文字の“K”一文字。
15分。ただ一人の身体の、呼吸の記録。
30秒のサンプルも作成。
編集が終わり、プレビューを押す。
モニターに映るのは、濡れたタイルの上で、ひとつひとつの動作をなぞる自分の身体。鏡越しのまなざしは、誰かを誘うでも、拒むでもない。ただ、そこに在る。
「……綺麗だと思ってしまった」
自分で撮った、自分を見て、そう思ってしまったことに、少しだけ唇を噛む。
⸻
翌日早朝
― 投稿
OnlyFans の管理画面に、タイトルを打ち込む。
《午前9時の私》
── No retouch, no light. Just me.
年齢認証、タグの設定、価格($12.99)。
自動購読OFF、ダウンロード不可。
「アップロード中… 78%、89%、100%」
そして、最後のボタン。
「公開」
指が触れる。
押せば、誰かが見る。誰かが評価し、誰かが値をつける。だが、それは今日の、あの部屋のように「される」ものではない。
「“見せる”のは、私が選ぶ」
京奈は、小さく息を吸って、ボタンを押した。クリック音が鳴った。
画面が切り替わり、
投稿は公開状態になった。
数分後、
再生回数:1
再生回数:4
再生回数:13
♡
── もう、戻れない。
「値段をつけられる身体」。そんな言葉が浮かんだのは、いつからだったろう。
誰かに見られることで、自分の価値が測られていく感覚。着ている制服すら、布ではなく“タグ”になっていく日々。そして、ある日ふと、気づいてしまう。
──黙って受け入れることではなく、
自分の“見せ方”を知っていること。
この章では、京奈がただの被写体から“演出者”へと転じていく
ほんの一瞬のきっかけを描きました。
「映されること」と「映すこと」の狭間で、彼女は静かにギアを切り替えはじめています。「吊るしの制服」で、あれほど完璧なラインが出せる女が、
“ただの素材”であるわけがない。
コロッケを揚げる手が止まり、交通誘導員が旗を振り損ねる。それだけで、街の律動が微かにずれる。それだけで、人の視線が一瞬遅れる。
彼女がどんな“映像”を作っていくのか、誰と交わり、誰を巻き込むのか。
次の章では、彼女が生み出した作品の
波紋が、ようやく世界に届き始めます。