5. やっていいこと、わるいこと
夜を一つ越え、ちゅんちゅんちゅんちゅんちゅんがちゅんと雀の声が聞こえる。そろそろ、朝の九時、お約束のお時間が近づいてきた。第六師団の庁舎付近で、森之助が翠を待っていると、珍しく時間ギリギリにのそっとやってきた。あー見えて、翠は時間厳守、そこそこ早め早めにのそのそ行動するタイプだ。
「やあ、森さん」
「おはようございます」
「清々しい朝だね」
翠はいつもと変わらない様子だ。負けたら、第七師団の名折れなのがわかっているのだろうかと森之助は様子を伺った。
「……一ついいですか?」
「ん?」
「あなた、八時でもふつーに起きてますよね?」
翠は朝でも夜でもいつでもそれなりに活動できるのだ。これは、森之助も同様である。戦場では朝も夜も関係なしだったのだ。
「そうだねぇ」
翠は含みのある意味深な笑みを浮かべた。森之助はこの人には何か考えがあるのだなと感じた。
「勝算はあるんですね?」
「まあね……」
翠は懐に手を入れたまま、第六師団庁舎に入った。森之助はその後に続いた。その背を見ながら、何か策があるならば、翠が勝つのだろうと安心していた。森之助は翠のことを信頼しているのだ。
「逃げるかと思っていたぞ?」
案内された通りに進むと、副団長のあざみが道場で今か今かと待ち構えていた。額に鉢巻、肩に担がれた木刀と気合いの入った格好をしている。
「こんにちは。では始めようか」
翠はあざみの様子を気にせず、こんにちはと朗らかに挨拶した。時間・場所・場面を気にせず使えるこんにちはと、翠はなぜか盲目的にこんにちはの利便性を信じている。そのため、相も変わらず、こんにちはヘビーユーザーである。
「随分、急いているな」
あざみは翠の苛立ちを誘うように顎を上げた。
「早く終わらせて早くご協力してほしいんでね」
翠は気怠そうに応対した。
「……まあいい。あなたは強いと聞いている。楽しみだ!」
元晴チックなバーサーカー味を感じるなあと翠は困った。まあいいか、私には関係ないと翠は用意された木刀を手に取った。この木刀に特に細工はされていないらしい。そーゆーことはしないようだ。
「いざ、尋常に勝負!」
翠は開始の合図と共に素早くあざみに近づき、懐から取り出した布にくるまれたものを彼女の顔面に投げつけた。
「うっ……」
あざみは声もなく悶絶した。かわいそうに、顔面には茶色いものが乗っている。
「勝負あり、だね」
翠はあざみが悶えている隙をついて、木刀を彼女の首にあてた。
「…………っ」
あざみは悔しそうに顔を歪ませ、翠を見上げた。やや、恨めし気である。
「ルール無用なら、文句はないよね」
翠は性格が悪い人の鏡みたいな笑みを浮かべて、あざみを見下ろした。
「わかった……、私の負けだ」
「じゃあ、我々に協力してくれるね?」
「我ら、約束は守る!」
あざみは力強く宣言するや否や、ダダダッとどこかに走り出した。あの茶色い物を洗い流しに行ったのだろう。翠は笑顔であざみを見送った。
「これで、何とかなりそうだ」
翠は終わった終わったと木刀を置いて、森之助に近付いた。
「一応聞きますけど、あんた、何投げたんですか?」
森之助は眉根を寄せながら、翠に尋ねた。
「うんこ。とれたてほやほやだよ~。……布に包んでたけど、ほのかに温かった」
翠はなぜか眉を顰め、被害者面を浮かべている。服に汚れが付いていないか、確認し始めた。こーゆー時、黒だと見にくいんだよなぁと困った表情を浮かべている。
「あんたね、一応言っときますけど、人にうんこを投げるんじゃありませんよ……」
