31. そんな気分もあるさ
弓道場にて、おなじみのように紫苑が来たので翠は王様について聞いてみることにした。
「そういえば、優華様から陛下のお好きな物を聞かれましたよ」
「君に?」
紫苑は不思議そうに首を傾げた。
「ええ、紫苑様や元晴様から何か聞いていないかと。陛下の居心地がいいようにしたいんですって。熱心なお妃さんですよ、全く」
翠は空々しい台詞を吐いた。別に、熱心なお妃に胸を打たれて彼女のために紫苑に質問したわけではない。もしかしたら、これからまた誰かに聞かれることもあるかもしれない。その時のために何か一つ陛下の好きな物を知っていたら便利だろうと考えただけだ。
「それで君は何と答えた?」
紫苑は妙に怪訝そうに眉を顰めた。
「私にはわかりません、強いて言うなら快適な環境にしとけばいいんじゃないですか?くらいですね」
翠は珍しく自分の言ったことを覚えていた。
「それがいい。……陛下はご自分の好みは内に秘めていらっしゃる」
「それはどうして?」
「警戒心からだろう」
王様というものはしちめんどーで大変だなと翠は同情した。
「私は陛下の好きな物より、絶対ダメなことが知りたいですね」
厄介なことに決まりで明文化されているもの以外に禁忌はあるはずだ。翠は陛下の歓心を買うより、お怒りを避けたいと考えている。一発アウトで退場みたいなことが知りたい。この場合、退場は死刑か島流し(ほぼ確で道中に死ぬ) を意味する。それは勘弁だ。
「特にはないよ。……分を弁えればな」
何とも言えない顔で紫苑は微笑んだ。
「はははは、そうでしょうね」
これ寵臣冗句かな?怖と翠は笑みを引き攣らせた。翠も人のことは言えないが、紫苑も冗談が下手である。本気かどうかわかりにくいのだ。
「あとはそうだな……、ご両親のことに触れなければ大丈夫だろう」
「そうでしょうとも」
翠は深く頷いた。王様の父、つまりは先の国王陛下はあまり良い噂を聞かない。寵妃の春日の件だけではない。政治よりも茶碗に興味を抱いていたというのがもっぱらの評判である。そして、御母堂は王様が生んですぐに亡くなってしまったそうだ。身分の低い方だったらしい。
「私もあまり聞かれたくないですね」
翠も自身の両親についてはあまり突っ込まれたくはない。というか、そもそも、他人の家庭事情に立ち入るべきではないと考えている。
「父親は戦死して、……母親は後追いで自殺ですからね」
それでもなぜか、いつもなら話さないことを翠は紫苑にポロッと漏らした。こんなことを話しても気まずい沈黙がただ流れるだけ。変な気まぐれを起こしたものだ。
翠は愛し合った両親の元に生まれた。翠は髪の色、顔形は父に似ていたが、瞳の色の緑だけは母に似た。母曰く、翠という名は父が付けたらしい。父は緑色がよく似合うからいいだろうと照れくさそうに笑っていた。そんな穏やかで平和な暮らしは翠が八つの頃、突然崩れ去った。どこぞの国が攻めてきたとかで、父は戦争に行ってしまったのだ。母は父が心配でたまらないようで、毎日古びた仏像に祈っていた。いつ帰って来ても良いようにずっと待っていた。また、母一人子一人の状態のため、近くの飲み屋、くじらの店で働き始めたのもこの頃だった。母は父が帰って来るまでちゃんとしないとねと胸を張って笑っていた。
それから、父が帰らぬ人となった報せが届いた。母は信じなかった。父の戦友がやっとのことで持ってきた小指の骨を見ても、お墓を作っても、信じなかった。父の身を案じ、父がいつ帰って来てもよいようにしゃんと背を伸ばして、ずっと待っていた。ぼろぼろの仏像に無事を祈っていた。あの人はまだかしらねと少女のように、笑っていた。
ある日、母がいつものようにくじらの店に働きに行ったが、いつもと違った様子で帰ってきた。
「くじらさんったらひどいの……。あの人はもう死んだって言うのよ!」
母はひどく取り乱したように翠に縋りついた。
「……母さん、忘れたの?父さんは死んだんだよ」
耐えきれずに翠は言った。この機を逃せない。父の死を今伝えなければ母はもう戻ってこない予感がした。
「そんなことないわ。だって、帰って来るってやくそくしたもの、……嘘よ!!!」
「母さん、父さんはもうね」
「うるさい!!あっち行って!!!」
母は大粒の涙を流して怒鳴り散らした。翠は言われた通りにあっちに行った。夜が遅かったため、いつものように眠りについた。少し一人にしてあげた方がいいだろうと思ったのだ。そして、翠が目を覚まし、母の様子を見に行くと、彼女は首を吊っていた。母は翠が思うよりも、繊細な人だった。
母は父が死んだ事実に耐えきれなかったのだろう。だから、父の死を知らないままおわった方がよかったのかもしれない。心の底に後悔がこびりついている。
また、翠は外見は父に似たが、そのようなところは母に似たのかもしれないとおそれを抱いている。だから、大事な人が死んだ時こそ、その死を受け入れ、そして、どんな理由をつけてでも他にやりたいことを見つけて、悲しみから距離を置くようにしている。時間の流れは偉大であり、思い出しても懐かしく感じる時が必ずやって来る。その時までの暇つぶしが翠には必要なのだ。母は父が死んだ事実から逃げ、あの人はいつ帰ってくるかしらと緑の目を爛々と輝かせていた。そして、悲しみに追いつかれた母は、首を吊った。母の虚ろな緑色がこちらを見ている気がする。
「どうした……?」
物思いに耽っている翠を心配して紫苑は声を掛けた。
「いえ、……どうして優華様は今になって私に陛下のことを聞いたのかなと不思議に思いましてね」
翠は両親のことを考えていたと打ち明ける気持ちにはさすがになれなかった。
「……優華様も気が急いているのかもしれない」
「そうなんですか?」
たしかに焦っているような印象は感じたと優華の様子を思い返した。
「後宮に入って暫く経つと皆一様に早く子どもが欲しいと焦り始める。ちょうどその時期なのだろう」
紫苑は今までの統計からわかりますーみたいな鼻につく言い方をした。
「もしくは、御父君が圧をかけているのかも……」
「圧?」
「陛下は鈴蘭家だけに財政を任せず、徐々に分配している。彼らが危機感を抱いていても不思議ではない」
「なるほどー」
たしか、鈴蘭家は国の財政を担っていると聞いた。一国の財布事情を一つの家に代々握られているのは国王としては嫌だろう。何とかして分散させたいのだろう。一方、鈴蘭家は権力を維持し続けたいはずだ。だから、娘を次の国王の母、あるいは空席の王妃の地位に座らせ、鈴蘭家の影響力の維持・拡大を目論んでいても、何らおかしいことではない。
「優華様の御父君はどんな方ですか?」
「えっと……」
紫苑は難しい顔をした。顎に手を置き、眉間に皺を寄せている。かなり答えづらそうだ。
「動物に例えると?」
翠はよくわからない助け舟を出した。
「…………狸」
紫苑は絞り出すように言った。
「そーですか」
父は狸、娘の優華は何だろうか、あれと翠は悩ましく思った。何にせよ、紫苑は狸みたいな年配の人を相手にしているのだろうか、大変そうだ、よくわからないけど!と翠は他人事のように知らんぷりした。




