小話3. 月光
これはしがない兵の一人と貴女の話。貴女との出会いは、月光の下。シャーロと風和国の戦争は膠着状態がひと月ほど続いており、兵士達の間には少々の鬱憤が溜まっていた。私は仲間達のそんな雰囲気に嫌気がさし、気晴らしにと一人楽器と向き合っていた。
「やあ」
私が心向かうままに手を動かしていると、貴女は親しげに声を掛けてきた。折しも見事な満月を背負い、また、黒い服・黒い髪も相まって、貴女は静かな夜がよく似合う人だった。
「その楽器は何?」
私は馬頭琴と答えた。馬頭琴と答えた方が王都の人には通じやすいのだ。
「へぇ、見たことないな……」
王都ではあまり見ない楽器を弾く者がいて、貴女は興味を持ったようだ。他にはどのような楽器が弾けるのか、それはどのような楽器かなどと訊ねてきた。私は簡単に説明したが、これは何?どういう意味?どこでよく見かける?とこちらが舌を巻くような質問を受けることがあった。思いがけないことに、なかなか有意義だった。
「もし、よかったら、楽器を教えてほしい」
私はすぐに了承した。貴女は参謀、つまりは上官にあたる人であるため、断りづらいこともあったが、私は貴女に興味があった。否、私は初めから貴女に惹かれていたのだろう。夜の月明かりが似合う、淡々と輝く貴女に。
「いつもありがとうね」
それから、私たちは両の手では数えきれないほど交流を重ねた。いつもと貴女が口にするほどの時間を共に過ごしている。貴女が楽しそうに楽器に触れる姿を隣でみることができた。私は初めて様々な楽器が弾けてよかったとしみじみ思う。
私は風和国の端に住む少数民族の出身である。元々、森之助が率いていた部隊には私と似た境遇の人間がそれなりにいた。戦争に征かされる前は、私は街に出て多種多様の楽器を弾くことでお金を稼いでいた。例に漏れず、あまり豊かではなかったため、少しでも楽になるように家族への仕送りに励んだ。街の人々は、自分や他の人にとっては当たり前に傍にある楽器や服装を物珍しそうに、しげしげと眺めてきたため、不愉快であった。その他にも色々とあまりいい思いをしたことはなかった。だが、あの経験がなければ、私は様々な楽器を弾くことはできなかっただろう。月夜の下、貴女の傍にいるためであるならば、あれらはよい経験、得難いことと思うことができた。
「いつか礼をしないとね」
私は恐れ多いと首を振った。楽器を教える礼はもう貰っている。私は貴女といられるだけでよいのだ。
「そんなこと言いなさんな。何か用意しよう。……もちろん、希望があるなら聞くとも」
貴女はニッと笑いかけた。私はその笑みにドキッとしたため、ぎこちなく礼を言った。
「しかし、ちょっとは上手くなったかな」
私はもちろん上手くなっていると返した。事実、三味線や琴など他の楽器を弾けることを差し引いても、上達具合は目を見張るほどだった。コツさえ掴めば、貴女は何でも卒なくこなせる人のようだ。刀も弓も一流で、戦場を駆ける姿はまさしく狼のように美しい。また、何でもできて、何を考えているのかわからない人である。まるで月が掴めないように掴み難い人だ。だが、美しい月に手を伸ばして触れたくなるように、貴女を掴みたくなった。核心に触れたくなった。そして、つい、私が死んでも私が教えた楽器を弾いてくださいねと図々しい願いが口から出た。
すると、貴女は面を食らったように目を少し見開いた。
「いいとも」
しかし、すぐに平常心に戻って、いつものように笑った。私ではこの人を動揺させることは叶わないらしい。悲しい気持ちがじんわりと広がったが、そのようなところが好きだった。私なんぞに揺るがない、そんな強いところがとても眩しい。
もし、私が死んだら、貴女は私のことなんて忘れてしまうでしょう。何があっても変わらない月のように、貴女は私が死んでも何も変わらないでしょう。それでいい。私も貴女に覚えてもらうことは望まない。変わってほしいなどと露にも思わない。ただ、私が教えた楽器を貴女に奏でてほしい。であるのならば、私はその音の中で生き続けられる。貴女の傍に残り続けられる気がするのだ。
そして、訪れる最期の時。呆気ない死に際。野戦病院で息絶え絶え。自分でももうすぐ死ぬということがわかった。わかるのかと初めて知った。
「やあ」
初めて会った時のように貴女は私に声を掛けた。血や泥で汚れているが、貴女は変わらず美しかった。私は死に際に会えると思っていなかったため、欲が出た。お願いがあると私は何とか声を出した。
「いいよ、何?」
貴女は二つ返事で受け入れてくれた。安請け合いもいいとこである。そのご厚意に甘えて、私が死ぬまで傍にいてほしいと不躾にも貴女の手を掴んだ。
「いいよ。そんだけ?」
貴女は平坦な声で言うと、私の手を握り返してくれた。思いの外、暖かく、そして、固い手だった。生きている人間の手、戦う者の手である。
私はそれだけか?と問う貴女にお慕いしている方に傍にいてくれることは幸せだと伝えた。
「へえ、そう」
貴女は何てことのないように笑った。本当に伝わったのか、不安になる。まさに暖簾に腕押し、悲しくなるほど好きだ。月の光のように静かで、冷たくて、遠い存在で、闇夜を照らす貴女が好きだ。何があっても変わらず在り続ける貴女が好きだ。
一つ聞きたいことがあると私は貴女に言った。人の欲とは尽きないものである。もう死ぬと解れば、貴女のことが少しでもしりたくなる。
「何?」
貴女は私の口に耳を寄せて、願いを聞き取ると、先ほど同様に快諾した。私は、貴女はなぜ戦うのかと聞いた。貴女は志願してここに来たらしい。たしかに、戦場を駆ける姿も美しい。真っ直ぐ進む強さは美しいものである。だが、原動力がわからない。貴女はなぜこの地獄で真っ直ぐ立っていられる?走り続けられる?恐らく、団長のためでも国のためでもない。私には解らなかった。
「そうだねぇ、あなたは?」
はぐらかされたと私はか細く息を吐いた。貴女にはそんなところがある。質問をすると、ねえ、あなたは?と返される。私のことに興味が一粒でもあるのであれば嬉しいが、どうやらそうではないらしいことはすぐに理解した。
それでも、私は力を振り絞って、貴女の問いに答えた。生きたいから、死にたくなかったからだと。もっとあなたと音を奏でたかった。貴女に目を奪われていたかった。だが、それはもう叶わぬ願いである。もう私の目は霞みつつある。
「私もそうだよ、生きたい。自分のためさ。……あとは」
…………………。
「あら、死んでいる」
翠は魂が失われたものから離れて、立ち上がった。翠は人は死んだら終わりだと思っている。死んだ人はものとなり、魂は死と同時に失われる。所謂、死後の世界や幽霊などの類は信じていない。
「ダワさん、ありがとう」
それでも、聞こえているといいなと思い、翠は囁いた。返事は無かった。彼の口角が僅かに上がったような気がした。