森之助のご注意に対して、翠は素知らぬ顔だ。それどころか、服は大丈夫そうだ、ちゃんと包めていたらしいと満足そうにしている。森之助の言う、一応の意味としては、戦場ではそこそこやってましたが、本当はダメですからねということである。翠の戦法において、馬や兵士等のうんこを投げることをそれなりに使っていた。翠曰く、使えるものを使って何が悪い、それにエコじゃんとのことだ。
「ルール無用でもかな?」
「倫理と道徳は捨てないでくださいよ」
「……ルール無用ってそういうもんじゃないの?」
翠は不思議そうに首を傾げた。ルール無用ってどれくらい卑怯で外道になれるかの勝負じゃないの?と不思議そうである。
「はぁ……」
森之助は大きくため息をついた。それでも、最低限のラインはあるでしょと森之助は言おうと思ったが、やめた。どうせ、何を言ってもなあなあにされそうだし、最終的に、まあ、勝ったからいいじゃんと丸め込まれそうだ。
「ちょっとあんた方いいですか?うちの参謀にルール無用何でもありの勝負を仕掛けないでくださいね!もう金輪際やめてください!何でもしますからね、この人!ホント、何しでかすかわかりませんよ!!」
森之助は大声で注意喚起をした。翠が変わらないのであれば、周りが変わるしかないのだ。翠はこの目的のためならば、何してもいいよという状況になると、そこまでやるかというくらい何でもする人間だ。そーゆーところで翠と団長は意気投合していた。戦場で策を練る時に、団長と翠がキャッキャっと楽しそうにしていると、たいてい最低最悪、心なし、人でなし、あるのは遊び心だけの作戦が出来上がっていた。もちろん、勝ち戦ではあったが……。
「で、誰のですか……?」
森之助はそういえばと興味本位でうんこの持ち主を聞いた。
「勝昭さんと正洋さん」
「誰……?」
森之助は首を傾げた。そんな人が翠の知人にいたのだろうか。頭の中に第七師団の名簿がスパパパッと出てきたが、該当者はいなかった。また後宮女官時代の知り合いか?と首を傾げた。
「うちの犬」
翠の屋敷には二匹の犬がいる。名前は翠がつけた。勝昭さんは真っ白、つぶらな瞳の大きな犬だ。伊達な雰囲気と茶目っ気がある。正洋さんは黒斑、垂れ目のやや小さめの犬だ。明るい性格でとても我慢強い。二人はよく喧嘩し、よく戯れ合う。とても仲が良いように見える。この二匹は、朝八時半くらいに起きて、ごはんを食べて、うんこをしているのだ。
「犬、飼ってたんですか」
森之助は目を丸くした。翠の屋敷を訪れたことはあるが、犬の姿を見たことはなかった。散歩中だったのだろう。というか、森之助には翠に動物を飼おうと思うやる気と甲斐性があるとはとても思えなかった。
「紫苑さんがくれた」
「へ~え~……」
森之助は半目になった。風の噂によると、紫苑はちょくちょく翠の屋敷を訪れているらしい。通い詰めているとも言う。そして、その翠の屋敷も元は梅家の物で、紫苑がなんやかんやして翠の手に渡ることになったそうだ。
「何、その目は?」
翠は訝し気に森之助を見つめた。
「うんにゃ……、別に」
へぇ、犬もらったんだ、へぇ……と森之助は言葉にできない思いを抱えた。
「…………なんなの?」
翠はさらに訝し気に片眉を上げた。
「ラーラーラ、ララーラ」
それでも、森之助は何も口に出せなかった。何を言えばよいのかわからなかったのもあるが、二人の関係に関しては、口を挟みにくい雰囲気があった。
翠は誰に対しても、対応にあまり変化が見られないとんでもない人ではあるが、紫苑といると少し違うと森之助は感じている。どこがと問われても困る。どれくらいと聞かれても気のせいかもしれない程度だ。だが、何だろう、ちょっと湿度が上がるというか、大人しくなるというか……。
何にせよ、紫苑と翠の間に立ち寄り難いものがあるのはたしかだ。それがどちらの影響かは不明である。




