8. 弱みを見られるのは気まずい
翠は紫苑に指定された時間、午後五時から六時に毎日弓道場に通うことになった。週に一度は見に行くと紫苑は言っていたが、わりと毎日来てくれている。こまめな人だ。
弓の練習をするようになっても、翠の日々は特に変わりはない。水やり、餌やりなどのいつもの仕事を一通り終わらせた後、よし、今日は壁の掃除をしようと翠は思い立ち、赤く塗られた壁と向き合った。そこそこ汚れている。一回軽く綺麗にして塗り直した方がいいな、あとで琴音か利子に相談してみるかと翠は雑巾を持ったまま考え込んだ。
「あなたが翠?」
「はぁ……」
すると、多くの女官を従えた派手な女性が話しかけてきた。じゃらじゃらと過分なほどの装飾品、主張の激しい紫色の裳、明るすぎる桃色の着物を身にまとっているという非常に目に痛く、ただ自分の富をひけらかす品のない格好であり、趣味じゃないなと翠は思った。恐らく、国王の妃の一人だろうと思い、一応膝をついて礼をした。翠は誰なの?怖いよおッ!!と困惑しっぱなしであった。優華、槙子ではない。それにしても、プライドの高そうな御仁である。
「お正月に琴音様の宮を代表して賭弓に参加するそうねッ!」
「え、ええ……」
それはそんなに重大なことなのか。翠はやっぱり断ればよかった、じたばたやだやだうわーんすればよかったと後悔した。
「それまで、琴音様の宮で働いている保証はあるのかしらね!」
何が言いたいんだこの人と翠は相手の意図を掴み損ねた。そもそも誰だこの人という疑問が拭えない。念の為自己紹介してほしいと切に願った。
「今までわたくしのところから出していたのよ」
そうならば、こいつは梅家関連の人なのかなと翠は思った。翠は人間関係、勢力図を把握するのが不得意であるため、後宮事情に大変疎い。噂を聞いてもよくわからない、興味ないねと頭に入ってこないのだ。最悪、顔合わせたときに覚えればいいだろうというスタンスである。
「なんでこんな子にやらせるのかしら……!!」
それにしても、ひどい言われようだな、初対面だぞと翠は思った。つーか、この人は何のために来たんだ?ぐちぐち私に言うためか?と翠は呆れてきた。なぜ名前を知らない奴にと腹まで立ってきた。
「何とか言いなさいよ!」
「申し上げることはございません」
何とかと言ってふざけたい気持ちを抑え、翠は頭を下げた。翠ではなく彼女の方から賭弓の代表者を出したいのならば、琴音に言うべきだろう。でなければ帰れと心の中で机の上に両肘を立て、両手を口の前で組んだ。
「何なのよ、その言い方は!なってないわね、そこで日が沈むまで跪いてなさい!!」
女は怒鳴り散らして帰って行った。翠は白いハンカチでお見送りをしたいくらい清々した気持ちであった。跪けと言われたが、今は太陽がちょうど真上にあるお昼頃。結構跪きタイムがあるなと翠はげんなりした。しかも、日が沈むまで跪いていると弓の練習に間に合わない。ならば、先約を優先すべきだと、翠は四時をまわるまでずっと跪いていた。
「膝が痛すぎる……」
長時間跪くなんてやったことないからやってみたら膝がヤバいと翠は呻いていた。至極当たり前のことである。石畳だからかな、やばい、これやばい、痺れてるしと翠はしばらく悶絶していた。
それでも、翠は何とか弓道場に辿り着き、まあ、大丈夫そうだと自己判断して弓の練習を始めた。しばらくして、ガラッと扉が開く音がした。今日も紫苑が来たようだ。ありがたいことである。そういえば、あの女は誰か聞いておこうと翠は思いついた。梅家関連ならば知っておいて損はないだろう。
「紫苑様」
「何だ?」
「今日、梅家と近い関係の妃の人と会ったんですけれど、どなたかわかります?」
「……どのような方だった?」
これで絞れないくらいいるのか、意外と妃多いなと翠は思った。
「……たくさん女官を引き連れてて、谷間がガッツリ出てて、そこそこの美人で……」
「もう少しわかりやすい特徴で頼む」
身も蓋もない翠の説明に紫苑は待ったをかけた。
「わかりました。派手な感じで、プライドだけが高そうで……」
「あ、ああ……」
紫苑に思い当たる人がいるようだと翠は感じ、もうひと押しだ、他にわかりやすい特徴を言おうと心がけた。
「髪は茶色で、どことなく寂しそうな人でした」
「寂しそう……?」
「ええ、何となくですけどね」
ただの翠の勘である。思い込みに近いもので、確証はない。
「そうか。……髪が茶色で華やかな梅家と関連のある妃は、八重様だな。恐らくその方だろう」
「正月の賭弓の代表者をうちから出していたのにって絡まれたんですよ」
紫苑にそれを先に言えみたいな顔をされた気がした。気のせいだろう。気のせいだ。気のせいに違いない。
「ならば、八重様だな……。大丈夫だったか?」
「ええ、まあ……」
概ね大事なしと翠は思っている。翠はどうでもいい人間に何かされてもどうでもいいなとすませてしまう悪癖がある。
「……膝を痛めているのはそのせいではないのか?」
わかるのか、すごいっと翠は紫苑の観察眼に慄いた。
「ずっと跪いてたんもんで、ちょっと痛いんですよ」
「……見せてみなさい」
「大丈夫ですよ、もう平気なんで」
ピシャリと取り付く島もなく翠は言った。袴を捲れって?面倒この上なしと思ったのだ。よし、話をちょっと変えようと翠は方向転換を試みた。
「八重様はどのような方なんですか?」
「……そうだな、先程君が言った通りの方だ。寂しそうなのはよくわからないが……」
なるほど、高慢ちきで女官とかいびっているタイプなんだなと翠は理解した。ほぼ見たまんまだと呆れた。
「寂しそうというよりは……、あんな目に痛い服装をしていたのに誰も止める人がいないんだって思っただけですよ」
「……な、なるほど」
普段着にも関わらず、自分の豊かさを見せつけるかのように過度にゴテゴテ飾り付けていた。そんな彼女に忠言をする人間はいないのかと翠は思ったのだ。あれをよくお似合いですと持て囃しているのだろうか、薄気味悪いことだ。肯定だけしてくれる取り巻きを引き連れて何が楽しいのだろう。あれでは八重はただの道化にすぎないと翠はいつになく辛辣だ。翠は八重が悪趣味ということに不快感を抱いているわけではない。琴音の赤大好きは彼女の趣味だなと感じたが、八重の豪勢さは空っぽな虚栄心が伝わってきて、薄ら悲しい思いがしたのだ。
「そういえば、膝を痛めているならば今日は終わりでいい」
「ご心配なく、大丈夫です」
まだ膝のことを覚えていたのかと翠は少々うんざりした。
「そうか……」
その後、練習中、ずっと紫苑は翠のことを不思議そうな目で見ていた。翠はすっごい膝のことを気にしてきて鬱陶しいなと感じていた。