ツバメ亭、深夜零時〜働くということ、見られるということ〜
昼はスーパーのレジ、夜は定食屋の配膳係。住み込みで働く片山京奈(28)は、借金返済に追われる日々のなか、他人の視線と自らの身体のあいだに揺れる。何も起こらない一日が、じつはとても静かに、彼女を変えていく。
朝の風の匂い、遠くで鳴る車のクラクション、交差点を渡る人々の足音。どれもが奇妙に鮮明で、そして少しだけずれている。
片山京奈(28)は埼玉県で24時間営業のローカルチェーン店を展開するスーパー「ライフ志村」のレジで、商品をスキャンする手を機械的に動かしていた。
ピッ、ピッ、と音が響く。客の顔は見ない。グレーのパンツスーツの制服は初夏の汗を吸い、肌に張り付いている。指先がバーコードをなぞる速度は、疲労でわずかに遅い。
「片山さん、もう少し笑顔でね」
佐々木という中年社員が、小声で神経質に耳打ちしてきた。京奈は軽く会釈だけして、視線を下げたまま無言で作業を続けた。やはり笑顔は無い。そのパンツスーツの後ろ姿に佐々木の視線が絡みつく。
10時過ぎの小休憩、バックヤードを抜けて休憩室へ向かう。そこはエアコンの効きが悪く、折り畳み椅子が並ぶ殺風景な空間だった。
ただ、24時間営業のため存在するシャワールームは京奈にとってとてもありがたい存在だ。始業前と始業後利用させてもらっている。
京奈は椅子に腰を下ろし、スマホのLINE画面に表示された「延滞通知」の朱文字を見てため息をつく。
元映像作家時代の機材代とロケ費が次第に膨らみ、事実上回収不能のまま債権が他社に移され、債務者は京奈のみとなり、金利は跳ね上がり、取り立ては陰湿で執拗なものになった。
今は、日中のシフトはスーパー、夜18時からは住み込みの定食屋「ツバメ亭」の配膳。週六で働いても、借金の元金は一年間ほとんど減らず、利息の帳尻合わせに追われる日々が続いていた。
外出着はライフ志村から支給される制服、グレーのパンツスーツと白いブラウスがあればなんとかなる。住み込みの「ツバメ亭」からはタイトなジーンズと白いTシャツ、エプロンが支給されている。トップスはワークマン 、下着や靴下はしまむらで事足りる。
ライフ志村の昼休み、現金払いを義務付けられた債権者の元に出かける。このキャッシュレス時代に現金を届けに行くのは馬鹿げていると思うが、先方の意向なのでしょうがない。
駅前の雑居ビルの二階、通りに面した窓ガラスに「コーポレーション信誠」の文字。古びた応接室の一角で、スーツの男がネチネチと口を動かす。
「片山さん、ねぇ。わかってると思うけど、今月、ちょっと遅れてるよね? うちも仕事だからさ、日割り利子付くし…厳しくいかないとダメなわけよ。……ほら、今のままじゃ、人生詰んじゃうでしょ?、延滞する前に何でも相談してくれなきゃ」
その言い回しが、京奈の中の何かを押しつぶしていく。けれど、彼女は何も言わない。ただ、封筒に入れた現金を机の上に置き、相手が確認するのを待ち、ゆっくりと腰を上げた。振り返りドアへ向かう。
汗でパンツスーツが張り付いた臀部に、まとわりつく男の視線を感じた。振り返らずに扉を閉める。階段を降りる靴音が、乾いたコンクリートに響く。
昼食は抜いて午後の仕事に戻る。15時に小休憩後、17時にレジ打ちを終え、タイムカードを打刻する。
休憩室でシャワーを浴び、ショートカットの髪を乾かし、歩いて数分のツバメ亭に急いで向かう。カウンターに準備されている賄いの夕食が嬉しい。
「ツバメ亭」は駅前アーケード商店街の中ほどにある。両隣は自転車屋と乾物屋。のれんの掛かった木製の引き戸と手書きの看板が目印だ。ランチ時間はお弁当の配達のみで、夜営業は17時開店だが、京奈の勤務は18時からだ。
アーケードに面した引き戸を開けると、先ずは右側にレジ、仕切りを挟んで左手に四人テーブルが三つ、廊下を挟んで右にカウンターが八席とカウンターに面した厨房。奥左手には小上がりが三卓だ。
昔ながらのポテトサラダや鉄板ナポリタン、トンカツやオムライスが人気で、夕方になると学生やビール目当ての常連客、家族連れが混じって賑わう。
厨房で調理するのは、二代目の40前後の店主、客や京奈は「マスター」と呼んでいる。先代の癌入院を期に修行先のホテル勤務から戻り、先代の死去に伴い後継ぎに。無口でめったに笑わない男だが、手元の包丁さばきは正確で無駄がない。
洗い場とレジを任されているのはマスターの母。先代からの名残で女将さんと呼ばれている。ぶっきらぼうな物言いの奥にも、時折京奈への優しさがのぞく。
ツバメ亭の仕事は客やマスターのトリガー待ちなので、何も考え無くて済む。注文を聞き、注文を通し、仕上った料理を配膳して不要な皿を下げる。有料の飲み物は瓶ビールだけなのもありがたい。
