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8. 未亡人、なんて失礼過ぎるネーミング

 夜が近づき、舞踏会の時間がやって来た。

「行こうか」

 紫苑はすっと立ち上がった。厚底の靴でも難なく、品よく歩いている。見事な体幹とバランス感覚だ。

「ですね。葛家の当主に顔を覚えてもらう感じでいきます?」

 森之助は気安げに紫苑の方を見た。主に翠に関するお喋りで、真面目で良い人じゃん、ひとまずは害なしと判定したようだ。

「できれば、次会う約束を取り付けたいな」

「欲張りますね」

「頑張ってみるよ」

 紫苑は片方の口角をくいっと上げた。どんな奴でもイチコロな艶やかさがある、これならイケるなと森之助は思った。



嘉那子(かなこ)様のお見えです」

 誰かしら、あの方、まあ!随分背が高いわ、でも、流行遅れな服だし、随分地味ねぇ……とひそひそざわめいている。紫苑が変装している嘉那子という女性は梅家に近い家の遠縁にあたり、引っ込み思案な性格から、ずっと実家や夫の領地に籠っていた、という設定だ。そんな彼女を心配してついて来た従者が森之助の役どころである。貴族は人数もそれなりに多く、出入りが激しいため、潜入しても事が発覚することはないと紫苑は平然と宣っていた。森之助は会場の様子を窺うが、皆物珍しそうに視線を向けているが、誰も嘉那子の正体に疑問は抱いていないようだ。

「嘉那子さん、はじめまして」

 主催の葛家当主・弓削(ゆげ)がこちらの方にやって来た。中肉中背の体格からは、貴族特有の自信や誇りが溢れ出ている。どうも嘉那子という見慣れない女に興味があるようで、脂ぎった顔を満面の笑みで彩っていた。

「ご機嫌よろしゅうございます。弓削様」

 にこ……と嘉那子は少々ぎこちない笑みを浮かべた。緊張している様子が窺える。落ち着いた雰囲気の美しい未亡人に世間慣れしていない初々しさがある。弓削はにんまりと口角を上げそうになった。

「……あなたのような素敵な方にお会いできて嬉しいですな」

「そんなこと……、わたくしなんて」

 よよよとしどけなく、嘉那子は背を丸めた。まるで頼りなさげな儚い女性である。こんな器用な真似ができるのかと森之助は意外と演技派な紫苑に驚いていた。

「ご謙遜を……!こんなにも美しいではありませんか」

「わたくしなんて、背も高く、あの人がいないと何もできないダメな女なのでございます……」

「いいえ、そのようなことはありませんよ」

 嘉那子を宥めようとしているが、弓削の声に薄気味悪い湿り気が帯びている。鼻の下が伸びているなと葛家当主の気色の悪い精力を森之助は感じた。

「そうでしょうか……。そう言ってくださるのは嬉しゅうございます」

 そんな弓削の下心にはまるで気づかず、嘉那子は少し心を許したかのようにささやかな笑みを浮かべた。まるで、弓削に安心して心の内に入れたかのようである。

「実は、こんなわたくしではいけないと思って、この舞踏会に参加させていただきましたの」

「そうでしたか、そうでしたか」

 弓削が大仰に相槌を打った。

「ですか、どうしても気後れしてしまいまして……」

 嘉那子は困りきったように、形の良い眉を寄せた。

「……変わりたいのですか?」

「え、ええ……、もう手遅れかもしれませんが」

「そのようなことはありませんよ。よいものがあるのです。少しお時間よろしいかな?」

 よいもの、上手いこといけば麻薬ではないかと森之助は思った。密かに流行っている麻薬は芥子から作られる阿片である。不安が取り除かれ、気分が高揚する効果があるらしい。代わりに、依存性も強いようだが……。