頭の中を空っぽにして対応すると、酔った客の絡みや、しつこい客の誘いも全く気にならない。入る店を間違えたような場違いな客のボディタッチでさえ、自分の事では無いと感じる。
京奈はマスターから支給された白いTシャツとデニムのボトムス、朱色のエプロンと同色の三角巾を身に付ける。
京奈が働きだしてから、随分と男性客が増えたと女将は言う。実際、京奈を目で追う男性客は多い。マスターでさえ、テーブルを拭く京奈のお尻を食い入る様に見つめ、女将から小突かれる事さえある。
キビキビと躊躇なく動作する京奈は、全身が躍動する看板娘となっていた。笑顔は少ないが、たまに笑うとお店全体が華やぐ。
テーブルとカウンターとの隙間が狭く、最近になって、配膳を手伝うマスターの腿が、彼女の臀部に軽く当たることが増えてきた。
わざとか偶然か、京奈は判別できなかった。ただ、それに伴い、賄いの夕食に京奈の好みそうな一品が追加される様になってきた。それならまあ許せる。
もし時給を上げてくれるのなら、その分だけお尻を撫でられようが特に問題はない。
料理を提供し、空いたお盆を胸に抱え込み次の料理を確認するため厨房を振り向く。
エプロンを押し上げる形の良い胸がお盆で潰されて、くびれたウエストから張り出すデニムの豊かなお尻が存在感を示す。その瞬間、お店のざわめきが一瞬止まる。
カウンター席の端には、毎週月、水、金に来る常連客、ビールとポテサラ、それにトンカツが彼の定番だ。今日は飲み足りないのか、タコブツとビールをもう一本追加。
京奈がビールを運び、テーブルに置く。その動作の間、常連客は、エプロン横のTシャツの膨らみに視線を移す。京奈が一歩下がると何事もなかったように空いたコップにビールを注ぐ。
初夏の金曜日、瓶ビールが飛ぶ様に売れ、開店直後に気を利かせ、ひとケース多めに冷やしておいた京奈にマスターが礼を言う。
客は減り始めトイレは混み続ける。洗い場に皿を下げた京奈の背中に、トイレに立ったテーブル客がよろめきぶつかった。
「キャッ」と小さく叫んだ京奈はそのままカウンターの男性客〜たぶん新規のお客さん〜におおいかぶさる形となる。柔らかな胸の二つのふくらみが、男性客のTシャツの背中に押し当てられ、その背筋に緊張が走る。
肩をゆっくり押して胸を離し、小声で「ごめんなさい」と呟く京奈、なんでもないというふうに小さく首を振り、前を見つめて硬直し続ける男性客。
その様子に京奈は少し表情を緩める。
夜の23時の閉店後、京奈は客席の床に掃除機をかけモップで水拭きする。テーブルやカウンターを一つひとつ拭いていき、調味料と割り箸、爪楊枝を補充する。ゴミをビニール袋にまとめて裏に出しポリバケツに入れ蓋を閉める。
0時ごろ厨房の清掃を終えたマスターと、洗面所の清掃を終えた女将が京奈をねぎらい、歩いて5分ほどのの自宅に引き上げる。
見送りに出た京奈にマスターが「常連客の獲得ありがとう」と小声で囁く。京奈の赤く染まった頬は暗がりで気付かれない。
カウンター上にはおにぎりが二つ皿に盛られラップが掛けてある。京奈の朝食用に女将が握ってくれていた。ありがたい。
京奈の住み込み部屋は、二階の六畳間。風呂はなく、トイレや洗面台は一階の客用を使う。
京奈は洗面を済ませ、デカンタに井戸水を汲むと二階に持って上がり、服を脱ぎ、膝上まである長いTシャツをかぶると、デカンタの水を飲みながらひと時の休息を得る。
スマホをチェックするが、顔をしかめ、すぐにスマホを伏せる。
アーケードに面した木製の窓を開け、雨戸を閉じようとする。が、思いとどまり、畳に座りこむと窓枠にもたれ、誰も居なくなった商店街を眺め続ける。
活気付いて来たツバメ亭の仕事には充実感を感じ始めるものの、京奈には何も残らない。
どこで何がずれ始めたのだろう、どうやって戻すのだろう、そもそも何処に戻すのか、答えは出ない。
片山京奈という女性の「普通」の一日を描いてみた。ただそれだけのつもりだったのに、気づけば彼女は、自分でも気づかないまま、いろんな人に見られ、何かを与え、奪われ、そしてなにより、なにかを耐えていた。
この物語には、決定的な出来事はない。
でも、誰かの人生の一日とは、案外そんなものだと思う。
そして、その「なんでもない」ように見える一日を、一番美しく、そして苦しく描いてくれるのが、京奈のような女性ではないだろうか。
次は、彼女が唯一心をゆるめる場所、スーパー銭湯「湯楽の里」での一日を描く予定です。身体を洗いながら、京奈が洗い流したいものとは、いったい何なのか。そして気づいたことは…
そこに触れていけたらと思っています。