「奥様、いけません。初対面の相手について行くなど!」

 今日行くのはダメだろ、準備もできていないしと森之助は心配性の従者のガワを被って、紫苑を止めた。

「静かにしていて!わたくしはこの方とお話ししているの。……もう、あちらに行っていていいわ」

「か、かしこまりました」

 しょげっと肩を下ろして、従者は主人から離れた。森之助は距離を取って、紫苑を見守ることにした。

「申し訳ございません。家の者は心配性で、いつまでもわたくしが子どもだと思っているのです」

「いえいえ、確かにこれからでは夜も遅い。また次の機会にいたしましょう」

「いつお伺いすればよろしくて?」

 期待に満ちた瞳で嘉那子は弓削を見つめた。

「来週の日曜日に内輪で催しがあるのです。……ぜひご参加いただければ」

「もちろん、行かせていただきますわ。……彼は置いて行きますわね」

 気を完全に許したかのように、嘉那子は茶目っ気を出した。

「はっはっはっ……。そういえば、何かお好きなことはありますか?」

「え?ええ、そうですわね……」

 嘉那子は袖口を手でぎゅっと握りしめ、言いあぐねている。

「何でもいいのですよ、嘉那子さん」

 甘ったるい声で弓削は嘉那子に囁き掛けた。

「……珍しい楽器が好きですわ」

「ほぅ……、それは素敵ですな」

 弓削は興味深そうに弛んだ顎に手を置いた。

「……耳にしたことのない音というだけで魅力的に感じてしまうのです」

 嘉那子は少々自信なさげに扇で口元を隠した。自分の内を晒すことを恥じているかのようだ。

「あなたはなかなか面白い方ですな」

「まあ……!あまりそのように言われたことはありませんが……、嬉しいですわね、本当に」

 嘉那子は噛み締めるように言った。面白いなんて言われたことがない、いつもつまらないと表されてきたのに……と劣等感を抱えていた。しかし、弓削の一言だけで、自分は特別かもしれないという優越感の甘美さに酔っている様を嘉那子は見せた。

「では、そのような芸を持つ者も呼んでおきましょう」

「ありがとうございます。楽しみにしていますわね。……弓削様」

 嘉那子は満面の笑みを浮かべた。少女のように明るく純粋な笑顔である。年齢の割に幼くあどけないが、人を魅了する美しさがあった。色白の頬が熟したかのように赤く色づき、紫色の瞳がキラキラと輝いている。

「……ええ。では後日」

 弓削は掘り出し物を見つけたと舌舐めずりをしたい気持ちを抑えながら、別の招待客のところに挨拶に向かった。嘉那子は品の良い笑みでにこやかに見送った。

 それから、嘉那子は慣れない舞踏会を不安そうな顔でうろうろした後、気疲れしたようで、早めに会を後にして、馬車に乗った。

「上手くいったみたいすね」

 先に馬車にいた森之助が紫苑に声を掛けた。

「ああ、恐らくな」

 紫苑はいつものように固い声で返事をした。嘉那子モードをオフにしたようだ。

「随分演技派でしたね」

 正直、こんなこともできるなんて驚きましたと森之助は言った。とても麗しい未亡人姿に森之助は感嘆していた。そして、紫苑にできないことはないのかとも考えた。後で翠にでも聞いてみようか。まあ、あの人もあの人で、できそうにないことがパッと出てこないなとげんなりした。ちなみに、翠にはできないことは当然あるが、できないことは人前でやらない、他人に任せる主義である。

「そういや、あなたは自分の顔の使い方をご存知だったんですね」

 弓削に対して、紫苑は花の(かんばせ)をフル活用しているように見えた。性に合わなそうなことしてんなぁが森之助の正直な感想である。

「……兄の猿真似だよ」

「お兄様?」

「ああ、兄はあのように顔の美しさをここぞという時に使っていた。それを参考にしているだけだ」

 紫苑の兄というと元第七師団副団長、玉蘭である。森之助は顔を見たことはなかったが、名前だけは聞いたことがあった。たしか、副団長の職を辞した後に出家し、方々(ほうぼう)を旅しているらしい。時々、国王に謁見して、各地の様子を伝えているそうだ。


 

 何はともあれ、紫苑と森之助は葛家当主に近づき、次に会う約束までも取り付けた。そこで、麻薬を勧めてくれば、捕まえようと二人はにっこり笑った。
















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